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かこまれて暮らす


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5歳の頃に住んでいた、鶴来・新町の家は大きな家だった。


前方は店になっていて、通り庭をすすむと、囲炉裏のある、吹き抜けのオエになっていた。

典型的な商家の造りで、自在鉤(じざいかぎ)には鉄瓶が掛かっていた。


                   ※ オエ:民家において大戸口から入った取付きの一室


オエの隅に大きな蓄音機があった。

小さめの冷蔵庫ぐらいの大きさだ。上部がプレーヤー部分、観音開きの下部はスピーカーになっている。


電気で動くわけではない。手回しのゼンマイ式だ。

ゼンマイに力のあるときは速く、次第に遅くなるという、今日では考えられない代物である。

針は鉄針で、レコード毎に交換していたように思う。 


ボリューム調整などなくとも当時の音楽好きには堪えられない逸品だったろう。 


急逝した叔父は手入れの行き届いた愛機を聴くとき、

波瀾万丈だった人生にあって、しばしの至福を味わったに違いない。


エボナイト製のレコードで聴く「碧空」は叔父の心にどんな風に響いたのだろうか。

他に、「ドリゴのセレナーデ」「幻想即興曲」「ショパンの小品」などあったのも覚えている。


「軍艦マーチ」を鳴らすと、「MPがやってきて検挙されるぞ」と言われた時代だった。


私の音楽・オーディオ好きもルーツはこの頃にあると思う。

止められなければ一日中でも同じレコードを聴いているこどもだった。


いま、寝る間も惜しんでオーディオの調整に励む姿は5歳の頃とどこも変わっていない。


基準にしている音も幼いとき聴いた「碧空」であるような気がする。

「かこまれて暮らす」影響というのは実に大きなものだ。


作曲家の池辺晋一郎氏も幼いとき家にあったピアノで遊んでいたと語っておられた。

「雨のテーマ」「花のテーマ」などまったくの遊びで音を作り出すのが好きだったという。


家族のピアノが傍にあった。そこから始まったということだろう。

才能があったのは勿論だが、才能を開花させる土壌としての環境、空気がそこにあったことを忘れてはならない。


最近は音楽もインターネットでダウンロードして買い求めるという。

確かに便利ではあるし、省資源ということにもなろう。店が近くになければそうせざるを得ないということもある。


しかし、ダウンロードした情報をハードディスクに入れておいて音楽的感性が育まれるものだろうか。

五感すべてに訴えかける「物」がそこにあってこそ感性が芽生え、育ってくるのではないだろうか。


CDを並べるということの意味もそんな所にあると私は信じる。


理屈ではなく、「物」がただそこにあるという風景を大切にしたい。


私にとって、面倒なCDの手入れもまた、紛れもない「音楽の世界」である。


ネットで本が読め、あらゆる情報を取得できる時代には図書館は不要なのだろうか。


あの佇まい、あの凛とした空気、そこに集う人々がそれぞれに「答え」を探し求める様を見て、

おおいに感化された思い出は誰の中にもあるだろう。


その空気こそが図書館と考えるのはもはや単なるノスタルジーに過ぎないのだろうか。








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危険ゾーン


情報操作は今に始まったことではない。

アメリカ追従の小泉政権下、市民の声はメディアによってかき消されていった。

そして2010年の民主党代表選挙では魔女狩り的な小沢潰しをなしとげ、

第4次小泉内閣ともいうべき菅政権が誕生し、その後、野田政権を経て自公政権が復活した。


批判することを知らない庶民は「良さそうに見える人」に盲従して行くのみで、

その行く末まで考えようとはしない。


自分を自殺に追い込むのが実は「良さそうに見える人」だったとは気づきもしない。

庶民の味方のような顔をして近づいてくる者には最も警戒すべきである。


社会全体が揃って同じ事を言うようになったとき、うさん臭いと眉につばをつけるべきだ。 

 
 
そんなときは必ず裏がある。先人たちからの遺言だ。


「検察は正義である」


「政府は我々の暮らしをよくしてくれる」


「メディアは中立である」


などという幻想から人々は解き放たれなくてはならない。


市民による国家なのかという検証も不十分なまま、

裁判という国家権力の行使に裁判員という形で与することは

政府・検察の犯罪に荷担させられるだけだ。


一定の距離を置き監視していくべきで、当事者にさせられては批判する自由も取り上げられると言うことだ。

これをファシズムの芽生えと捉えるのは私の妄想だろうか。


虎の威を借る狐にだまされてはならない。

ウサギの仮面をかぶった狼を見破らなくてはならない。


ひとりひとりが自由にものが言える社会、すべての人が心豊かに暮らせる社会を棄ててはならない。

自由であることを放棄してはならない。逃げ出してはならない。


第2次大戦後、社会は最も危険なゾーンに入ってきた。





以下はイラク戦争当時のTBS報道番組「サンデーモーニング」に送った意見


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「検閲将校」


「新聞はそれで一致してます」

岸井何某の一言で議論はいつも冷水を浴びせられたように静かになる。

まるでそれ以上の議論は無用といわんばかりだ。


権力とは一線を画し、社会が誤った方向へ行くことに警鐘を鳴らす、

それがジャーナリズムと思ってきた私にとって

政府の後押しを表明する岸井何某や彼の言う「新聞」をはじめとする「メディア」とは

何なのかまったく理解できない。


政府の代弁をし 番組が政府批判という方向に走らぬように目を光らせているようにも映る彼の言動は検閲将校

を彷彿とさせ、

自由な議論や政府批判がしづらくなってきている現在の社会を反映しているように感じる。


ファシズムが始まっている、そんな気がする。


スポーツのご意見番はおもしろいが自由な議論のご意見番は半世紀前にいなくなったと信じたい。

お目付け役が存在する番組は「御用番組」との批判に甘んずるべきだ。


「放送」は所詮資本家の市民コントロールの道具に過ぎないということか。








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海外から情報を


現在私が使っているラジオは SONY ICF-SW77 という製品で、価格は 74,800円。

以前は SONY ICF-2001D で聴いていた。 価格は 69,800円。

(音質も感度も 2001D を凌ぐ製品はいまだにない)


「何でそんな高いラジオを・・・」といわれることがある。

「それってラジオ?・・・」ともいわれる。


確かに今日では 天気予報を聴くだけのものなら1000円代で買える。

このラジオは保険なのだ。




戦時中はラジオは大本営にすべてを握られていた。

報道される「真実」は大部分が捏造されたものだった。


そして庶民は何の疑いもなく、報道される「真実」のために戦いに駆り出されていった。

「真実」が「大本営製」であったと知ったのは戦後のことである。


歴史は繰り返す。

必ず同じ日がやってくると確信していた。

報道が捏造され、言論が封殺される日々は必ずやってくると思っていた。


資本家と、それに買収された政府は市民を食い物にする・・・この構図が未来永劫変わるとは到底思えない。

見えざる体制の誘導から解放されるためには世界で起こっていることに無関心であってはならない。


磯村尚徳氏がキャスターを務め「ニュースセンター9時」の放送が開始された。

この番組を見て非常に危険なものを感じた。ニュースを演出して伝えていたからだ。


画面に映る人との一体感を感じさせるアップ画面の多用、取材を受ける人の用意されたようなコメント、

ドラマを感じさせるような話題の展開・・・等々。


「ありのまま」ではなく、「わかりやすく」にシフトしていた。

「わかりやすく」は感受性が同じであってこそ成り立つ。


底に流れている思想、哲学が異なれば当然受け止め方も千差万別だ。

「わかりやすく」とは結構難しいものだ。


しかし、メディアが用意した「わかりやすい情報」に慣れ親しんでくると

感受性、思想の同一化、均一化が進んでいく。

ここにこそマスメディアの危険がある。


「ニュースセンター9時」からは明らかに制作者側、体制側の意図が見てとれる。

「ああ、日本はいつか来た道をあゆみ始めた」そう思った。


情報源の多様化を図るべくBCL用のラジオを購入した。


いつの日かこのラジオでしか「真実」を知ることが出来なくなる日が必ず来る、そんな気がして・・・

1974年のことだった。


1974年といえば、小野田寛郎陸軍少尉、フィリピンルバング島から帰還、

ウォーターゲート事件でニクソン大統領辞任、

金脈問題で田中角栄首相が辞任し三木武夫内閣が発足した年だ。


「いつか来た道」とは


「ニッポンジン」「挙国一致」「非国民」「愛国心」という言葉が復権をはたし、軍隊が市街地を行進する。


正確な情報を発信しようとする者を危険分子として排除する。


社会の隅々にまで監視網ができ、政府にたてつく者を監視する。


政敵を捏造した事件で抹殺する。


言論界を買収し、異論を唱える言論人の締め出しをはかる。


私は戦前、戦時中のことを書いたつもりだが、読む人はの今日と読んだのではないか。

今はそんな日々になってしまったということだ。

この社会は今また言論統制のまっただ中にある。




情報源は多い方がよい。

私のラジオは世界中の放送が聴ける BCLラジオ である。 いわば「世界への窓」だ。


FM(76~108MHz)、LW、MW、SW (150KHz~30MHz)をカバーしていて、

半分は雑音を聴いているときもあるのだが、ニホンでは聴けない情報、音楽にあふれている。


現地の言語がほとんどだが、中にはニホン語放送もある。

言語はわからずとも、現地の音楽を聴いているだけでも世界は広く、つながっていることを実感できる。


閉鎖された社会ではコスモポリタニズムは生まれない。

体制を思い通りにしたいと願う者達はメディアを最大限利用する。これに乗せられてはならない。


幸いなことに今はラジオだけでなく、インターネットもある。


私などは日本の出来事を海外のメディアによって知ることが多い。


無論、メディアはメディアである。

眉につばをつけてという姿勢が不可欠なのは同じである。


私たちは行間を読む洞察力と言外に語られる真実を見抜く器量が日々試されている。



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エリア外の放送は聴くことができない「radiko」ですが、有料で一部の局が聴ける

プレミアムサービスもあります。


サイマル・ラジオ
http://www.simulradio.jp/


らじっ娘
http://www.cosmosoft.org/Radikko/


で地方の局を聴くことも可能です。


また、「筑波大学 学術実験」のVPNを利用してエリア外の放送を聴くこともできます。


VPN Gate 学術実験サービス
http://www.vpngate.net/ja/








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クリーンなイメージ ???


「クリーンなイメージの岡田氏を幹事長に・・・」


かつて民主党代表戦を制した菅直人氏が発言した。これほど国民を馬鹿にした発言があるだろうか。

メディアが(で?)作り上げたイメージを背景に政治を動かす姿勢にはあきれてしまう。


彼は代表選挙のときも清廉な立場を貫いた市川房枝氏の名を何度も口にした。


営業マンを評価するとき 他人の名を出し 自分や自社を語る人間は警戒せよ というのは常識だ。

他人のイメージを利用し錯誤に陥れる手法は詐欺にも等しく、最も恥ずべき行為である。


自分の生き方に誇りと責任のある人は決して他人の名を利用しようとはしない。

論理的ではなくイメージで政治を語る指導者には最も警戒せよ、先輩たちから厳しく言われたものだ。


調べてみると 市川房枝氏の著書「私の国会報告」(1977年)に次のような記述があった。


   「菅氏は1976年12月5日の衆議院選挙の際、東京都第7区から無所属候補として立候補した。

   このときは立候補をしてから私の応援を求めて来た。

   そのとき推薦応援はしなかったが、50万円のカンパと秘書らが手伝えるように配慮し、

   『自力で闘いなさい』といった。


 
   ところが選挙が始まると、私の名前をいたる所で使い、

   私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、

   その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要したらしく、

   私が主張し、実践してきた理想選挙と大分異なっていた。」


また 1970年6月、市川氏や平塚らいてう氏など9人の女性が発表した、

安保条約の廃棄を訴える声明には次のようにある。

 


 「いまだに沖縄をはじめ全国にアメリカの軍事基地があり…

  外交にまで介入されることを許したまま今日になっております」


 「わたしたちは、自分たちの運命を自分たちで支配する権利のあることを思いつめたい」


これらを見るとき 菅直人氏には市川房枝氏の精神を受け継いだという形跡はないどころか 

市川房枝氏が強い不信感を抱いていたことがうかがえる。


その市川房枝氏の名を連呼し 政治的に利用したのだ。

かたや清廉な市川氏の後継者、かたや金権腐敗の剛腕政治家という図式を作り上げ

党員・サポーターを錯誤に陥れた。


菅陣営とメディアが一斉に反小沢キャンペーンを繰り広げ、

イメージだけで物事を判断し本質を見抜けない国民を騙した。


今や「政治とカネ」と言えば小沢一郎氏の名が必ず出てくるほど 小沢一郎氏の「イメージ」は悪い。

「反小沢」、「脱小沢」といえば支持率が上がる。


しかし 「反小沢」「脱小沢」というときの「小沢」とはいったい何なのか、

はっきり答えられる人を見たことがない。


メディアが悪いと言っているからきっとそうなんでしょう・・・という具合だ。


政治資金規正法違反と大騒ぎするが 実際に規正法がどんなものであるのか多くの人は語れない。

世論とは所詮このようなものだ。


検察が動いているからと言っても 

厚労省局長の事件でもわかるように その捜査には疑いの目を向け続けなければならない。


国民はもっと賢くならなければならない。


以前 ロッキード事件で田中角栄氏が失脚した。

そして今 小沢一郎氏がメディアに叩かれている。

この二人に共通するものを考えれば 国民は本当の政治の図式に気付くべきだ。


二人に共通するのは「脱アメリカ追従」だ。鳩山由紀夫氏もそういう考え方だ。

「政治とカネ」の問題ばかりに国民の目を向けさせ、

本質を隠そうとするメディアがある以上 この国には民主主義は育たない。


この国は形の上では独立国だが 実態はアメリカに完全に支配されている。

暴力的な映画を見せられ続け アメリカの好戦的な価値観を植え付けられ続けている。


アメリカで評価される事が一流の証と思い込んでいる文化人、スポーツ選手のいかに多いことか。

世界はアメリカだけではなかろうに。


「9.11」はテロだ、と言われれば そのまま信じ 

反テロのための戦争を容認する政府・国民は誠に愚かと言うしかない。


アメリカの戦争の片棒を担ぎ、郵政民営化の名のもとに 

国民の財産をアメリカ資本に差し出した小泉のような男で無ければアメリカのご機嫌を損じるのだ。


いつの内閣でも拉致問題担当大臣が置かれる。欺瞞もたいがいにしろと言いたい。


解決できないのに国民の目を気にしてパフォーマンスだけの大臣設置など無用だ。

日本政府が逆立ちしても拉致問題は解決できない。する気もないだろうが・・・・・


拉致問題は単に北朝鮮非難キャンペーンに使われているだけではないか。

拉致被害者の会は頼る相手を間違えている。


北朝鮮と友好的になってもらっては困る勢力がある以上、絶対に解決はしない。


極東に前線基地を確保しておくことはアメリカの死活に関わる。


米軍基地不要論を唱える輩を排除するためなら どんな手段を使おうと 

金をいくら使おうとかまわない というのがアメリカの戦略というものだ。


極東には米軍が必要であると思い込ます工作をするのがCIAの任務であることを

認識しておかなくてはならない。


緊張を煽ることが利益につながる軍需産業がさらにこの図式を後押ししている。


軍需産業には不況はない。不安や不満を煽れば予算はどれだけでも出てくる。

敵がいなければ作ればいい・・・・それだけのことだ。敵などいない。


軍を背景に世界経済を制覇しようとする図式こそが敵だと言うことを知らなくてはならない。

世界に貢献しているのではない。軍需産業やアメリカの巨大資本に貢献しているだけだ。


彼らにとっては戦いに勝利することはさほど重要ではない。軍需産業が潤う事が第一なのだ。


漁船に衝突したり、鯨を潜水艦と間違うような間抜けな自衛隊であろうと

彼らにとってはそれほど大事なことではない。


自らを知り相手を正しく認識することが軍事の基本だが 軍需産業に貢献するだけの軍では国を滅ぼすだけだ。

70年前の日本を思い起こして欲しい。


エネルギーのほとんどを外国に頼り、食料自給率が40パーセントの国が

軍事に重きをおくようになれば国の存続は望めない。


全方位外交、世界の恒久平和だけがこの国の安泰を約束してくれることを忘れてはならない。


本当の軍人なら戦えぬ事をよく知っている。

「兵法の極意は戦わぬ事にあり」とした先人の言葉は重い。

(徳川政権初期の兵法家の言葉は今でも生きている)



メディアの退廃がこの国をおかしくしている。

若い芸能人が夜の公園で全裸でいた事をトップニュースにするような感覚はどこから来るのか?


報道番組といいながら何の見識もない人間がおもしろおかしくコメントを出したり、

ニュース解説という名の一方的な見解をながし続けている。これでは情報操作だ。


今やメディアは大本営発表を聴くときのように眉につばをつけて聴かねばならない時代になった。


メディアは正確な状況判断ができる材料を市民に提供して欲しいのだが・・・


メディアの本質は市民コントロールにあるという事を肝に銘じておくべきだ。

メディアを支配する者が社会を支配する厳然たる事実に目をひらくべきだ。


政治家には功罪両面がある。その両面を検証し、正しく評価しなければ社会を危うい方向に導いてしまう。

好き嫌いで判断するのは危険だ。


そういう意味では田中角栄氏に対しても小沢一郎氏に対してもニュートラルな視点で評価される事を期待する。

生け贄を作り、国民をミスリードするようなことがあってはならない。


政局を画策する連中はすぐ「政治とカネ」を過大に取り上げようとする。

「政治とカネ」問題も一方で正論ではあるが 正論がよい社会を作るとは限らない。


そんなことに明け暮れている間に日本の国際的評価は下がる一方ではないか。

社会は疲弊し 毎年3万人以上の自殺者が出ている。将来像を描けない若者は結婚もできない。


批判を恐れずに言えば 自殺者ゼロにしてくれるなら 

少々金に汚かろうと女にだらしなかろうと私は応援したい。

人の命は何よりも大事なのだから・・・


もとより政治家に聖人君主像を求めるつもりはないし、白紙委任するつもりもない。

昨日より良くしてくれさえすればそれでいい。その連続だ。


菅、野田、安倍・・・内閣はかわってもアメリカ追従、大企業優遇の政治は何も変わらない。

2009年の衆議院選挙は何だったのか。

せいぜいアメリカの傀儡政権と言われない政府であって欲しいものだ。






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Y君


短い大学時代だったが、今でも記憶に残っているひとがいる。


声の大きなY君だ。最初の頃の印象はけっして良くはなかった。

学内でよく見かけるのだが、いつも先輩たちと連れだっている。


聞こうとしなくても、彼らのやりとりは離れていてもよく耳に入ってくる。


「先輩、一本いいですか」


「先輩、ティッシュいいですか」


「先輩、石鹸いいですか」


Y君といえば、そんな風景しか連想できないひとだった。


なんといえばよいのか、世渡り上手というか、たかり上手というか・・・

将来、金をためる人とはこんな人のことだろうと思えた。


はっきり言って、あまり付き合いたいとは思えなかった。

他人事ながら、ほどほどにすれば・・・という思いで見ていた。


ある日、学生食堂で寮からの弁当をひろげているとY君たちが目に入った。

ところが、それはいつもの光景ではなかった。


「先輩、昨日ありがとうございました」


一本のたばこを先輩に返しているY君の姿だった。


「えっえ~ !」


驚きというか、ためらいというか、先輩の困惑が伝わってくる。「かわいくない奴 !! 」といった表情だ。


私自身も、どちらかといえば、「おごり、おごられる」文化派かもしれない。程度をわきまえてではあるが・・

たかられる以上に付き合いづらい、と一瞬思った。


しかし、Y君には哲学があった。


ひとづきあいに「貸し」「借り」をつくっては永いつきあい、対等なつきあいができない。

彼はそのことを先人たちからたたき込まれていたのだ。


思えば彼は、多くの大商人を輩出している土地の出身だった。

どんなにささいな「借り」であっても、それが常態化すればやがて大きな圧力になって自身の自由を奪う。

幾多の試練を乗り切った商人たちが遺した教訓だろう。


人間関係を大切にしたい思いがあればこそのY君の行動だった。

まだ10代の私だったが、生意気にも、「この男は信頼できる」と感じた。




心地良い関係というのは実はかなり怪しげなものであって、

一見、厳しく見えるひとこそ、こちらの人格を認め、対等な立場を大事にするひとではないかと思ったことである。


何故か最近、無性にY君の顔がおもいだされ、彼を育てた土地に想いが募る。








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いのち


近年、目につくのは「死刑になりたかった」という理由で犯罪に走る人たちの存在だ。

相手は誰でもよかったというから被害者はたまらない。


死刑と自殺とを同じ次元で考えている幼稚さも問題だが、

社会全体に "いのち" を軽く考える空気が蔓延している現状がおそろしい。


犯罪を犯した側にのみ目が向けられるが、彼らは何も特異な人種だったわけではない。

その日まではどこにでもいる市民だった。そんな彼らが犯行に走った。そのことの「何故」が問われないまま、

糾弾し、排除したところで社会は何の解決策も見いだすことはできない。


犯罪は悪だ。いのちを大切に・・・その言葉が建前だけであるからこそ、そんな中からまた犯罪者が出てくる。

彼らは異次元空間から突然現れたものではない。


この国はこれから死刑制度を考えよう、ということではない。既に制度はある。それでも犯罪は後を絶たない。

制度の有無と犯罪発生とには何の関連性もない。


制度がなければ犯罪が増えるという主張は妄想の域を出ていない。

死刑制度は犯罪の抑止力になるといってきた人々は論拠を失っている。


くわえて、死刑になることを目的とする犯罪が起き続ける現状である。

死刑制度が犯罪の抑止力になると主張するなら世論の批判に対して論理的に反論すべきではないか。


しかし、制度存続をいう人々はこういう事態に発言しようとはしない。


彼らは "いのち" について深く考えたこともなく、思いつきや一時の感情だけで発言してきた人たちだ。

善と悪という2次元的な思考で人生を捉え、万事それで解決できると信じてきた人たちだ。

反論できない現実を突きつけられては、痴呆症を装うか、死んだふりをするしかないのだろう。


死刑制度がなければ少なくとも死刑志願などという、この種の事件が起きることはない。制度存続の罪は重い。


いのちを大切にと言いながら「殺せ」と言う。この奇妙さに気付けないのであればその人は精神を病んでいる。

死刑制度を存続させること、そのこと自体がいのちを軽視していることに他ならない。

そのことに気付けないで「死刑 死刑」と叫んでいる人こそが明日、向こうの被告席に座ることになる。


事件が起こると識者は必ず「いのちを大切にする教育」をと言う。

学校の教育現場を想定してのことらしいが的外れもいいところである。


社会全体が「生きる」ことを支援しているならホームレスの人々などいないはずだし、

それらの人々を薄汚いゴミのように街から追い出そうということもない。


正規労働者と非正規労働者の待遇を見るとき、

この社会には他人を踏み台にして生きる人があまりにも多いことに気付く。


「勝ち組」「負け組」などとメディアは表現する。しかし、正々堂々と勝負したわけでもなかろう。

搾取し、一方的に切り捨てているだけではないか。それは犯罪ではないのか。


永年社会を支えてきた人が病気になったとき、多くの人は「国に裏切られた」という思いを強くする。

入院したとたん、次の病院を探さなくてはならない。 そして、行った先でも落ち着けるわけではない。


女性ジャーナリストE氏は、

「終身刑は経費がかかる、死刑制度は廃止すべきではない」と自身のホームページで述べている。

このひとの人間観はいったいどうなっているのか。どんな少女時代を過ごしたのだろうか。


「いのちを大切にする教育」が必要なのは学校ではない。


死刑制度は国家による殺人であり、殺人教唆である。

この殺人教唆である点に注目する人は少ない。死刑制度を語るとき、人は実に無責任だ。

罪を犯したんだからしかたないんじゃない? 当然よ。などと平然として言う。


そんな人に私は言いたい。


       では、執行ボタンをあなた自身の手で、しかも一人で押せますか?

       永年の刑務所暮らしで今はすっかり改悛し、聖人のようになっている人を刑場に送り、

       あなたの手で執行ボタンを押せますか?


死刑制度は必要と考える人は人間としてこの問いかけに答える義務がある。 

生涯重い十字架を背負って生き続けなければならない刑務官がいることに思いが至っていないのではないか。

自らが刑務官に対し殺人を教唆するという自覚を持たなければならない。


何年か前にこういう刑務官がでてくるドラマがあった。演じたのは俳優小野武彦。


「私は人を殺しました」彼の台詞が今もって胸に重い。

彼は役としてではなく、人間小野武彦としてこの重いテーマに向き合っていた。

生涯、死刑囚以上に辛い日々を送らねばならない姿は真に迫っていて鳥肌が立つほどだった。

「仕事」とはいってもあまりにむごい事だ。


いのちを大切に考える人なら、法律があるから、仕事だからと無機質に行動することはできない。

公式に当てはめるように「死刑」を言い渡すことはできない。


今、その無機質なありようが問われていることに気付けないようではあまりにさびしい社会ではないか。


「死刑制度は必要」そう考える人は鏡の前でそのことを口にしてみたらいい。

眼前に映るおぞましい自分の顔を見るだろう。それは犯罪を犯した人間の顔とそっくりなはずだ。      


何より気づくべきは、私たちは「自」も「他」も無い世界に生きているということだ。

自他などと分けて考えるから「赦す」とか「赦さない」とか言ってしまう。


「赦す」は、そのまま「赦される」であり、「赦される」は、そのまま「赦す」である。

いのちを大切にするということは、自他など無い「ひとつの世界」に気づくことである。






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生き残り術


季節外れで恐縮ですが・・・






              雪の朝二の字二の字の下駄の跡

                                捨女




下駄には「一本歯」なるものがある。修験者などの履く高足駄だ。

現在でも武術家が足腰鍛錬のため使用している。

しかし、一般的にいえば下駄はやはり2本歯だろう。


「何で?」と問えば「そんなバランスの悪いものが履けるか 子どもにも解ることだ 馬鹿にしないでくれ」

と、いわれるだろう。


ところが、そんな子どもにも解るはずのことが解らないのも大人だ。




私は永年、鋼製建具を製造する零細企業で働いてきた。

大手サッシメーカー資本であるわけだが実態は零細企業だ。

オーダーの建具ということはかなり特殊な業種になる。


アルミなどの既製品ではライバル関係にある企業から受注することも日常茶飯事である。

仕様が厳しく定められている役所工事のノウハウがあってみれば受注も集中するわけだ。


受注先が多岐にわたることは工場としては悩みの種でもある。お盆や年末年始の直前は大変である。


各社の営業マンが自分の担当工事を優先的に進めて欲しいと言ってくる。

時には同じ会社の営業マン同士で優先順位を争うこともあって険悪な空気になることさえある。


それぞれに「この物件だけ」とお願いされて工場は悲鳴を上げることになるわけだ。

受注担当も対応は難しい。これまでの実績、今後の予測、ハプニングが起きたときのための保険・・・等々、

さまざまを勘案して順番を交通整理することになる。


近隣に同業の会社があった。製品の完成度、熟練した職人の技、製品内容の豊富さ・・・

どれをとっても我が社などは足元にも及ばない業界では評価の高い会社だ。


某サッシメーカーのみの受注体制をとり、都会の有名な建物の工事を独占していた。

受注先が一社ということは製品の仕様も一定しているわけで、

主要材料の大量買い付けでコストを下げることも可能だし、共通部品も予め準備しておける。

納期の管理も容易で、私たちの会社のような悩みなど無い。


ところが、その会社は倒産した。

製品作りにおいては抜群の同社も企業のあり方の根本を見誤っていた。


私が入社した頃、大事件が発生した。

S社が受注した大きな工事のため、他の受注を見合わせその工事に備えていた。


ところが、S社の受注は営業マンの希望的観測に過ぎなかったことが判明した。

結果、1ヶ月の仕事が無くなってしまった。

受注担当は真っ青だ。日本中を駆け巡って仕事探しに奔走することになった。


まだ青二才の私は生意気にも常務に対して企業戦略の必要を説いた。

どんなことが起きようとも会社の存続を図らねばならない。


零細企業は全方位外交をとるしかない。一社に重きを置けば会社の存続を危うくする。そんなことを力説した。

一社あたりの受注額を定め、どんなにいい仕事に思えてもその枠を越えないよう進言した。


その結果、受注は大きな柱を4つとし、目安として受注額の70パーセント、

残る30パーセントをその他の小工事とした。


柱がひとつでないことは発注先を牽制できることでもある。こちらの能力次第では発言力もつく。

零細企業にもそれなりの生き残り術、意地があるということだ。


おかげで工場運営は一変した。多品種少量はさらに進み、納期管理も煩わしくなった。

しかし、受注先が多岐にわたることはノウハウの蓄積もできるわけで、悪いことばかりではない。

結果としてなんとか生き残っている。




さて、我が国の現状はどうか。

食料もエネルギーも安全保障もあまりにバランスを欠いた事になっていないか。


現状は先方の無理難題を呑み込まざるを得ない状況を自ら作っているように見える。

一本歯の下駄など不安定で履けるはずがないと一笑した人たちもこの国の基本路線大綱についてデザインを

描き直すべきではないだろうか、


自由経済ではある。が、放置しておけば一極集中になるのは市場原理からいって当然のことだ。

それでいいのか。


食料を押さえられていたのでは、

やがてその国の潜水艦が瀬戸内海を浮上航行しても抗議すらできなくなるということだ。

人口も多く、経済力もある、そんな国を無視はできない。


しかし、軸足をそちらに置いたのでは甘く見られるだけだ。

国債を保有していても、「いつでも手放すぞ」と脅しをかけていなければ国の存続はない。


にこやかな笑顔で握手しながら脅しをかけ続ける、小国の生き残る術だ。外交とはそんなことだろう。

「あんただけじゃないのよ」と時に冷たく微笑む女性にこそ男は惹かれるものだ。(アホやなあ)


経済諮問会議などのような政府が主催する会議のメンバーといえば、大企業のお偉方がずらりと並ぶ。

が、本当にこの国を支えているのは技術面でも意欲の面でも中小零細企業だ。

町工場の技術がなければ携帯電話もロケットもあり得ない。

今は国家運営という面でさえ、零細企業の生き残り術が必要な時代である。








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福島 世界最悪の海洋汚染の罪


福島 世界最悪の海洋汚染の罪
http://www.youtube.com/watch?v=ecA-z8fW7ps&feature=relmfu

福島メルトダウンは、海の "世界最悪の"核汚染につながっている
http://www.treehugger.com/energy-disasters/fukushima-meltdown-has-led-worlds-worst-nuclear-pollution-sea.html

福島県防災世界最悪の原子力海洋汚染
http://www.youtube.com/watch?v=P5cEswpSnmM

海の福島核汚染は '世界最悪でした "
http://phys.org/news/2011-10-fukushima-nuke-pollution-sea-world.html





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ようこそ ”とべないポスト ” へ 




管理人の えちごや智 ともうします

我が家の屋号が 越後屋 であり そこの 剱  智 ( つるぎ さとし )ですので

そう 呼ばれています


コメント欄を設けていないのは ひとえに 対応力に限界があるためです 


記事の転載・引用については 全文掲載 & 転載元を明らかにする旨 お願い致します


転載元の表記は 次の三つの ひとつ以上を お書きください


     とべないポスト


     えちごや智


     URL http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/








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カタログの読み方


研がずに使える包丁があったらどんなに楽だろうと思った。

果たしてそういうものがあった。


広告には


「研がずに使える」


「切れ味は、メーカーによって20年間保証されています。

 その間に、正当な理由によって切れなくなる事があれば、無料で交換します」とある。


値段は安いとは言えないが、研がなくて良いというのは魅力だ。

いつでも交換に応じるのもメーカーの自信だろう。

早速、購入した。


が、そのあと私はカタログの読み方を勉強し直すことになった。

よく見ると、広告には「切れ味がいい」とは一言も書いていない。


「切れ味は20年間保証」を「切れ味がいい」と解釈したのは私の思い込みだ。勝手な早とちりだ。

「切れなくなる事があれば・・」は「購入時よりも切れ味が落ちたら・・」の意味だ。


購入時と同じ切れ味であれば、消費者が「切れない」と感じても交換に応じる必要はないと言うわけだ。

広告文にはひとを錯誤に陥れる悪意の痕跡はない。

せいぜい、こういう広告には気をつけなさいと言うことだ。


そんなわけで、今は打刃物の包丁をせっせと砥石で研いでいる。




私のオーディオ歴も20年を越えた。

オーディオの世界でも上記の包丁と同じような事が多々ある。


オーディオ雑誌やカタログにはいわゆる評論家と言われる人々の論評が掲載されている。

機種選びをするときの参考になる・・はずなのだが、

どうもこれを鵜呑みにすると「印象が違う」ということがよくある。


専門家のプライドもあり、決して間違ったことは書いていない。

しかし、慣れてくると書かれていない項目があることに気付くようになる。


評論家もメーカーあってこその立場であるわけで、

メーカーの「売り」の部分にはスペースを割くが「もうひとつ」という箇所については語ろうとしない。


後年になって、


「今度の新製品はあのときの弱点を克服した 素晴らしい」と、なるのだ。


だからといって、評論家を責める人はいない。

オーディオが趣味と公言したからには「眼力」の無いことは恥ずかしいことだからだ。

安い買い物ではない、「眼力」の無い人は立ち入るべきでないのだ。十分に耳を養ってからにすべきだ。




エネルギーの選択についても市民は賢くなければならない。

専門家、政治家が推奨しようが、問題点を検証できる「眼力」が無ければ騙されることになる。

見せかけだけのコストを見せられ、背後にある膨大なコストを見逃しては、

そのツケで自分たちが苦しむ羽目になる。


「CO2は出さない」からといって、温暖化防止になるとは限らない。

原発は紛れもなく、巨大な「湯沸かし器」であって、海水を温め続けている。


太陽光や風力も同じように検証していかないと原発の轍を踏むことになる。


詐欺の被害に遭った人はその後何度でも被害に遭うものだ。

資本家は自分たちの利益のためには他人を言葉巧みに騙し続ける。




育ちの悪い、ひねくれ者からの言葉です。


    騙されないためにこそ勉強しよう。 知識がない者は他人に利用されるだけだ。








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大丈夫か__ 文化圏を越えた多国籍企業のものづくり


ボーイング787のトラブルが相次いで報告された。

航空会社は機材のやりくりができず運休にまで追い込まれる始末。

株価も大幅に下落している現状は「事故」に匹敵する深刻な状況だ。

原因の究明が急がれる。


ボーイングは今やアメリカの企業ではない。

ボーイング787は機体の70%近くを国外メーカーを含めた約70社に開発させる国際共同事業である。

日本も35%分担しているという。


大勢の人が関わっていく事業の中で「認識の違い」が起因するミスというのは起きないものだろうか。


むかし第2次大戦を舞台にした映画を観た。

その中で、巧みに現地の市民になりすましたスパイが情報機関に捕まった。

完璧に思えた「なりすまし」も思わぬミスで正体が露見するという話だった。


スパイはその国のひとたちが服のボタンをどのようにつけるかまでの認識はなかったのだ。

当たり前すぎるほど当たり前のことに人は注意を払わない。

ここにこそ落とし穴がある。


交通機関の発達で世界は身近になった。しかし、文化の垣根は依然として大きい。


言葉の通じない国に行っても身振り手振りでなんとかなるさ、という人もいる。

が、身振り手振りほど怪しげなものはない。何とかなることは決してない。

こんにゃく問答」に終始するのがオチである。世界はまだまだ広い。


企画書通りに設計し、設計図通りに作業していく、どこに問題が起きるのだと人は言う。

ところが問題は起きる。製造現場とはそうしたものだ。


文化の違いは常識の違いであって、これが設計図の見落としにつながることは想像に難くない。


よく見ればわかるだろ、といっても後の祭りということは製造現場ではよく起きる。

私自身、苦い思いを何度も体験している。


文化圏を越えた多国籍企業のものづくりは資本家が考えるほど容易ではない。

慎重を期さねば大事故につながる。


しかし、一国で行なう事業とて決して油断はできない。

アメリカは度量衡に関して国際社会から孤立している。

自分たちこそ世界の盟主と思い込んでいる前時代的な感性の社会だ。


昔、とんでもない理由でロケットの打ち上げに失敗したことがあった。

推力が足りず、直後に落下、炎上した。

燃料が予定された量だけ入っていなかったのだ。


係員はリットルとガロンを取り違えていたのだった。お粗末 !!

単位は統一されるべきだ。



常識は指示書、設計図を見えなくする。



             ※ 米国液量ガロンは約3.78リットル。








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こんにゃく問答


たがいに別の話をしているはずなのに、どういう訳か話はつじつまが合ってどんどん進展していく。

日常では時折こういう会話が成り立ってしまう。

それぞれの思い込みや勘違い、自分に都合のよいように解釈するから食い違いに気付けない。


時に意図的にこの錯覚の会話に引きずりこまれることも・・・・・ ご用心、ご用心 !!





落語「こんにゃく問答」は二代目林屋正蔵の作と伝わる。

にわか坊主の蒟蒻屋六兵衛が、旅の僧にしかけられた禅問答のしぐさを蒟蒻の出来具合だと思い、

とんちんかんなしぐさで答えているうちに禅僧を負かすという話。

多くの名人が演じ、録音も残る。





江戸で食い詰めた「熊」が、田舎住まいをしている「六兵衛兄ィ」のところへ転げ込む。


悪い遊びで髪の毛が抜けてしまった「熊」をみて、


今は蒟蒻屋を営んでいる「兄ィ」は、無住になっている村はずれの破れ寺の住職にはめ込む。

熊と寺男が庫裡で酒盛りをしているところに、訪なう声。


熊公が出てみると旅の僧


   「拙僧は諸国行脚の雲水。ご当寺門前を通りましたところ“不許葷酒入山門”とありますれば禅家と拝察。


    修行のため一問答願わしゅう存じます」。


               葷酒山門に入るを許さず  (くんしゅ さんもんに いるをゆるさず)


                  くさいにおいを放つ野菜と酒は、浄念を乱し修行の妨げになるので、

                  寺の中へ持ち込んではならないこと。

                 「葷」においの強い葱や韮・にんにくなどの野菜のこと。


驚いたにわか住職の熊公が、一所懸命居留守で追い払おうとするが、旅の僧はテコでも動かぬ構え。


困り果て六兵衛に相談すると、知恵者の彼は「無言の行」でやればよかろう、


と和尚になりすまし応じることにする。


さて、本堂で対面し、旅の僧はいろいろ問うが、和尚もちろん無言。


旅の僧は、さてはと察し、やおら両の手の指で小さな輪を作り、胸の前からズイと突き出す。


和尚も何を思ったか、手にしていた払子代わりのハタキを襟に刺すと、

これも両手指で大きな輪を作って押し戻す。


旅の僧、ハハッと恐れ入り、今度は両手を広げて突き出す。


対する和尚は、片手を開いて応える。


旅の僧、再度低頭し、必死の形相で指を3本差し出す。


和尚、すかさず人差し指で右目の下まぶたを引きながらベロをだす。


旅の僧、「到底拙僧の及ぶところにあらず。両三年修行を致しまして……」とあわてふためいて退散する。


驚いた熊公、逃げ帰ろうとする旅の僧をつかまえ、一体どうなっていると尋ねる。


旅の僧答えて、


   「さては禅家荒行の内、『無言の行』中と拝察し、されば無言には無言にて問わんと、


   『大和尚、ご胸中は?』とお尋ね致しましたるところ


   『大海の如し』とのお答え、まことに以て恐れ入ったる次第。


   続いて、


   『十方世界は?』とお聞き致しましたるところ、


   『五戒で保つ』とのお答え。何ともはや……。及ばずながら今一問と存じ、


   『三尊の弥陀は?』との問いには、たちどころに


   『目の下にあり』と……。


   まことにもって愚僧など遠く及び申しませぬ。今一度修行して出直して参ります。


   御前体、なにとぞよしなに……』


と走り去る。


「何だ、心配させやがったけど、兄ィ、てえしたもんじゃねぇか」と熊公が意気揚々本堂に引き返してくると、


偽和尚「やい、あいつを逃がしちまったのか」とカンカンになって怒っている。


またまたびっくりした熊公が、どうしたと聞くと、六兵衛和尚曰く、


   「あいつは諸国行脚の雲水なんてとんでもねぇ。どっかの豆腐屋かなんかの回し者に違ぇねぇ。


    何を訊いても知らん顔をしていてやったら、俺の顔を穴のあくほど眺めてやがって、


    ははあこれは蒟蒻屋の六兵衛だなと気づきやがったとみえて、


   『おめぇんところのコンニャクはこれっぽっちだろう』 というから、


   『うんにゃ、こんなにでっけぇ』 と言ってやった。そしたら


   『10丁でいくらだ?」 と値を訊いてやがる。少し高えと思ったが


   『五百(文)だ』 とふっかけてやったら、しみったれた野郎じゃねぇか


   『三百にまけろ』 と値切ったから


   『アカンベエ』 をした」

                
               


「近いうちに解散」

「一定のめどがついたら、、、、」

ふたつの内閣で似たような言葉が相次いだ。


間抜けな、失礼、人のよい政治家は自分の勝手な解釈で会談を終えてしまった。

確認作業を怠るという詰めの甘さが後の混乱を作っている。

何ともお粗末な話だ。


暗黙の了解、いわずもがな、武士の情け、、、、

日本の政界で好まれる言葉のようだが、このあいまいさが禍根を残すこととなる。

嫌な奴と言われようと、最後の最後まで気を抜いてはならない。


若いとき、先輩たちからこのように教えられた。


「仕事というもの 9割は確認作業だ やり直しなど無いのだと思え」


9割か8割かはともかく、仕事に臨む心構えとして胸に残っている。




昔、とんでもない理由でロケットの打ち上げに失敗したことがあった。

推力が足りず、直後に落下、炎上した。

燃料が予定された量だけ入っていなかったのだ。

係員はリットルとガロンを取り違えていたのだった。お粗末 !!



             ※ 米国液量ガロンは約3.78リットル。





蒟蒻問答・古今亭志ん朝

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これでいいのか選挙のしくみ


投票率の低さが言われるようなって久しい。

ひとが集まれば何らかのかたちで必ず話題になる。


何処かの国のような100パーセントの投票率も問題だが、

わずか30~40パーセントの投票率で選ばれたひとが政治を行なっていいものだろうか。


30~40パーセントの支持ではない。

これで民意を反映した政というなら傲慢である。


「若い世代が動かない」 政治意識の高さを自負するひとびとはそう言って顔をしかめる。

しかし、動かないのはむしろ私を含めた旧世代だと思われてはいないだろうか。


考えてみれば暮らしに関わるさまざまなことを決める "方法" は私の幼少期も今も基本的には

何も変わっていない。

選挙で選ばれたひとが集まり、多数決でものごとを決めていく。


確かに選挙制度はすこしずつ変化してきてはいる。

小選挙区制が導入されたし、参議院の全国区も無くなった。


しかし変わらないのはいつの時代でも多数を占める勢力が自分たちに有利に働くような制度を作ることである。

2次元的な思考を繰り返し、小手先で制度をいじくっていても民意を反映しない "方法" は何も改善されない。


多数決が民主主義の基本である、そう信じている人は多い。本当にそうだろうか。


51パーセントのひとが49パーセントのひとの意志を抹殺してしまう、これは本当に正しいことなのだろうか。


町内会の各班の中で棄てられていった意見がある。

校区の中で棄てられていった意見がある。

自治体の中で棄てられていった意見がある。


そうして出来上がったものが県レベルの意見と言うのであれば、

そこでいう民意というのは虚しさの結晶でしかない。




オーディオ雑誌に時折アンプのランキングが発表されることがある。

その年に販売された機種の中から評論家といわれる人々が優良製品を投票で選んでいくというものだ。


しかし、ここで上位にランクされた機種が多くのひとの共感を得るとは限らない。

趣味の世界ということもあろうが、全員が「良い」と選んだ機種ほどつまらないものはない。


確かに一定の水準にはある。

しかし、「馬鹿ちょんカメラ」などと揶揄される全自動のカメラで撮った画像がもの足らないのと同じで、

結局は誰の満足も得られない。


ひとり一票で投票するとこういうことが起きてしまう。




総意を求めていく投票のやり方もさまざまな方法があることを学ぶべきだ。


投票用紙にひとりの候補者の名前を書くということが定着しているが、

あの人もこの人も選びたいと思ったことは無かったろうか。

逆に、あの人だけは絶対に選ばれてほしくないと思ったことはなかったろうか。


     ひとりの名前を書く


     複数の名前を書く


     すべての人を持ち点で評価する


etc さまざまな工夫が議論されてよいはずだ。

投票を2回行なうことも議論されてよいだろう。




この「死に票」の多い制度が改善されたとしよう。それでも問題は残る。


私たちは立法府の議員を選ぶ。そこで法律を作っていくと教えられてきた。確かにそうではある。 
 
が、基本的なところを押さえておかなければならない。


正確に言えば、官僚が作った議案を妥当かどうか議論しているだけでしかない、ということだ。

議員立法というものもあり、提出される議員が大変なご苦労をされていることもよく知っている。


しかし、基本的には上記のような図式だ。

「賛成」「反対」「修正」のほかに選択肢が無いとしたらどうだろう。

いとも簡単に恣意的に方向付けられていくように思うのはあまりにうがった見方だろうか。


「他に必要な法律があるだろう」という有権者の素朴な思いとかけ離れたところで

メディア監視法は成立してしまった。


「そもそも論」というか、「哲学」というか、

大切なものがないがしろにされたまま霞ヶ関発信の議案が国会で討議されている。

これは民主主義政治といえるものなのだろうか。


民意の反映という極めてあたりまえのことについて私たちは今一度検証すべきである。


「若い世代は政治意識が低い」と批判するのは簡単である。

しかし、彼らのメッセージを正確に読み切れないでいては投票率は限りなく "ゼロ" に近づくのは間違いない。








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検閲将校


イラク戦争当時、TBS報道番組「サンデーモーニング」に送った意見



「新聞はそれで一致してます」

岸井何某の一言で議論はいつも冷水を浴びせられたように静かになる。

まるでそれ以上の議論は無用といわんばかりだ。


権力とは一線を画し、社会が誤った方向へ行くことに警鐘を鳴らす、

それがジャーナリズムと思ってきた私にとって

政府の後押しを表明する岸井何某や彼の言う「新聞」をはじめとする「メディア」とは

何なのかまったく理解できない。


政府の代弁をし 番組が政府批判という方向に走らぬように目を光らせているようにも映る彼の言動は検閲将校

を彷彿とさせ、 

自由な議論や政府批判がしづらくなってきている現在の社会を反映しているように感じる。


ファシズムが始まっている、そんな気がする。


スポーツのご意見番はおもしろいが自由な議論のご意見番は半世紀前にいなくなったと信じたい。

お目付け役が存在する番組は「御用番組」との批判に甘んずるべきだ。


「放送」は所詮資本家の市民コントロールの道具に過ぎないということか。






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パロディー  シロアリ演説


マニフェスト イギリスで始まりました

本音と建前があるんです


書いてないことでも強引に実行する

書いてあることでもやらないんです

それが本音の政治です


書いてあることを全部正直にやれという

これ おかしいと思いませんか


自分たちは政治や経済の勉強何にもやらないで

政治家の言葉を無警戒に受け入れてしまう


それは政治家を見る目がない というふうに

ぜひ みなさん思っていただきたいと思います


その一丁目一番地

脱対米隷従は許さないということです


自主外交を許さない 独立は許さない

それを徹底していきたいと思います


原発はアメリカのビジネスです

我が国に54基の原発があるということは アメリカ企業の既得権です


原発パテント料に アメリカ企業がぶら下がっている

資本家の利益がかかっているんです


それなのに 原発を再稼働しないで

対米協調路線を進めるんですか


くわえてTPP交渉不参加になったら

また強硬な対日政策に出られるかもしれません


漢さんが今後も原発を輸出する といったのは

そこがあるんです


自主外交派を退治して 抵抗勢力をなくして 政敵をなくす

そこから始めなければ アメリカ資本擁護の話はおかしいんです


徹底して脱対米隷従派をなくしていく

それがわが党の考え方であります


Fox_4

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あの人の シロアリ演説



Siroari_4

マニフェスト イギリスで始まりました

ルールがあるんです


書いてあることは命懸けで実行する

書いてないことはやらないんです

それがルールです


書いてないことを平気でやる 

これ おかしいと思いませんか


書いてあったことは四年間何にもやらないで

書いてないことは平気でやる


それはマニフェストを語る資格がない というふうに

ぜひ みなさん思っていただきたいと思います


その一丁目一番地

税金の無駄遣いは許さないということです


天下りを許さない 渡りは許さない

それを徹底していきたいと思います


消費税1%分は2兆5千億円です

12兆6千億円ということは 消費税5%分です


消費税5%分のみなさんの税金に 天下り法人がぶら下がっている

シロアリがたかってるんです


それなのに シロアリ退治しないで

今度は消費税引き上げるんですか


消費税の税収が20兆円になったら

またシロアリがたかるかもしれません


鳩山さんが4年間は消費税を引き上げない といったのは

そこがあるんです


シロアリを退治して 天下り法人をなくして 天下りをなくす

そこから始めなければ 消費税を引き上げる話はおかしいんです


徹底して税金の無駄遣いをなくしていく

それが民主党の考え方であります



http://www.youtube.com/watch?v=qmZoWlsr76o








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そもそも、そもそも論が欠けていないか


国際基準(IAEA)の防災対策、ストレステスト、防潮堤かさあげ、原子力規制委員会の設置・・・・

これらを安全対策ととらえる人々もいるようだ。


ものを考えなくなった大衆を騙すのはかくも簡単だということか。

どれも原発推進のために行なわれることではないか。安全とは真逆の方を向いている。


IAEAほど怪しげな機構もない。

核の平和利用といいながら、一方でプルトニウムの蓄積を許し、核兵器開発能力を温存させている。


結局は「現在の核保有国以外は核兵器を作らせませんよ」というだけのことだ。

核技術の独占を図るための機構であって、平和的な組織とはとても思えない。


超大国の思惑の範囲内で核の利用を認めますよ、つまり、原発を買ってくださいというための機構だ。


反原発、脱原発をいう人々が何でIAEAに信頼を寄せるのか、私には理解できない。

日本政府の「ただちに健康に害はない」という詐欺まがいの言葉よりましだろうという受け止め方は

非常に危険だ。彼らこそ原発推進団体に他ならない。


活断層の再調査が問題になっている。

人々はこれで廃炉が見えてきた、と事態がよりよい方向に動くと信じている。


それは希望的観測というものであって、単なる願望でしかないことを知らなくてはならない。

私は多くの人ががっかりする結論になる可能性がきわめて大きいとみる。


結果を握っているのは調査を行なう側だ。

再調査を命じられたのが電力会社であってみれば結論はもう決まっている。


電力会社の調査に瑕疵があれば、あらゆる立場の人を動員して国が再調査すべきだろう。

保安院は満足な調査も出来ない連中をもう一度信じるという。

ビジネスの世界では考えられないことだ。


一般の企業なら再調査などという費用のかかることは容易には呑めない。

コストを製品単価に反映できなければ倒産しかねない。


しかし、電力会社は痛くもかゆくもない。

日頃から飼い慣らした政治家や、役人たちが企業の存続を図ってくれることをよく知っている。


今回は国民の根強い反発を感じた保安院が演技して見せたに過ぎない。

保安院はやはり原子力ムラでしかないということだ。


多額の費用をかけたものをやすやすと手放す資本家が存在するほどこの社会は美しくはない。

希望的観測は雨乞い神事のようで何の合理的解決にもならない。


各地で行なわれた意見聴取会のことが問題になっていた。

電力会社の人間が発言したとかどうとか・・・

騒ぎ方が間違っていないか。


「通過儀礼」であることは最初から見え見えではないか。


国として核エネルギーの放棄、あるいはエネルギー政策を白紙に戻すと宣言することが

議論のスタートではないか。

その上での意見聴取会であろう。


核兵器開発の魂胆を隠し、国是といって核エネルギー政策を進めてきたことを総括もしない政府が

どんなパフォーマンスを見せようと彼らの用意した土俵に引きずり込まれてはならない。


マークシート方式の試験に慣らされた人々は三者択一の議論ということ自体に違和感がなかったのだろうか。

これは誘導であり、その時点で「やらせ」と気付かなくてはならない。


くじ引きということ自体が怪しいものだが、別室で行なわれたとなるとそれは抽選とは言わない。

発言内容も事前に審査されているということは発言者の人格とは関わりなく「やらせ」というべきだ。


恣意的に行なわれる意見聴取会で発言できたと満足しても、それは自己満足でしかない。

政府に方針を変更する気など端から無い。


応募者全体の意見比率を無視し、主催者があらかじめ枠を設けるのはいかがなものか。

それぞれの発言者に対して均等に機会を与える意見聴取会のやり方は

国会の委員会審議でこそ実施して欲しい。


最終的には多数決で決められるのである。委員全員に存分に発言させるべきと考える。

ハードルを二重にかけるのはやりすぎだ。


あまりに短い発言時間は国民の負託を受けて参加している議員の身分を無視することであろう。




三択で思い出した話・・・


私は石川県だが、若いときから富山県のかたがたと仕事上のお付き合いがあった。

隣の県ではあるが、県民性の違いというものはあるようだ。


例えば数人でレストランに入るときなど・・・・

メニューを見て「えっ たっかい!!」と思ったことはないだろうか。


   松が5000円、竹が3500円、梅が2500円


そんなとき金沢の人間の多くは「うーんと そうだな 自分 竹にするかな」という。

内心は梅でも高いと思っているのにだ。


しかし、私の知る富山県人のほとんどは


「すみません メニューって これだけですか」


と店の人間に確認する。


その場の雰囲気に流されない堅実な生き方、金銭感覚は私も勉強になったことである。








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断層再調査ではなく ただちに廃炉へ


原子力マフィアはその資金力で政治家を買収し、学者を飼い慣らし、メディアを乗っ取っています。


事故は収束していません。「福島」は終わってなどいません。現在進行中です。危機も去っていません。


社会が特定の勢力で歪められています。


様々なエネルギーが語られてよいとは思います。

が、利用する面だけではなく、環境負荷も同時に論じて欲しいものです。


核エネルギーを語るなら事故をきれいさっぱり解決し、

廃棄物の問題もすべてクリアーしてからにして欲しいものです。


福島はいうまでもなく、チェルノブイリも終わってなどいません。

福島もチェルノブイリも核戦争と同じ結果が起きているわけで、核の傘理論は実質破綻しています。

政治家は机上の空論をもてあそぶべきではありません。

現状に目を向けず核を議論のテーブルにのせること自体、あってはならないことです。


活断層再調査、一見すると安全の確認であり廃炉させるためのステップとも見えます。

はたしてそうでしょうか。そういう思惑通りに事は運ぶでしょうか。


再調査を求めることは原発存続を前提とした動き以外の何ものでもありません。

あらゆる戦術で脱原発を、、、と言いたいのかも知れませんが

「活断層ではない」と結論されたときどうするのでしょうか。


「活断層があるから危険」それはその通りですが、原発反対の根拠をそこにおいていると

「活断層ではない」と結論されたとき反対の根拠を失うことになります。

それでよいのでしょうか。

やはり正攻法でいくべきと考えます。

処理できぬ核廃棄物問題、温排水による環境破壊、陰に隠れた膨大なコスト、

見え隠れする核兵器問題・・・・十分すぎるほどの攻め手があるではありませんか。

それに活断層再調査の費用は消費者にまわってくるわけでこれも困ったものです。


「即刻、廃炉に!!」これでよいはずです。


安全ならばいいでしょ・・・という敵の用意する土俵に引きずり込まれてはなりません。

活断層再調査は原発存続のための世論対策に過ぎません。


活断層であるか否か学者の最終確認を待つ必要もありません。

学者同士の論争は将来にわたって好きなだけやっていただけばいいことです。


大切なことはいのちと暮らしを預かっている「政とは何ぞや」ということです。

誰のための何のための政かをわきまえているかどうかです。


政にグレーゾーンはありません。政に携わる者が心しておかねばならないことです。

白でなければ黒と判断すべきなのが政です。学問的探求の世界ではありません。








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世界の終末 ???


2012年世界の終末論というのがあった。

私自身、もとよりそんなものには何の関心もない。

新聞等でそういうことがいわれていると見ただけで内容はまったく知らない。


2012年12月21日だったかで地球が終わるといった人々は

今どのようにお過ごしだろうか。


キリスト教文化とは関係があるとは思えないが、何故かこういう話はいつも欧米からやってくる。

地域性、民族性が影響しているようにも思う。


古今東西、終末論は後を絶たない。

救世主を待望する思想もある。

宗教を神秘主義、権威主義で語ろうとする姿勢がある以上、この種の話は今後も続くだろう。


最近になって「終末の日」とされる根拠がどうやらマヤ暦にあったということを知った。

マヤの暦では2012年の12月幾日かで終わっている・・・故にそれ以降の文明はない、

ということだったようだ。


はぁあ? おい おい おい そんなんで地球の終わりと言ってきたのか。

あまりに幼稚すぎる考察にただただ驚くばかりだ。


今の暦では12月32日はない。ではその先地球の文明は無いとでもいうのか。


中国や日本では十干十二支(じっかんじゅうにし)といって60をひと区切りとする考え方がある。

60年経ったら元へもどる。還暦である。


人間が便宜的に作り出したものである以上、暦は有限の数で表される。暦とは元々そうしたものだ。


アメリカでは「終末の日」で休校が相次いだと報道されていた。

アメリカの精神文化はどうなっているのか。




「七つの海」という言い方がある。

ここでいう「七つ」とは日本で言う「八百屋(やおや)」「八百万(やおよろず)の神」の

「八百」と同じで「すべて」とか「多くの」という意だと学校時代に教わった。


また、幻のアトランティス大陸を探し求めている人もいるそうだ。ご苦労なことだが、

「大陸」という言葉が現代の意味と同じかどうかの検証から始めなければ大きな誤解に陥る。


自分の空想、願望が先走る人は入り口からして大いなる間違いを犯すことが多い。

マヤ暦の幼稚な解釈もこの延長線上にある、およそ学問とは言えないものである。


終末論がまことしやかに語られるというのは人々が事の本質を見極める力のない時代であり、

いとも簡単に誘導される危険な時代であることを忘れてはならない。




マヤ文化については金沢大学の中村誠一教授がお詳しい。参考にされたい。


       マヤ文明に挑むマヤ考古学者 中村誠一

       http://www32.ocn.ne.jp/~maya_copan/


       中村 誠一


       マヤ考古学者。金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センター教授。

       早稲田大学比較考古学研究所客員教授。

       サイバー大学世界遺産学部客員教授。


       マヤ地域で数多くの考古学プロジェクトを指揮し、2000年世界遺産のホンジュラス・コパン遺跡で、

       アクロポリスの外では初めてとなる「王墓」を発見。


       マヤ調査史上、最大規模のヒスイ製胸飾りなど、

       その出土品は日本やアメリカのマヤ文明展覧会に出展された。


       2006年ホンジュラス大統領より文化功労章を受賞。

       隣国グァテマラでも、世界遺産のティカル遺跡やキリグア遺跡で調査・保存に協力している。


       『マヤ文明を掘る-コパン王国の物語-』(NHKブックス)、『マヤ文明はなぜ滅んだか?』

       (ニュートンプレス)など、これまでに発表した著書、論文は多数。




騒動いろいろ


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2012年12月21日に予言されていた「世界の終末」は起こらなかった。

多くの人々が、懸念を抱いたが、ロシアの学者ユーリー・クノロゾフがいなければ、

世界の終末を知る者は誰もいなかったかもしれない。クノロゾフは、マヤ文字を解読した。

マヤ暦には、2012年12月21日がXデーであると記されていた。

クノロゾフは、マヤ文字は音節を意味していることを発見した。

作家のオレグ・シシキン氏は、これはマヤ族の文字を研究するうえで突破口を開いたと述べ、

次のように語っている。

http://japanese.ruvr.ru/2013_01_07/100304589/


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どうやら我々は生きのびることができたようだ。「世界終末の日」は訪れなかったのだ。

5000年以上続く古代マヤの長期暦がこの12月21日をもって途切れてしまうということから

取り沙汰されてきた終末論は、現実のものとはならなかった。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/36837


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中国:当局、宗教「全能神」警戒 マヤ暦「終末論」で混乱

毎日新聞 2012年12月26日 19時22分(最終更新 12月27日 00時02分)


世界各地で騒ぎとなった古代マヤ暦の終末論は中国社会にも影響を及ぼし、各地で混乱が相次いだ。

河南省信陽市で今月中旬、社会に不満を抱く男が児童23人に切りつける事件が発生すると、

中国メディアは「終末10+件論に触発された」と報じ、

終末論を広めた宗教集団「全能神」への警戒感をあらわにした。

背後には、社会不安をあおりかねない全能神への取り締まりを強化したい中国当局の思惑が隠されているようだ。

http://mainichi.jp/select/news/20121227k0000m030040000c.html (既に削除)


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「2012年10+ 件12月21日11:11に人類は滅びる」と世界中で騒がれたマヤ暦の終末説は、

結局、かつての数々の終末件説と同様に、何事もなく終わった。

デッドラインの午前11時11分を迎えた瞬間、世界では様々な表情が見受けられた。


世界で一番最初に12月21日を迎えたオセアニア諸国の一つ、オーストラリアの旅行会社には、

「生きていますか?」と、終末説を本気で信じている人々からのメールが殺到した。


イギリスでは、世界最後の朝日を見に、たくさんの人がストーンヘッジに集まり、最後の宴を開いていた。

また、友人と賭けをして、世界が滅びたら5万ポンド(約700万円)を手にする予定だった男性は、

ばつが悪そうに顔を真っ赤にしていた。

(仮に世界が滅びて、賭けに勝っていたとしても、おそらく、彼がそのお金を使うことはできなかったと思うが。)


台湾では、悪ノリして、科学博物館の前にマヤのピラミッドのレプリカを作り、

電光掲示板まで設置して、世界の終わりをカウントダウンした。

無事、何事もなく11:11が過ぎると、人々は手をつないで飛び上がって喜んだ。


フランスにある人口わずか189人の小さな村ビュガラッシュは、

UFOのガレージがあり、世界が滅びた後に人間を他の惑星に運んでくれる世界で唯一、

世界滅亡から免れられる場所とまことしやかに囁かれ、21日までに何百人もの終末論者が押しかけ、

フランス憲兵が派遣される騒ぎになっていた。

21日当日も、テーザー銃を持っていた者を含む5人のヒッピーがフランス警察に取り抑えられた。


NASAまでもが、「世界は終わりません!どうか落ち着いて!」

と警告を発するほど大騒動に発展した今回の終末説は、振り返ってみれば、

マヤ暦に直接関わりがある人々以外にとっては、ただのお祭り騒ぎに過ぎなかったようだ。


マヤ遺跡が残る地域では、何も起こらなかったことを、「新しい時代の幕開け」と前向きに捉えている。


ホッとしているのも束の間、巷では、早くも次の終末説が囁かれている。

http://news.mynavi.jp/c_cobs/news/terrafor/2012/12/post-4334.html


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世界は2012年12月21日に滅亡しません!米政府が公式発表

2012年12月10日


 [シネマトゥデイ芸能ニュース] 

世界は2012年12月21日に滅亡しないとアメリカ政府が公式サイトUSA.govで見解を表明している。

この2012年12月21日世界滅亡説は古代マヤ文明が予言したもので、

ローランド・エメリッヒ監督のディザスター映画『2012』などでも題材にされている。


 21日が近づくにつれインターネット上で終末説がささやかれるようになったことを受け、

アメリカ政府は「彗星が大変動を引き起こす、惑星が地球に衝突するというようなことはありません」

と数々のうわさを否定。「世界が2012年12月21日もしくは2012年中に滅亡することはありません」と断言した。


 2012年終末論を真に受けているアメリカ人は数多くいて、

NASAには世界の終りを危惧する手紙が何千通も寄せられているとのこと。

NASAのある科学者は「11歳ぐらいの子どもたちから週に1回は

『世界の終りが近付いているために気が滅入って自殺を考えている』

という内容のメッセージをもらいます」とコメントするなどなかなか深刻な問題になっているようだ。

それだけに今回アメリカ政府が公式の声明を出すことになったのだろう。(編集部・市川遥)

http://www.cinematoday.jp/page/N0048524


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「終末の日」で休校相次ぐ、米ミシガン州 銃乱射事件が影響 


【AFP=時事】マヤ暦に基づく「世界の終末」とされる21日を迎えるにあたり、

米ミシガン(Michigan)州で20、21日の両日を休校とし、クリスマス休暇の開始を早める学校が出ている。

米コネティカット(Connecticut)州の小学校で児童ら26人が射殺された銃乱射事件を受け、

これを真似た事件が起きるのではとのうわさが広まったためという。


 ミシガン州ラピーア(Lapeer)郡では全学区で20日からの2日間を休校とし、

ホッケーの試合など22日に予定されていた課外活動も全て中止した。

学区を統括するラピーア・コミュニティー・スクールズ(Lapeer Community Schools)の

マット・ワンドリー(Matt Wandrie)氏はウェブサイトで、

うわさに根拠はないが生徒、教師、学校、保護者たちの懸念が非常に強く授業に差し支える状態なため、

休校が適切だと判断したと説明している。


 同州ジェネシー(Genesee)郡でも、郡内全ての学校で20、21日を休校となる。


 全米の学校では21日朝、コネティカット州ニュータウン(Newtown)のサンディフック小学校

(Sandy Hook Elementary School)で起きた銃乱射事件で犠牲となった児童20人、

職員6人を悼み黙とうの時間を設けることにしているが、

休校措置を取るミシガン州の学校ではこれも実施されない。【翻訳編集】 AFPBB News

http://news4int.blog.fc2.com/blog-entry-1575.html








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デッキのある家


1998301


わが家を新築したのが98年の3月。

県の河川改修事業に協力するかたちで鶴来町より転居したものだ。

500戸はある新しい住宅団地の中にあってもひときわ目をひくユニークな造りといえるかもしれない。


公園に面した側は家の長さいっぱいにとったひさしの深いデッキ。

そこが玄関にもなっているのだが家の側面へスロープで降りられるようになっていて

足の不自由なかた、車いすのかたを想定した造りになっている。


「すべてのひとを迎え入れる家」とした家づくりの基本コンセプトは

形としての家だけではなく、多くのひととの出会いの "場" をねがってのことでもある。

人生は出会いからはじまる。それを形にしたかった。


公園に面していることもあってたちまち注目の的となった。


「なかはどうなっているんや」


「いっぺん はいってみたい」


こどもたちは思ったままを口にしてくれるのでわかりやすい。

デッキのベンチを公園の延長ととらえているのだろう。

何人かこしかけてゲームなんかしている姿をよくみかける。


「雨の日はここ使ってください」


そういってご近所の幼児の運動場に解放しているのだが、

日ごとに力強さを増していくヨチヨチ歩きの音は2階の部屋で聞いていておもわずこちらの顔もほころぶ。


きのうなどは見かけないお顔の来客があった。

こちらからカーテン越しに見ていることなど気にとめる様子もなく足を投げ出してお昼寝をしている。

どうも自分のエリアと決め込んでいるふしがある。

事前のことわりはなかったはずだが「千客万来」ってことで、ま、いいか。


多くのひととの出会いのために作ったスロープだったが、

そこから車椅子の母を連れ出すことになろうとは思いもしないことだった。


07年の晩秋、突然に末期癌を宣告され病院通いが始まった。

スロープがなければ車椅子の人間を私ひとりで車に乗せることなど到底できることではない。

パニックになっていたろう。


おだやかに晴れた昼下がり、車椅子のまま散歩に連れて行くこともできた。

私の人生で最もきびしい時間であったが最もしあわせな時間でもあった。


すべてのひとを迎え入れる家はほかでもない私たち自身を迎え入れてくれる家であった。


きょうも手をふりながら行き交うこどもたちの笑顔があった。

そんなおだやかな街のなかにデッキのある家は建っている。






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沈黙の螺旋


        ♪里の秋   


                    斎藤信夫作詞

                    海沼実 作曲



        静かな静かな 里の秋

        お背戸に木の実の 落ちる夜は

        ああ 母さんとただ二人

        栗の実 煮てます いろりばた



Q:何故、母さんと二人なのでしょうか。  父さんはどこにいるのでしょうか。



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高校時代の私たちは勉強の虫だった。

とくに2年生のときの28ホームというクラスは全員が向学心に燃え、寸暇を惜しんで参考書を読みあさっていた。

休み時間はといえば議論、弁当を食べながらも議論、登下校は歩きながら議論・・・そんな毎日だった。


断るまでもないが、そのことと"結果がついてくるか" とは別次元の話であって、

私たちの場合は多分にそうせざるを得なかったというのがあたっている。

勉強と相思相愛の間柄が理想であるわけで、片想いでしかないのは何とも切ない。


そんなクラスであったから学校全体から見れば "浮いた存在" だった。

よそのクラスの連中には青春を謳歌していない "嫌みな奴ら" に映ったに違いない。


校庭を歩いていると、どこからともなく石をぶつけられるということはよくあった。物が紛失するのもしょっちゅうだ。

卒業後、20年ほど経ってはじめて「あれってイジメだったのかも・・」と語り合うくらいだから、

何とも呑気というか、ピーカン気分の友たちだった。




"異質" であることはいつの時代でも "浮いた存在" になる。

ニホンのような島国で、共同作業を必要としてきた農業社会の中ではなおさらである。


"同調圧力" という言葉がある。何とも嫌なというか、こころの貧しさを感じるさびしい言葉だ。


「危険を知りながら、子どもたちへ伝えられない自分に耐えられない。彼らが被曝するのを見ているのもつらい」


そう言って高校を退職した宍戸俊則氏のことが2011年8月6日付の中日新聞に掲載されていた。

(おそらく東京新聞にも)

被災地の真実を伝えることに対して「不安を煽るな」と学校側から指導を受けたとある。


教師は学校に、学校は教育委員会に、教育委員会は文部科学省に同調することを求められる。

私の辞書ではこれを "強要" という。ファシズムとはまさにこれを言う。


理を説くのならまだしも、

たんに「同じ事をしていろ」というのは「赤信号であろうとみんなで渡ることが安全なのだ」

と言っているに等しい。非論理の世界であって、無謀きわまりない。


「不安を煽るな」とは言っても、何故か「安心を煽るな」とは誰も言わない。

誰が言わせているかはこのことによって明らかだ。


ネットは常に政府によって監視され、政府の言う「真実」を伝えるよう求められる。

ここまできても今の政府が危険であることを認識できないのであれば、これはもう "愚か" と言うしかない。


「自粛を求める」というおかしな言い方がある。

求められる、強要されることを「自粛」と答えれば八田教室では笑われる。強要されれば自粛とは言わない。


しかし、本当に気をつけなければいけないのは「圧力」なのではない。

「ファシズム」と闘ってきた我が党は・・・という言葉も時折耳にするが、

私たちをファシズムに引きずり込むのは他でもない私たち自身であることも忘れてはいけない。


ひとは肉体的にも精神的にも他者との関わりなくしては生きていけない。

とくに孤独感にさいなまれることは精神の死を意味する。


「共同感」「帰属感」をあたえてくれる暮らしがなければ、ひとは無性に不安を覚える。ここが大事だ。

自分にとって許し難い疎外感・断絶感・乖離を感じるとき、ひとは奈落の底に落ちていく夢を見る。

そんな無力感を麻痺させたい時こそ、最も危険な状態といえる。


ここにファシズムの導入口が大きく口を開く。


みんなで渡ることで恐怖心を押さえることはできても、赤信号が危険であることに何ら変わりはない。

孤立や精神的な孤独からの脱却は、愛や生産的な仕事の自発性のうちに他者と結ばれていく中にこそ

見いだされなければならない。


権力者が演出、用意する「連帯感」の世界の中ですべてが解決していくという幻想を見せられ、

擬似的な連帯感に浸っていては自ら「滅び」の道を歩むしかない。


「非国民」と言われるのが嫌だというなら、生涯にわたって後悔し続ける哀れな魂が自らの姿であることに

思い至らなければならない。




全体に従い、他人にも強要しておいても「あれは間違いでした」と謝った人が今までにいただろうか。

70年前のことは何もかもA級戦犯に責任をおっかぶせ、被害者づらしているだけではなかったか。


体育の時間にウサギ跳びをさせられ、「運動するときは水を飲むな」そう言われた。

しかし、そんな先生たちから「間違ったことを教えてしまった」という謝罪の手紙をもらったことはない。


すべてが同じ図式だ。「上層部から言われたことを伝えただけだ。それに従うしかなかった」と開き直るのだ。


被災地の真実を伝え、不安を訴える者に対してはケアをしていくべきで、

「不安」を起こさないために沈黙したのでは、自らも加害者であることを強く認識すべきだ。


沈黙はさらなる沈黙を招くのだ。これを沈黙の螺旋という。




メディアには「絆」「協調」「助け合い」「節電」の言葉が無機質に流されている。

放射能汚染の疑いのある食品も汚染など無いことにして、「風評被害の被災地を助けよう」などと

無責任に消費を呼びかけている。国や原子力村の責任追及などかすむ勢いだ。


笑顔や個人の道楽などもってのほかという空気がこの社会に蔓延している。

被災者も被災者らしくないのは嫌われる。ボランティアの芸能人にまで媚びを売っていないと叩かれる。

他人の生活には立ち入らない、自立のサポートのみをして遠くから見守るだけということは出来ないものか。


私などは、まったくの他人様にそう易々と「絆」などと言われたくはない。

それが原子力村でたらふく潤ってきた連中であってみれば腹立たしいだけである。


この空気、これが70年前にもあったのだ。


「欲しがりません。勝つまでは」


「銃後の護りは僕たちが」


と、言わされた時代があったことを忘れてはいけない。

忘れているからこそ今また同じ事を言わせれていることに誰も気付かない。



童謡「里の秋」はまさにそういう空気の中で作られた詩だ。

もともとは秋の情景を歌ったというより、「銃後の母子」ともすべき内容である。

貴重な歴史の証人ともいえる歌だ。

よく読んでみて欲しい。




高校2年の修学旅行は九州だった。

帰路は別府港からフェリーで大阪までの船旅だったが、

10代の若い連中がおとなしく船室で眠っているはずもない。

夜通し甲板で騒いでいた。


珍しいものが見えるたびに大勢の生徒が右舷へいったり、左舷へいったり。

心配性な私は船が傾きそうに思えて、そのたびに皆とは反対側に立っていた。

3000トンクラスの船が傾くことなどないことは頭では理解できる。

それでも条件反射的に体が動いたのを覚えている。


気がつくといつも議論している連中は私と同じ側でそれぞれ立っていた。





  
  

 

       ♪里の秋   
  
                          斎藤信夫作詞

                          海沼実 作曲


        1 静かな静かな里の秋

          お背戸(せど)に木の実の落ちる夜は

          ああ母さんとただ二人

          栗の実煮てます いろりばた


        2 明るい明るい星の空

          鳴き鳴き夜鴨(よがも)の渡る夜は

          ああ父さんのあの笑顔

          栗の実食べては思い出す


        3 さよならさよなら椰子(やし)の島

          お舟にゆられて帰られる

          ああ父さんよ 御無事でと

          今夜も母さんと祈ります


                             (1945年12月発表)




      戦前に作られた元々の詞  

      (元は 「星月夜」 として1941年12月に作られた)


  
        1 静かな静かな里の秋

          お背戸(せど)に木の実の落ちる夜は

          ああ母さんとただ二人

          栗の実煮てます いろりばた


        2 明るい明るい星の空

          鳴き鳴き夜鴨(よがも)の渡る夜は

          ああ父さんのあの笑顔

          栗の実食べては思い出す


        3 きれいなきれいな椰子の島

          しっかり護って下さいと

          ああ父さんのご武運を

          今夜も一人で祈ります


        4 大きく大きくなったなら

          兵隊さんだようれしいな

          ねえ母さんよ僕だって

          必ずお国を護ります








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文言で語る世界  文言でしか語れない世界


 大いなるものにいだかれあることを


             けさふく風のすずしさにしる
             


                            無文                            

                           



私たちは音楽を楽しむとき五線譜を用いる。

しかし、これほどアバウトなものはなく、アバウトであればこそ楽しむ余地があるともいえる。


五線譜が音楽のすべてを正確に表現できているのなら、そして演奏家がその通り正確に演奏しているのなら

マーラーの「巨人」のCDは世の中に1種類でいいはずである。


それでも「巨人」は多くの演奏家がそれぞれのCDをリリースしている。(我が家の棚には19枚並んでいる)

ニュアンスの違いはとても同じ作曲家の作品とは思えない。


                            
つまり、五線譜は音楽の世界を便宜的に表現しているに過ぎない。


作曲家の想いは便宜的な手法でしか伝えることはできないわけで、

作曲家自身の演奏以外は「似て非なるもの」というしかない。


設計と施工が異なるような現代の建築にあっては「設計図書」は重要な役割を果たす。


が、機械的に進めていけばよいように見える、本来は無機質な世界であるはずの建築界ですら同じ事がいえる。

「設計図書」通りに施工しました、と言っていては良いものはできない。

「設計図書」は設計者の意志を伝えるものであるが、設計者の「想い」「哲学」まで網羅しているわけではない。


ある現場でビスを直して欲しいといわれたことがあった。「ビスを直す?」意味が理解できなかった。

設計者はプラスビスの頭を「+」にしておくように言ったのだ。

「×」では自分のイメージとは違うと言いたかったのだ。


以来、「設計図書」を通して建築家が何を求めているのか、

どんな世界を描こうとしているのか考えて仕事をするようになった。


設計者の「想い」を表現できているか、塗装の微妙な仕上がり具合までに神経を使うようになった。

音楽も建築も詰まるところは「人間学」ということだ。

人間が何を求めているのか・・すべてはここから始まるということだ。


私は時々意地悪な質問をする。(いつもかも・・・)


「パレスチナの人々が全員改宗してクリスチャンになったら パレスチナ問題は解決すると思いますか」

クリスチャンのかたの答えは「解決する」だった。


しかし、「私たちの聖地」をいうのはユダヤ教もキリスト教もイスラム教も同じだ。

本質的には宗教に名を借りた領土問題である。全ての人がクリスチャンになっても解決はありえない。


では宗教は無力なのか。

それは違う。パレスチナに限ったことではないが、

人は宗教という形を通して語られる本質を見ようとはしていない。

そこに大きな誤解が生じ、融和を妨げている。宗教とは便宜的に語られるメッセージでしかない。


外面的な文言の世界に浸っていては宗教が例えひとつになったからと言って何も問題は解決しない。


文言でしか語ることのできないものであることを知り、

文言の先にある数多のひとびとの願いの世界に目覚めたとき、人は初めて共通の夢を持てる。

宗教という形にこだわりすぎては「和」の世界はあり得ない。


数多の宗教があり、宗派がある。聖典もさまざまだ。

概していえることだが、歴史があることが大切にされる所がある。大なり小なり権威主義的な面もある。


しかし、何か違うと思う。語られたのはいつの時代であっても「現代」であったわけだ。

バッハもヴィバルディも現代音楽であったわけで、古典などではなかった。それと同じだ。


権威に寄りかかっても自身の問題は何も解決などできない。問題の存在を忘れることがせいぜいだ。


経典を有り難がる人は多いが、経典というのはある意味何も書かれていない。


漢文で書かれたものを音読みにしているからもっともらしく聞こえるが、

内容は至って平易で「何だ そんなことか」と言うことばかりである。


道元の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」は日本の書物の中で最も難解とされるが、

書き方が難解なだけで気の遠くなるほど難しいことが書かれているわけではない。

仏教書というのは悪筆が多いといえるのかも知れない。


キリスト教の聖書は文言としてはやさしい。

が、書かれているメッセージは奥が深く、

簡単に「わかりやすい」などと言っていては外面しか受けとめることはできない。


私は19歳の時、宗教を語るとき専門用語を使うことを自ら封印した。

日々の言葉、暮らしの言葉、わたしの言葉に置き換えて語らなければ何の意味もないことに気づいたからだ。


専門用語というのは心地良いところがある。たくさんの言葉を覚えると立派になったような気になる。

他人から見ると特別の人に見えるというわけだ。


しかし、宗教とは本来的には「便宜的なもの」であり、そこで語られる文言自体は「虚構」の世界である。

「虚構」を通して「真実」を語るのが宗教である。


経典を丸暗記しようと、聖書を50年間読んでこようと、

そこの所を見誤ると単なる文化を楽しんでいることでしかない。


だからこそニーチェは警告した。「神は死んだ」と。


すべては架空のものと知って虚しさを感じるべきではない。

架空なるものを通して語りかけられていることを受け取るべきだ。


聖書がなかったら生きていけない、とあるかたが語っていた。

しかし、聖書がなくても、ブッダ・道元・親鸞の存在が否定されようとも「私」がここにいる事実に変わりはない。


私たちは全うしなければならない "いのち" の中に脈々と流れている「大いなるもの」

からの恵みに気づかなければならない。


"大いなるものの願い" がこの "いのち" であることに気づかなくてはならない。


「教え」は荒海を渡る舟のようなものだ。わたるときには必要だが、渡り終えれば邪魔になる。


宗教は非常出口を示す緑の表示のようなもの、といってもいい。


「表示」を鑑賞して欲しくて掲げてあるのではない。

外へ案内するものであり、外の世界へ出て欲しいがためにある。


便宜的に語られた「宗教」を突き抜けて向こうにある世界に至らなければ誰とも心を通い合わすことなどできない。

宗教という「枠」に縛られていては寺も教会もカルト教団も何ら変わりはない。


生涯で30分にも満たない禅僧との出会いが私の今を支えている。

禅僧は語ってくれた。


    勉強などせんでええ 人間は生まれたとき もう 仏さんになっとる 気づけばそんでええ

    
    求める答えは 自分の中(うち)にある
    

        

短い大学生活に気持ちの踏ん切りをつけられたのも僧との出会いがあったからである。








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スピーカー______機種に寄せるファンの想いは大切に!


Tannoy




オーディオ歴も20年を越えるとベテランと思われるのか、よく質問されることがある。


       どういうのが良いスピーカーなんですか?


       
       まず聴いてご覧なさい。あなたが好きだと思ったスピーカーが良いスピーカーです。

       

私はいつもそうお答えしている。


オーディオすべてがそうだが、個性の強い趣味の製品だ。中でもスピーカーは極端なまでに好き嫌いが別れる。

個性があるというのは開発途上であり、完成品ではないということだ。


オーディオの究極はその存在を感じさせないことにある。録音現場の音がそのまま再現されなくてはならない。

ウィスキーのCMではないが、何も加えず、何もひかないのが理想だ。


録音・再生技術は時代と共に進歩してきた。

しかし、人間の耳を納得させるものは未だ製品化されていない。

自分の好みに合わせ機種選びを楽しむ余地もそこにある。


そういう状況であるから逆に言えば再生装置の選び方でそのかたの嗜好がわかる。

クラシック好きのかたが選ぶ機種とジャズ好きのかたが選ぶ機種は見事なまでに別れる。

電源周波数もクラシック好きのかたは60ヘルツが良いと言われるし、

ジャズ好きのかたは50ヘルツがお好きという。


                      ※  関東のかたと関西のかたは同じCDでありながら、

                           実はまったく違った音楽を聴いている。

                           好みの音にするには周波数変換を行なう必要がある。


装置を見ればお好きな音楽の傾向、世界観、そのかたのひととなりまで見えてくる。

音楽的嗜好というのはそのかたの人生観と深く関わっているからだ。


そんなオーディオの世界であるからスピーカー選びはパートナー選びにも似ている。

途中でスピーカーを替えようものなら、何か心境の変化をもたらす大事件でもあったのかと見られるのだ。


オーディオ評論家の先生方にも好みがあって、

製品の善し悪しを論ずるのもその好みを通してという側面は否定できない。

オーディオファンもそこは心得たもので、そのことを十分考慮して先生の感想に耳を傾けるというわけだ。


ところが或る日突然に評論家が使用するスピーカーを替えたらどうだろう。

菅野沖彦氏の愛機といえばマッキントッシュであることは誰もが知っている。

ジャズ好みの氏にはよく似合う。同社のアンプと組み合わせた音は温かみがあってジャズクラブの
煙草臭い空気とはこんなであろうと眼前に想像できる。


が、或る日氏が愛機をタンノイに替えたとなるとファンは面食らうのである。

断っておくが、製品の優劣をいうのではない。マッキントッシュもタンノイも一流の製品だ。

方向性が違うということだ。


概して、タンノイはコンサートホールの雰囲気を見事なまでに再現する、クラシックファンが多いメーカーである。

愛機を替えたとなるとそれまでの氏の評論内容をすべて見直さざるを得なくなるのだ。

今までの評論活動の原点はどこにあったのかということになる。


SYAMIN には SYAMIN のファンがいる。

MINSYU には MINSYU のファンがいる。

良い音楽を聴きたいのですといわれても、回路や部品が異なれば音はそれぞれに違うし、

結果としての音楽は大きく異なる。


オーディオの究極は無色透明が理想だが、

それがかなわぬなら機種に寄せるファンの想いは大切にして欲しいものである。


或る日突然に鞍替えされてはファンは戸惑うばかりである。








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いのちあるものはすべて平等


「自分は ほとけさんから もういただいております」


文化勲章受章について打診があったとき、禅僧は明快に答えた。


「いのちあるものはすべて平等」と幼い頃より寺の住職から教わってきた。

人間を位付けする勲章制度は仏の教えの対極にあるわけで、

禅僧のもの言いには実に爽快な思いがしたものだ。


世の中には各分野のさまざまな「賞」がある。

研鑽を促すためであったり、業界の発展を願う思いであったり、社会に対するPR活動でもあったりする。


しかし、国家が行なう「褒章制度」は異質だ。

人間を位付けするように見えるのは私だけだろうか。


そもそも「褒章」とは「ほめてとらす」ということだ。

さらに、問題は「ほめてとらす」のが誰であるかということだ。

「誰」が「誰」を「ほめるのか」、それがその行為の本質を見極める上で極めて重要である。


北九州で発見された「漢委奴国王印」は漢王朝が異民族の王に官位と印綬を与えることで、

皇帝を頂点とする秩序に組み入れようとしたもの、といわれている。


そのことからもわかるように、「ひと」が何かを「ひと」に授けるということは、

その人間関係を決定づけてしまう極めて重要な行為である。

「ほめてとらす」も同じ意味を持つ。


「むやみに他人からものをもらってはならない」という先人の教えもそこにある。


大名が武士に「刀」を授ける行為は、臣下として認めたことであり、

受け取ったほうは臣下の礼をとることを約束したことになる。

つまり、終生、家来として仕えることを宣言したことを意味する。

適切を欠く表現で恐縮だが、「魂を売り渡す」ような行為でもあるわけだ。


「褒章」が誰の名によって行われるのかは、

この国の政治体制の根幹に関わる重大な問題であることを認識する人は少ない。


いかに象徴天皇制とはいえ、天皇の名によって行われる「褒賞」を受けることは、

封建的な勲章制度を認めるにとどまらず、天皇を頂点に戴く国家体制を受け入れることを意味する。


確かに、いまの時代に「臣民」や「赤子」という言葉は飛び交っていない。

しかし、天皇制より発現する「臣民」と「赤子」という自己認識が、政治的行動を敢行する根拠とされ、

無謀な戦争に突入していった時代からわずか70年余しか経っていないことを忘れてはならない。


今日の社会情勢をみるとき、いとも簡単に70年前へタイムスリップしそうな気配がしているのは私だけだろうか。


民主的な国家には君主などあってはならない。

いきとしいけるものが「手を振るもの」と「旗を振るもの」にわかれることがあってはならない。 


みなが平等では都合の悪い人々がいる。

序列を作るほうが民を治めやすいと考える人々がいる。

天皇を頂点とした国家像を考える人に「民主国家」を語る資格はない。 



ヨーロッパにはありったけの勲章をつけることを正装とする文化があることを聞いたことがある。

胸全体に勲章をつけている写真を見たこともある。

勲章をつけている人は「誇り」と思っているのだろうが、


「みて みて みて みて」


と、場に居合わせたひとの興味をひくものが金属の固まりでしかないのは何とも哀れである。






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手袋をしていませんか


    おやくにんさまぁ  お おねげぃで ごぜいやす おねげぃで ごぜいやす


    えぇぃ はなせ!


    そんでは おらたち ひゃくしょうは いきていけねえだ おねげぃで ごぜいやす


しかし、役人は稗や粟も満足に食っていないというその百姓の言葉を嘘と見破った。


    た たわけ!  


(あれ! 台詞が違う アドリブ?)


    カット! カット!



監督も役人も吹き出して止まらない。

百姓は昼ご飯をかき込み、急いで出番に駆けつけたのだ。

稗や粟も食っていないという水呑み百姓の口から弁当のご飯粒がこぼれてはまずい。

実際の役人でなくとも嘘は見破れる。


が、簡単な事を見破れないひとも多い。

浜岡原発を止めた菅某の言葉は実に老獪だ。


まず、これは命令ではなく要請である点だ。

結果について政府として責任はとりませんよ、と断っているのだ。

その及ぼす効果たるや重大なものがある。

にもかかわらず、「最終決断は電力会社でなさったんでしょ」ということだ。


廃炉を政府として命令したなら評価されてよい。

しかし、言ったのは防波堤の工事が完了するまでの一時停止に過ぎない。

これは原発政策継続を宣言したと解釈すべきで、反原発市民運動の人々が喜んではならないことである。


反対派を黙らせるために力でねじ伏せる手法をとる人間は最近ではあまりいない。

たいていの場合は軌道修正を装う。商売でいうなら「負けてくれる」わけだ。

値引きされて喜んでいる愚かな消費者はそれでも十分すぎるほどの利益を上げている

ことなど疑ってもみない。


もっと賢くならなきゃ!! 周りには悪い人がいっぱいいるんですよ。


これだけの事故が起きたのだ。再生可能エネルギーについて異論のある政治家などいるわけがない。

「脱原発」を掲げて政界再編を・・・と反原発のジャンヌダルクを装っても馬脚が現れているのだ。


ついこの間まで、我が国は原発推進で行くのだと言い、輸出に前向きだったのは彼自身ではないか。

「脱原発」が選挙の争点になどなるわけがない。正面から原発推進と言い出す政党などあり得ない。

あり得ないことを承知で大見得をきってみせる。まさにペテン師の真骨頂と言うべきだろう。


原発政策は自民党時代に始まったわけで、菅内閣だけに責任があるわけではない。

しかし、事故対応については明らかに菅政権の失態である。

真相の隠蔽、国民を騙す会見は憲政史上例を見ないほど悪質な政府である。


とりわけ住民の避難を確認しないまま行なったベントは「未必の故意」にあたり、

刑事罰をもって糾弾されなければならない。住民被害は甚大だ。


浜岡原発は目くらましに使われた。

ひとびとは浜岡を止めた菅某を何故評価したのか。


地震の被害が想定されるからだという。 ???  そんなんで納得してていいのか。

福島原発事故が地震の確率0.1%の所で起きたことを忘れていないか。


これは日本中すべてが危険地帯であるということだ。

浜岡より先に地震に見舞われる所も無いとはいえない。現にあった。


大きなものに注意を向けさせ、それに対応してみせる。いかにも脱原発を演出してみせる。

これは典型的な政治パフォーマンスでしかない。他の原発はお構いなしではないか。

そんなことで政治家を評価していたら気づいたときはこっちの首が切り落とされているだろう。


しっぽが出ていないか、毛むくじゃらな手を隠す手袋をしていないか、眉につばをつけて見極めねばならない。

もう一回いう。もっと賢くならなきゃ!! 周りには悪い人がいっぱいいるんですよ。


大阪の商人T氏がよく口癖のようにいっていた。


「あんたらみたいに ひとのいいこと ゆうてたら しまいに しりの 毛まで ぬかれまっせ」


都会にあるメディアはさかんに「絆」、「絆」と叫んでいる。

ひとを馬鹿にするのもいい加減にしろと言いたい。

さんざん危険なものを押しつけておいて、いまさら絆とはよく言えたもんだ。

原発企業の資金でたらふく肥えたメディアどもがいい子ぶるのは止めてもらいたい。


日本の民主主義もメルトダウン状態にあるようだ。




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Wink










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レジスタンス運動の戦士となれ___We shall overcome



We shall overcome   

私たちが克服すべきは無知、無関心、不勉強です。

意識改革なしに社会を動かす原動力は生まれません。選挙で勝利することはありません。

確かに原発再稼働反対の大きなうねりと衆院選の選挙結果の乖離には違和感を覚えます。

不正選挙をいうかたもおられるようですが、

若い人たちの超保守化傾向を思うときこの結果が今の日本なのだということでしょう。

一億総白痴化計画、愚民化戦略、3S政策が成果を見せ始めたと捉えるべきです。



現代の戦いは主に情報戦です。

メディアをアメリカが押さえている以上、アメリカの傀儡政権が出来るのは自然な流れです。

それに対抗する手段を模索しなければ何度やっても結果はおなじでしょう。

選挙は公明正大に・・・無論それが大原則ですが、それだけで勝利することは容易ではありません。

相手陣営だけが敵なのではありません。敵はアメリカであり、それに隷従していく勢力すべてです。

言ってみればアメリカに支援された敵との内戦とも言える状況であるわけです。

侵略軍を相手に如何に戦うか、情報戦を如何に制するか、それぐらいの覚悟がなければ勝負になりません。

TPP参加ともなればこの国の主権そのものがなくなるのです。

謀略には謀略を・・・は過激でしょうか。しかし何としても市民を動かさなければなりません。

まずは情報戦とは何かから学習し次に備えていただきたいと思います。

ただ、一回の選挙だけで世の中が変わるなどと甘い考えを持つべきではありません。

私たちは真実を伝えるところから始めなければなりません。愚直に。愚直に。

既存メディアにどっぷりつかっていたのでは社会を変えられるはずはありません。

それは絶対に不可能です。

新聞は真実を伝えていません。 東京新聞(中日新聞)などがわずかに頑張っているだけです。

テレビは大衆を目覚めさせるどころか体制に都合のいい方向へ煽っています。

新聞を棄て、テレビを拒否するところから始めるべきなのです。

その運動を是非拡げて欲しいと思います。

躊躇されるかた、賛成できないかたはどうぞ現体制の中で自滅していってください。



「戦争を知らない子どもたち」も年金生活の時代を迎えました。

いまや「いつか来た道」の意味さえ知らない世代が中心の社会です。

今の市民の社会観、政治感覚はあまりにも幼稚です。市民を目覚めさせなければ何も起こりません。

アメリカに押しつけられた憲法は拒否すべしといいながら、日本をアメリカに売り渡す政策には

賛成してしまう愚かさ。

他国の属国になることが嫌だという気持ちにつけ込まれ自由、民主主義体制を

棄てようとする愚かさ。

暴力団員であるというだけで処罰の対象にすることが明日は無辜の一般市民に向けられる

悪法であることを見抜けない愚かさ。

事故が起きなければ原発は必要だと言ってしまう愚かさ。

自分をコンビニ強盗に駆り立てる敵の正体を考えようともしない愚かさ。

自分を自殺に追い込むのが応援した候補者だったとは気付きもしない愚かさ。

「自由であるべき」と言いながら「神事」に人々を参列させる愚かさ。

自分が搾取する側に立っていても加害者意識のない愚かさ。

この愚かさはあまりに哀れです。

無知であることはなんと惨めなことでしょう。何とさびしい人生でしょう。



ひとびとは自衛隊を国軍にするという党を選びました。

福島の事故を知りながら原発をなくそうとしない党を選びました。

核武装すべしと言う党を選びました。

戦争すべしと言う党を選びました。

彼らは何もわかっていません。

そしていつか来た道を歩み始めるでしょう。



私は戦後生まれですが幼少期はまだどの家もユニオンジャックのガラス窓がある状況でした。

傷痍軍人も街頭に立って支援を求めていました。他界した私の叔父も傷痍軍人でした。

NHKでは戦禍で行方のわからなくなったかたを探す「尋ね人の時間」が毎日ありました。

直接に戦争は体験していませんがそこここに戦争の傷跡があり、

周りに戦争で大切な人を失ったかたが大勢いたという時代を過ごしています。

「わけのわからないまま いつの間にかそういうことになっていた」と大先輩たちは述懐しておられましたが、

「わけがわかっていれば食い止められたのではないか・・・・」そんな気持ちが滲んだ言葉だったように思います。

♪ ああ 許すまじ 原爆を みたび 許すまじ 原爆を 

大先輩たちが幼い私たちに教えたのは「おなじ過ちを繰り返さないでくれ」という悲痛な叫び、

願いからだったでしょう。

私には彼らの悲痛な叫びを語り継いでいく責務があります。

私の恩師八田有親は卒業の餞に「曲がった道をまっすぐ歩きなさい」と言って送り出してくれました。

何の力もない私ですが後につづく人たちにまっすぐな道を照らす「燈」でありつづけたいと思います。

短絡的な勝利ではなく、人々の意識・社会改革を成し遂げる強い意志を持って。



We shall overcome








We shall overcome

We shall overcome

We shall overcome someday


Oh deep in my heart

I do believe

We shall overcome someday


We shall hand in hand

We shall hand in hand

We shall hand in hand someday


Oh deep in my heart

I do believe

We shall overcome someday


We shall all be free

We shall all be free

We shall all be free someday


Oh deep in my heart

I do believe

We shall overcome someday


We are not afraid

We are not afraid

We are not afraid today


Oh deep in my heart

I do believe

We shall overcome someday


We are not alone

We are not alone

We are not alone today


Oh deep in my heart

I do believe

We shall overcome someday


The whole wide world around

The whole wide world around

The whole wide world around someday


Oh deep in my heart

I do believe

We shall overcome someday


We shall overcome

We shall overcome

We shall overcome someday


Oh deep in my heart

I do believe

We shall overcome someday 




http://www.youtube.com/watch?v=RkNsEH1GD7Q








よけいなことですが・・・・・・・




邦題の「勝利を我らに」は賛美歌第2編164番の歌詞や公民権運動を意識して付けられたのだと思いますが、

「勝利を我らに」という訳には違和感があります。


公民権法の成立はひとつの前進ともいえますが、

法律の制定は人種差別を排除する法的な基盤ができたというだけのこと。


その根底にあった人々や社会の偏見・差別意識を一掃するものではなく、

真の運動の出発点であったに過ぎませんでした。


この歌の題名は短絡的な運動の勝利を求めるものではなく、私たちは克服すべきだ、

人々の意識・社会改革を成し遂げるのだいう強い意志を表明したものと思います。


そもそもあらゆる人間が平等であるべきとする運動に勝利も敗北もあるわけがないのです。

闘いがあるとすれば無知や無関心との闘いでしょう。


ガンジーやキング牧師の非暴力・不服従の精神は勝者だの敗者だのとは無縁のものです。


真理、真実の実現という遥かに遠い理想を目指し、長く困難な道を行くのだという強い決意を

歌っていたのだと私は思います。








ユニオンジャックのガラス窓

http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week19/index.html#entry-76444877


原爆を許すまじ

http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week19/index.html#entry-76444807








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厚労省は自由診療体制に誘導か?


母の命日の食事会に姉のひとりが欠席した。

体調に自信がないからとのことだった。


聞けば1週間前に救急車で運ばれたという。

町内会の会合の席上で突然意識がなくなったらしい。

2分ほどで回復したのだが、周囲の人たちが心配して救急車に乗せたという。


救急病院では心電図と脳のCTをとったが特に異常は認められず、

直前の行動を尋ねられ、「花粉症の薬を呑んだ」というと、医師は


    おそらくそれでしょう


    かかりつけの耳鼻科に今日のこと言っておいてください


とのことで、そのまま帰されたという。


私は自分のホームドクターに尋ねてみた。


    花粉症の薬でそんなことになるものですか


    担当医が言ったのは "迷走神経反射" のことです

  
    まれに注射すると聞いただけでお腹が痛くなるかたがいますが

    あれも "迷走神経反射" です


    花粉症の薬でおこらないとはいえませんが・・・・


    僕は "TIA" だと思います」「すぐに循環器科で診てもらってください


    先生、 "TIA" って何ですか


    一過性脳虚血発作のことです  つまり 脳梗塞の前兆です


    すぐに症状が消えてしまうのでCTをとっても 異常は認められません


    しかし 放っておくと今度起こるときは脳梗塞です


    かなり高い確率で脳梗塞が起きています  けっして軽視しないでください


私の言葉なら無視するところだが、元金沢医科大高齢医学科講師の言葉には姉もこたえたようだ。

翌日から循環器科の治療を開始した。

血液サラサラになる薬とコレステロールを下げる薬を処方され、定期的に血液検査をすることになったとか。


"TIA" は医師の共通認識とホームドクターは言うが、現実には医師によって温度差はある。

救急外来もかなりいい加減だ。日本の医療は大丈夫か。

帰宅させるときに循環器科にいくよう指導するとか、 "TIA" の可能性に言及すべきではなかったか。


ホームドクターの言葉がなければ姉は脳梗塞の道を歩んでいたはずだ。

こんな医療体制でよいのだろうか。


"TIA" は原則的に入院させて治療する、と多くの医師がホームページで書いている。

が、現在はまず入院させることはないという。  何故か。

医療費削減を使命とするどこかの小役人が目を光らせているためらしい。


私は糖尿病その他で2週間に一度診てもらっている。

先生としては2週間に一度は血液検査をしたいようだが小役人が認めないという。

尿検査にも回数制限があるとのことだ。


これで責任ある医療ができるのだろうか。厚労省はその環境を担保しているのだろうか。

医師によっては持ち出し覚悟で治療するとも聞く。まさに赤ひげ先生である。


国民の医療費総額を考えるとき、

姉のケースでいえば循環器科にいった方が高くつくのか、いかない方が高くつくのか、

政に携わるかたがたは答えを持っているのだろうか。


膨れあがる医療費。対応は考えなければならない。

小役人の存在もあながち否定はできない。 しかし、方法論が間違っていないか。


例えば犯罪捜査の場合で考えてみる。

稚拙な初動捜査や不十分な鑑識活動をそのままにしておいて

その後多くの経費をかけ、捜査員を動かしても何の成果も上げられない。


虚しく時が流れるだけで、時効廃止などいっても事件は解決できはしない。

タイミングを逸してしまえば解決できるものも解決できなくなるということだ。


現在の厚労省のやり方は小規模の火災は放っておいて、大規模火災になって初めて出動する消防署だ。

費用負担が大きくなるのを待っているかのようだ。


どんな病気でもいきなり重篤な状態になるわけではない。

前兆を見逃さずに対応すれば、患者もひどい思いもせず、様々な面で負担の大きい入院を回避できる。


結果的に医療費も大きくはならない。


現在だとまったく個人的に血液検査を希望しても病気でない人は認められそうもない。

そして多くの人が重篤な患者になる道を歩んでしまう。


特に中高年の場合、ひとりひとりに合った生活指導が必要だ。

年に一回の通り一遍の健康診断では多くの前兆は見逃されてしまう。


マクロ経済の何たるかも知らない財務省の経済運営はよく批判されるが、

厚労省もまたマクロなものの見方ができていない。

市民に最も身近な末端医療の充実こそが医療費抑制になるという発想ができていない。


「十分な治療は『自由診療』でどうぞ」

というつもりだろうが、それは保険会社の「医療保険」へと誘導することに他ならない。


以前、アメリカの医療現場をレポートする番組があった。

救急車で運ばれた人に先ず病院が尋ねることは「カードは持っているか?」だそうだ。

支払い能力の無い人間を治療することは経営者に対する背任行為になるからだ。


この国の治安がよい理由に「格差のない社会」があげられる。(最近はかなり怪しいが・・・)

「国民皆保険制度」の果たしている役割は大きい。


TPPは医療現場を「アメリカ化」する。そして、保険会社は「医療保険」で大もうけだ。 

この国はそんな愚かな道を歩むつもりなのだろうか。


医療現場の問題点を指摘すると医師会は既得権益を守ろうとする圧力団体のようにいわれてしまう。

メディアや評論家はここぞとばかりに医師会を叩く。

一連の流れを見れば誰がそう言わせているのかがおぼろげに見えてくる。


悪徳な医師がいることも事実だ。

しかし、ほとんどの医師は真摯に患者と向き合っている。そして医療の改悪化と闘っている。

「いのちの既得権」を守ることが何故非難されなければならないのだ。


医療現場を「アメリカ化」することは営利優先主義であり、医療の放棄である。

この社会を「自由な国アメリカ」のレベルにまで引き下げるようなことがあってはならない。


処方された医薬品が売買されていることを政治家の皆さんはご存じなのだろうか。

かなり以前からひそかに行なわれている。

知らないとすれば社会の底辺を知らぬ「しあわせな人々」だ。


何故、売るのか。

「生活保護」だけでは生きていけないからだ。


何故、買うのか。

医療機関にいけないからだ。


職がない、金がない、いや、それ以前に住民票がないということさえある。

驚くかも知れないが戸籍のない人々さえ紛れもなく存在する。


そして、そんな人々を無報酬で診ている「赤ひげ先生」たちもいる。


「赤ひげ先生」たちは相手がどんな人間かを詮索したりはしない。

保険証を持たない人であれば相手を選ばない。

逃亡者であれ、暴力団員であれ、密入国者や不法滞在者であれ、

目の前にいる医療の必要な人を手当てするだけだ。


官僚も政治家も社会の現状を知らぬまま「改革」なるものを推し進めようとする。

最底辺の人々はおきざりにされたままだ。


その叫びはどなたかの耳に「音」としてすら届くことはない。








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天動説の子




こどもサロンに来た子の中に天動説を唱える子がいた。


   「おひさまが ちきゅうの まわりを まわっとるんやね?」


   「どうして そうおもったん?」


   「まいにち みとったもん」


   「ひがしから あがってきて にしのほうへ おりていくの みとったもん」


   「おひさまが いくつも あるわけないし ぐるぐる まわっとるんやね」


凄い! 私などは幼いとき、おひさまは毎日ひとつ出てくると思っていた。


   「じゃあぁ うんと べんきょうして いつか おひさまの せんせいに なるといいね」



何をアホなこと・・・といわれるのが今の時代だろう。

しかし、私はこの豆天文学者にエールを送りたい。

非科学的とあざ笑う人は「科学」の何たるかを知っていない。


自分では何の検証もしないで他人の学説の受け売りで「地動説」をいっているに過ぎないではないか。

人々は本質的にはガリレオ以前と同じであることに気付いていない。

科学は現象の観察から始まる。夏休みの間、ずっと観察して結論を出した子のほうが「科学的」といえる。


思えば今の教育(学校教育も含めて)は子どもの素朴な疑問に答えるような教育、

疑問を育てる教育になっているのだろうか。


子どもの素朴な疑問は本質を突いた鋭いものが多い。

おとなは変にごまかすか、ただの受け売りを披露するに過ぎないのではないか。


NHKの「夏休みこども科学電話相談」はいつ聴いていてもドキッとする。

番組名を「夏休み大人こまらせ電話相談」と替えてもいい。


   うちわであおぐとなぜ風が起きるのですか? (これは実に高度、大人はギャフンだ)


   同じおかずを毎日食べれば飽きてくるのに、なぜご飯は飽きないのですか? (最高!)


   アメンボはなぜ水にうくのですか?(いいね)


   魚はなぜ赤ちゃんの時から泳げるのですか?(いい質問)


   あったかいものを食べると、あたたかい気持ちになるのは何故ですか?(えぇッ?)


するどい! 答える先生がたも大変だ。

昔子どもだった者にも解放して欲しいと思うのは私ひとりではないと思う。 

  
昔子どもだった者は電話して聞きたい。


   エネルギーって何ですか?


   
   空間って何ですか?

   
   時間って何ですか?

   
   そもそも物体とは何ですか?


   
   存在するとはどういうことですか?


   
   生命って何ですか?


   
   生きるってどういうことですか?(宗教的意味ではなく、物理学的意味で)


そんな疑問が私の中にいっぱいあって・・・


この私のさまざまの疑問を解いていくのはどうも「量子論」という学問にあるらしい。

このことがわかったのは最近のことだ。

青年老い易く学成り難しだ。すこ~し気付くのが遅い。だいぶ遅い。


  (ニュートン以来の近代科学の先にある量子物理学の世界で論ずるようなことに疑問を持ってしまった少年に

   解答を与えてくれる先生は少年の周りにはいなかった。)


時とともに疑問がなくなってしまう大人たちがいる。時とともに疑問がどんどん増える子がいる。

用意された解答では納得できない子がいる。素朴な疑問を抱き続ける子がいる。


素朴な疑問を受けとめるのは学校では無理なのだろうか? 先生がたでは無理なのだろうか?


そんな子どもたちは落ちこぼれと呼ばれるしかないとしたら、

社会は宝石の原石を磨かぬまま放置することになりはしないか。

学校が無理なら学校以外を用意する必要がある。


無論、私などはどう磨いてもただの石でしかないが・・・・








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悪いものを高く売る


「剱君、悪いものを高く売るのが商売だということを肝に銘じておくように」


若い頃、働いていた毛織物問屋の社長が話してくれた言葉である。


決して悪徳業者ではない。それどころか品質、センスで定評のある老舗洋服店のオーナーでもあったかただ。

派手さなどない、信仰心篤い誠実なかただった。


社長の目には青二才の私が成績を上げたいがため

気持ちが前のめりになっていることがわかっていたのだろう。

さりげなく二人になる時間をつくってこの話をしてくれた。


「君は商売というものを品質の良いものを安く提供することだと思っていないかな」


 
「いや、間違っているということではない。そのとおりだ。私もそうありたいと常に思っているし、努めてもいる。

 しかし、長い間この商売をしてきてそういう理想的な商品に巡り会うのはまれだ。

 私自身もう一つ納得がいかないことの方が多い」


 
「だからといって安くしていたのでは私たちは生活できない。

 品質の悪いものを高い値段で買っていただかないと生きていくことができないのが私達なんだよ」

 

「どうかな、君の目から見て

 今あるうちの商品で品質が良くて安く提供できるものは何パーセントあると思うかね」 


答えられなかった。

誰が見ても一級品の商品を納得のいかない商品と言い切る社長を前に私は黙り込むしかなかった。

その道一筋のお客様を相手にするにはかくも厳しいものかと思い知った。


思えば青二才の営業マンなどよりお客様の方がはるかに目利きだ。

私はその事に気付いていなかった。当然のことだが未熟だった。


お客様には「訳のわからぬ若造」と見えていたに違いない。

品質の良いものを安く提供しているんだという慢心が透けて見えたに違いない。


「どうしたら悪い商品を高い値段で買っていただけるようになるか、それが商売の一番大切なことなんだ。

 その思いがお客様に伝わると長いお付き合いをしていただけると思うよ」


 

「急に成績あげなくていい。くれぐれも焦らないでな」  


営業マンは「目利き」であれ。

お客様には誠意を尽くせ。


流通業界の大きな変化でこの会社も社会的役割を終え解散した。

しかし、社長の教訓は今も私の中で息づいている。








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選挙で社会は変わるか


次の選挙に向けて日々努力していることに水を差すつもりはないが、

選挙で大勝利しても残念ながら社会が変わるとは思えない。


2009年の衆議院選では480議席中、民主党だけで308議席を獲得した。

さらに社民党、国民新党も加わり政権が発足した。

共産党も好意的だった。


そんな絶対優勢の中で改革は進むはずだった。

しかし、結果はご承知の通りである。


諸氏の努力には敬意を表するが、戦略的に瑕疵があったと言わざるをえない。


あまり好きな例えではないが、政治はある意味で戦いである。戦争である。

敵を見極めてこそ、そしてその敵に対して最も有効な対抗手段をとってこそ戦は勝利する。


やみくもに矢を放って敵が退却したからといって勝利とは言えない。

本丸を落とすまで戦いは続いている。

加えて、紛れ込んでいる間者への対抗措置も用意されていなければならない。


きつい言い方でまことに恐縮だが、絶対優勢の情勢を過信していたのではないか。

私も含め国民の多くが明るい明日をあまりに希望的にとらえていたのではないか。

まさに油断である。


選挙の洗礼を受けない存在こそが真の敵だった。

この数年でそれは誰の目にも明らかになった。


国民の選択を無視し、サボタージュする官僚たち。

財界や宗教団体の意のままに動くメディア。

法曹界さえしっかりと操縦されている。


復興大臣、経産大臣、防衛大臣などの不可解な退出劇が続いた。

旧自民党時代にも財務大臣が巧みな陰謀で抹殺された。

田中外相が言った「スカートの裾を踏んづけている」存在は現在も健在のようだ。


一国の首相より財務省の事務次官に実権がある状況で投票行動を呼びかけられても

有権者はしらけるばかりである。


何故、ここまで官僚がのさばるのか。

大変申し上げにくいが、政治家に十分な見識がないからである。


官僚たちのレクチャーを無批判に聞き、納得する人たちが相手では籠絡するのは簡単だと言うことだ。

複数の元財務大臣達は「マクロ経済」という言葉さえ知らなかった。

これでは官僚天国も続こうというものだ。


人材が乏しい、政権担当能力がないとして福田康夫氏と大連立を模索した小沢一郎氏の懸念はあたっていた。


難攻不落の城を前に手勢はわずか。

しかし、戦略を練り、有効な戦術をとれば成果を上げられる。

やみくもに本丸を目指すは愚策であろう。


記者クラブの有名無実化、NHKの政治からの独立、財務省の解体等やるべきことは多い。

市民レベルでは公正・中立ではないNHK視聴料の不払い運動も有効と考える。


既に私などは受信契約を解約してテレビそのものがない。

しかし、社会の情勢に通じていられるのは今のテレビに情報発信能力が無かったと言うことだ。


新聞購読を解約することも敵にとっては痛手であろう。

ゼネストや不買運動等あらゆる手段で敵を追い詰めなければならない。

相手の一番嫌がる一手を打つ。これが戦術というものだろう。


当然こちらにもリスクはある。


ドラマでの侍の斬り合いをイメージしてみればよい。

刀の長さ以上に離れていてはどんな達人といえども相手を倒せはしない。

自分も倒される距離まで近づかなければ勝負は永遠に続くだけだ。

永年にわたってデフレから脱却できない経済情勢。

ゼロ金利政策で経済が活性化するとして進められている怪しげな経済運営。

さらにこの状況下での消費税増税。

さらに加えて、TPP。


このままでは日本は崩壊する。

中堅といえどもバタバタ倒産する。

自殺者はこれからも増えるだろう。

この期に及んでリスクがどうとか言っている場合ではない。


開発途上とも言われる中東ではみな命を懸けて闘っている。

日本はあまりに能天気ではないか。


御身大切にといいながら、自分を追い詰める敵にさえ声援を送り続けている。

これでは社会は何も変わらない。


デザイナーというか、コーディネーターというか、プロデューサーというか真の戦略家が必要である。


最も適任と思われるかたは政治の先頭に立っていただきたいかたでもある。大いに悩む。


しかし、究極の選択を迫られれば、私は全体を指揮する方に回っていただきたいと思う。

それほどに重要なことである。


敵は巨大な霞ヶ関であり、赤坂である。

永田町での政治に加えて市民組織や無名の人々をも動かさなければ革命は成功しない。

選挙だけでは民主政治は守れない。


これは無血革命だ。








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福島を忘れる日本人/ルモンド紙 Japanese forgetting Fukushima


12/19/2012 Le Monde


Japanese forgetting Fukushima (December 18). / Le Monde


The nuclear power generation tragic incident that happened in Fukushima is already forgotten,

and will you be moving to a new stage at time? The time is irony. An international conference

about the safe reinforcement of the nuclear power generation by the International Atomic Energy

Agency (IAEA) chose the Liberal Democratic Party where open , the Japanese strongly promoted

re-operation of the nuclear power generation as the ruling party in Japan.


It is such a sudden change of Japan, and there is a thing to stare wide-eyed at.

Japan which prepared for a breakaway from nuclear power generation until the night of Saturday

begins to move in a direction operating 48 stopping nuclear power plants again since the

Liberal Democratic Party government was born on Sunday. The turn of this 180 degrees worries us.

The large-scale nuclear plant accident that happened in Fukushima in March,

2011 exposed the serious malfunction that the safety management system of atomic energy

facilities contained based on broad daylight. And the double security risk called an earthquake

and the tsunami which Japan has still is just ignored. All the nuclear power generation in Japan

is installed along the shore, and three of those are built on an active fault.


●source article: "People / Le Monde (December 18) (Gregoire Allix,≪On oublie Fukushima≫,

Le Monde, 2012.12.18) forgetting Fukushima"



福島を忘れる日本人/ルモンド紙(12月18日)


福島で起きた原発惨事は既に忘れられ、時は新たな段階へと移りつつあるのだろうか。時間とは皮肉なものだ。

日本国内で国際原子力機関(IAEA)による原発の安全強化に関する国際会議が開かれるさなか、

日本人は原発の再稼働を強く推進する自由民主党を与党に選んだ。


日本の豹変ぶりには目を見張るものがある。土曜日の晩まで原発からの脱却を準備していた日本は、

日曜日に自民党政権が誕生して以来、停止中の48基の原発を再稼働する方向で動き始めている。


この180度の方向転換は私たちを不安にさせる。2011年3月に福島で起きた大規模な原発事故は、

原子力施設の安全管理体制が内包する深刻な機能不全を白日のもとにさらした。


そして日本が抱える地震と津波という二重の安全リスクは今もそのまま放置されている。

日本国内にある原発は全て海岸沿いに設置されており、そのうちの3つは

活断層の上に建設されているのである。


●source article:「福島を忘れる人々」/ルモンド紙(12月18日)

(Gregoire Allix, ≪ On oublie Fukushima ≫, Le Monde, 2012.12.18)



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ドイツZDF「フクシマの子供たちの放射線障害」

http://www.youtube.com/watch?v=kzXPwvcRWhA

http://kingo999.blog.fc2.com/blog-entry-991.html


ドイツZDF フクシマのうそ

http://www.dailymotion.com/video/xpisys_yyyzdf-yyyyyyy_news#.UON7jGwz18E


ドイツZDF 「フクシマは今でも時限爆弾」

http://www.youtube.com/watch?gl=JP&v=sqCDtZQTCgE&hl=ja


ドイツZDFテレビ「福島原発労働者の実態」

http://www.youtube.com/watch?v=aAE-QBmC1VA


ドイツZDFハーノ記者「被災地は置き去りにされている」

http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-1183.html


ドイツZDF「放射能ハンター」

http://www.youtube.com/watch?v=PtorYF4j9SY


ドイツZDF「放射能汚染した福島」

http://www.youtube.com/watch?v=yWDSn-dvLeg


ドイツZDF-Frontal21 福島原発事故、その後

http://www.youtube.com/watch?v=4S1bTmrILgs








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Disaster Recovery


記録の保存、この古くて新しい問題が今また注目されています。

津波で壊滅的被害を受けた自治体では庁舎そのものがなくなり、行政サービスの著しい低下をきたしています。


戸籍は法務省にコピーがあるようですが、それ以外のすべての記録を失った状況で、

どうやって市民生活を安定させるのか実に心配なことです。


パソコンを使うようになったとき、皆さんは考えなかったでしょうか。


  故障で記録が消えてしまうのではないか

  紙に書いて保存しておく方が安心できるのでは?
  


当時は「disaster recovery」という言葉は知りませんでした。

それでも、心配性な私は「機械は壊れるもの」との前提に立ち、

データをパソコン内部のメモリーに入れるということはせず、FDに書き込み、

さらにそれの予備まで用意しました。


今は外付けHDDに代わりましたが、考え方は同じです。

データは必ず、3台の外付けHDDに手動で保存しています。  


情報処理の環境、技術の進歩は目を見はるものがあります。

が、歴史の検証を受けていない技術など、端から信用してはいけないと考えています。


便利さが失われたときどうするのか、常にその事を考えながら使わないと痛い目に遭います。

リスクマネージメントということです。


昔の商家は商いの記録を大福帳にしていました。

転居の際、処分してきましたが、我が家にもたくさんありました。


商家の造りは通り庭があり、そこに必ず井戸があります。

火事の際は大福帳を井戸に投げ込んで逃げるのだそうです。

鎮火したあとで大福帳を引き上げれば家屋を失っても売掛金という財産は残るというわけです。


和紙に墨で書いたものですから、乾かせばいいだけのことです。昔の人の知恵です。


「和紙と墨」現代ではすっかり影の薄い存在ですが、万葉集や古事記等が残っていることを思えば、

保存性は21世紀の今になっても、なおそれを超えるものはありません。


無論、この時代「和紙と墨」で多くの情報を扱うことはできません。

どんなハイテクでも津波に流されるのは同じ事です。


そこにこそ、ネットワークの意味があるのではないでしょうか。

現代の技術では遠隔地にデータを保存することも可能です。


災害協定を結んだ遠隔地にサーバーの管理をお願いすることや、

コンピュータ産業が用意しているサービスを利用することが検討されるべきと考えます。

大きな市では中央と支所を回線でつないでいることを思えば、ハードルは高くないように思われますが・・・


当然、リスクはあります。情報漏洩も懸念されます。しかし、情報漏洩はいつでも起こりえます。


大切なことは最も起きて欲しくないことは何なのか、

それを避けるためにはどうするか、ということです。









※ ディザスタ・リカバリ

【英】disaster recovery

ディザスタ・リカバリとは、システムの運用体制の一種で、災害(disaster)の発生によってシステムやデータが致命的な被害を受けた際に迅速に復旧(recovery)できるよう準備されている体制のことである。

ディザスタ・リカバリは、地震やテロリズムのように大規模な損害を被る事態が想定されている。そのため、システムを多重化するだけでなく、多重化されたシステムを遠隔地に設置するなどの措置がとられている。行政機関や銀行のような、社会生活において重要なシステムを運用するために重要な対策として認識され始めている。








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外国人労働者は奴隷ではないのか


家から2㎞ほどのところに深夜までやっているスーパーがある。

たまに、すれ違った若い人たちの言葉がわからないことがある。

耳が衰えたかと思ったがそうでもないようだ。


んっ、日本語じゃない?アジアの顔は区別がつきにくい。

時間帯によっては、すれ違う人の1割ほどが非日本語だ。

中国語、韓国語はなんとなくそれとわかるが、それ以外はまったく???だ。それにしても多くなったものだ。


義兄の会社にも中国からの研修生がひとりいた。

この若者は文字通りの研修で、建設業のノウハウを学ぶのが目的だった。


3年ほど在籍し、帰国してからは自分で会社をおこし、義兄の会社とは今も交流があるという。

しかし、これはまれなケースで、よくいう「外国人労働者問題」というときの外国人労働者ではない。


少子化が進む中、社会は外国人を雇用しようと躍起になっている。私は反対だ。大反対だ。


誤解のないようにいっておくが、外国の人が嫌だとかいうのではない。

むしろ、おおいに交流すべきと考えている。いや、もっと過激かもしれない。

いつの日か、国境などというものはなくなって欲しいとさえ思っている。


だからこそ、短兵急な、しかも身勝手な雇用に走って欲しくない。

いま進められようとしていることは国際交流、文化交流などと言えるものなのだろうか。


政府は建前として高度な技術を持った人材をという。

しかし、社会の高度な人材に対する要求は低く、単純な労働力に対する要求が多い。

それがこの国の実態だ。要するに奴隷が欲しいということだ。


利益の追求しか眼中にない人々は外国人労働者を雇用することの問題点など考えようともしない。

社会にどんな状況が生まれるのか考えようともしない。まして、外国人を知ろうともしない。

ただ、安い労働力としか見ていない。奴隷売買と何ら変わらない。


食べ物、宗教、その他何もかも異なる価値観をもった人々が、いきなり隣に現れるということだ。

彼らは日本の社会に溶け込まない。溶け込んで欲しいと思うのは日本人の傲慢だ。逆の立場で考えるべきだ。


私も外国で暮らすことになれば、その国を理解しようとはする。

が、自分の生活様式、価値観まで棄てるつもりはない。


しかし、島国根性の日本人が異なる文化をもった人々と摩擦無しに暮らせるとは思えない。


「受け入れてみなければ始まらない。何事もやってみないと・・・」と、いう人もいる。

確かに、それはその通りだ。

しかし、やってみました。駄目でした。元へ戻しましょう、というのだろうか。

日本で生活基盤ができ、子どもも生まれ、そんな人々にいったい、何処へ戻れというつもりなのか。

軽い考えで進めて良い話ではない。


私が懸念することを以下に挙げてみる。



    日本の社会であたりまえのようにされている行政サービスについて彼らをどう位置づけるのか。

    低賃金の彼らにとっての高いコスト負担は家族が適正な教育、医療を受けられない状況を生む。

    行政コストの未払い問題は社会保障の問題を今以上に難しいものとする。


    滞在者が就労斡旋事業の組織を作り、滞在者を支配する。

    なかには怪しげなものもできる。被搾取の被害も出てくるだろう。

    すでに「蛇頭」というのも報告されている。そこには行政のチェックが及ばない。

    社会が二重構造化する。 


    
    生活基盤ができたら彼らは帰国しない。

    やがて必ず、その家族をも受け入れることになる。


    日本で結婚して家庭をもつ。日本で生まれ育った子どもをどう扱うのか。

    失業した場合、母国語を話せない子どもが日本に残る可能性がある。その対応は?


    
    日本で生まれた子どもの就学について社会はどう対応するか。

    非就学児ができてしまうことは格差社会を作ることにつながるだけでなく、

    全体の労働環境悪化や地域の安全にも悪い影響を与える。


    社会の2層化が進む。


    低賃金労働への就労は日本人との生活レベルの格差が大きく、それが起因して地域への融合を妨げる。


    会話能力不足から日本人との意思疎通がうまくできず、双方の不信感がさらに融合を困難にする。


    劣悪な職場環境が温存されてしまう。


    低賃金では、やがて日本の生活を維持できなくなる。

    仕送りもさることながら、日本で稼げると信じて莫大な費用を捻出してきている人々が

    暮らしに行き詰まることがあれば、社会の不安定要因になる。



思いついただけでも、様々な問題がある。

社会は受けとめる覚悟と、準備ができているのだろうか。

自分たちも変わらなくてはいけない。「嫌なら出て行け」とはいえないのだ。


あらゆる問題点を検証し、想定外のことがおきても、

自分たちの問題と捉えられる覚悟があればよいのだが・・・・

拙速に進めれば、不幸な人々を作ることになる。

その時、誰が責任をとるのか。誰もとらないだろう。この国はそんな国だ。


外国人を犯罪者のように考えるのはやめろ、と言われるかもしれない。

しかし、貧困が犯罪を生む厳然たる事実を認識すべきだ。

人が悪いのではない。貧困が悪いのだ。格差社会をつくってはならない。


私は外国人排斥運動が起きて欲しくないのだ。

問題が起きてから対応するのではなく、問題が起きないようにするのも政だ。

政に「想定外」は絶対に許されない。


外国人労働者は、日本で生活する「生活者」であって、単なる「労働力」ではない。

日本人と同等に扱われるべきだ。

日本人と同じ基準で、その能力・識見を評価され、能力に見合った報酬・処遇が保証されなければならない。


経営者はそんなことは認められないというだろう。

利益追求の亡者どもは単に奴隷が欲しいということだ。


いま、少しだけ「在日」のかたがたも認められるようになった。母国語の名前を名乗るかたも出てきた。

まだ十分とは思えないが、ここまで来るのに何年の歳月が必要だったことか。

どれだけの苦しみを乗り越えられてきたことか。


叔父のおかげもあって、私は「在日」のかたがたの暮らしを傍で見てきた。

異国で生きるということがどれほどのことか、とても言葉で表現できるものではない。

そんな暮らしを知るだけに、安易に「安い労働力」などと語る人々には強い憤りをおぼえる。


外国人労働者が必要なら三顧の礼をもって迎えるべきだろう。

対等に付き合う覚悟と度量があるのか、私たちは試されている。






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耳をすましてごらん


古い小咄


耳の遠い親子の話。

親父さんが奧にいて店先の息子に声をかける。



   おぉい おおい


   んまにもう わるいとこだけ よう にてからに


   おぉい  あ やっと わかったか


   あのなぁ いま おもて とおったん あらぁ うらの げんさん ちごうたかな


   あの なあ い ま  お も て  とおっ た ん  

   あ ら あ  う ら の  げん さん ちごうたかな


   あぁあ なに ゆうてんねん いま おもて とおったん あらぁ うらの げんさん でっせ


   ああ そうかぁ わし また うらの げんさん かと おもうたわ


 $%&#&%%&#$%$??




鶴来町に住む私の姉も幼いときに中耳炎を患ったことで片方が聞こえづらいようだ。

向こうを向いているときに話しかけてもいっこうに気付かない。


「ほら、叔父ちゃんなんか言うとるよ」


と姪や甥たちがサポートするということはよくある。


こういう私も何年も前から耳の中に蝉を飼っている。一日中、「ジ--- 」と鳴り続けている。


ドクターの話では聴力には関係なく加齢によるものとのこと。

気にしだすと余計に大きくなるようで今はあきらめている。

音楽を聴くときの障りになるかと心配していたが、

実際はそんなものでもないことがわかってホッとしてもいる。


それにしても音楽を聴くときの耳は実に不思議なものだ。


同じCDであるのに聴き込んでいくと今まで気付かなかった音が聴こえるようになってくるから不思議だ。

ひとの声にも楽器にもそれは言える。

「まさかぁ・・」と思われるだろうが、これがあるので息の長い趣味になる。


もっとも、2度や3度 "通し" で聴いたくらいでは違いはわかるものではない。

ポイントは同じ箇所を繰り返し聴くということだ。それも別の演奏者を聴くことが大切だ。


この演奏者ならどう表現するだろう・・そんな思いで聴いていると、演奏者の息遣い、

指の動きまで見えてくるようになる。

やがて使用している楽器独特の音まで認識できるようになる。


私が特別に耳がいいわけではない。絶対音感があるわけでもなく、至ってどこにでもいる平凡な人間だ。

どうしてそんなことになるのか。一言で言えば音楽が好きだからだ。

音楽を聴くときの集中力が半端ではないからだ。


「火事場の馬鹿力」という言葉がある。

日頃は持てるはずもないような重たい箪笥でも必死になると一人で運べるというあれだ。


学者によると、人間は日頃、能力のすべてを使っているわけではないそうだ。

そんなことをしたら体が壊れる、それで無意識に制御しているとのことだそうだ。

体験的に言えることだが、聴力にも似たようなことがあるのではないかと思う。


日頃は耳に入ってくる音を聞いている。必ずしも聞きたい音というわけではないので、

状況さえ理解できればいい。潜在意識でそう判断している。


しかし、空気の超微細な振動をもキャッチしたいと願うとき、

耳は鋭敏になり楽器の善し悪しまで峻別できるようになる。

要は聴きたい気持ちが強いとき、はじめて演奏会場の空気が伝わってくるということのように思う。


ピアノフォルテの音はハンマーで叩かれた弦だけの音ではない。

共振している他の弦の音でもあり、共鳴している胴体の音であり、さらに床や会場の音でもある。

聴き込んでいくとその音がわかるようになる。


眼というのはしっかり見ているようでも実はかなり怪しげである。

映画のフィルムは1秒間に24コマしかない。それでも自然な動きと認識してしまう。


1秒間に48コマ流し、そこへ1コマだけ無関係な映像を入れても人間はそのことを認識できない。

潜在意識下には刺激はちゃんとあるわけだが・・・それほどに眼は怪しい。


               "サブリミナル効果" の危険性もここにあるわけで、

              言論統制の時代にあっては最も警戒すべきことである。

                      (テレビは見ない方がいい。「原発は安全」「原発は必要」

                       というテロップが入れられている可能性も考えておかねば・・) 


それに比べると耳の情報分解能は奥が深い。

そうでなければ人類は外敵から身を守ることは出来なかったろう。

ただ、その能力が発揮されればということだ。


言いたいのは、見えているもの、聞こえているものが本当にすべてなのか、ということだ。


私たちの感覚は結構いい加減だ。自分の要求する姿勢で鈍感になったり、鋭敏になったりする。

聞きたくないものは耳に入っていても聞こえないのだ。


もしかすると私たちは人生の半分も実は見えていないのではないだろうか。

聞こえていないのではないだろうか。


ものがそこに「有る」あるいは「無い」という基本的なことも

実はこちらのあり様で決まっていくとしたら、

哲学する心もかなり怪しくなってくる。


今一度、全感覚を全開にして見、聞き、しないとまったく違った "真実" を見ていたことになる。


ひとが発する声、叫びは聞こうとしないひとには聞こえない。

聞きたくないひとには聞こえない。聞こえるひとでありたい。









      ♪ 耳をすましてごらん

     

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団扇(うちわ)


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                                米洗う 前にほたるの 二つ三つ  作者不詳 


        大蛍 ゆらりゆらりと通りけり      小林一茶






団扇が売れているという。

産地は増産に大わらわだそうだ。

すでに骨材が底をついたという話も聞く。

無論、原発事故から来る節電騒ぎのためだ。

原発事故も思わぬところで夏の風物詩復活に寄与した形だ。


団扇といえば、幼い頃、七輪で火をおこすときパタパタとやらされたのを想いだす。

くすぶる煙が目にしみたことも今となっては懐かしい。


時代は変わって、今はIHでの調理だが、"焼き物" はやはり七輪の炭火に限る。

どうしたものか、電気と炭火とでは魚の旨味が違うような気がする。

熱に変わりはないのだろうが、熱線の波長が影響するのだろうか。


おなじ団扇でも骨材によって涼しさが違う。これは私にもわかる。

竹の骨はしなりがあって、風は自然の風に近いのに対し、

最近よくあるプラスチックの骨は下敷きで扇いでいるようで人工的だ。手首も疲れる。

形だけ真似てもやはりオリジナルにはかなわない。


この際、団扇だけでなく全体に昭和レトロな夏の過ごし方も再発見してほしいものだ。

浴衣がけで夕涼みもいい。

水で冷やした西瓜を食べながらの線香花火もいい。

夏ぐらいはスニーカーを脱いで下駄履きで過ごしてはどうか。


いつの頃からか世の中全体が季節を味わうことを忘れてしまっているように見える。

店先にはいつもおなじ野菜が並んでいるし、大根の旬など誰も知らない。

水羊羹は年中あるし、桜餅でさえいつでも食べられる。

日本はとても豊かになった・・・・・のだろうか。


季節の移ろいに鈍感になるのはもったいなくはないか。

四季折々の食べ物や、風物詩を楽しむ暮らしのほうがドキドキするものがあるし、

変化があって退屈しない。

「福梅」「金花糖」「桜餅」「葛饅頭」「氷室饅頭」が店頭に並ぶ日を心待ちにしていると

豊かな気持ちで暮らせるような気がする。

クリスマスケーキが年中あるような感じの暮らしはどうもいただけない。

サンタさんも落ち着かないだろう。


暑い夏を楽しまないで、暑さを忌み嫌うようにエアコンがんがんでは、そりゃあエネルギーも必要になる。

団扇でふわりふわりと風を送ることが季節を味わうことのきっかけになってくれればと思う。


あまりにも大きな犠牲なのだ。

何かひとつくらい寄与するものがあってくれないとやっていられない。



     ※福梅: 金沢を代表とする縁起菓子で梅の花を形取った紅白の最中。

            年末(12月半ば頃)から松の内の間に売り出される。

            加賀前田家の家紋である「剣梅鉢」を形取っている。


     ※金華糖: 煮溶かした砂糖を型に流し込み、冷やし固めて彩色した砂糖菓子。

              金沢では今でも婚礼やひな祭の時に出されることが多い。
                     


     ※氷室饅頭:  石川県に古くから伝わる和菓子。

                毎年7月1日の初夏に食べられる縁起菓子。

                江戸時代、加賀藩前田家は、毎年7月1日になると

                氷室の雪氷を幕府に献上していた。

                加賀藩5代目藩主、前田綱紀の時代、

                金沢のの道願屋彦兵衛の考案で饅頭が作られ、

                道中の無事を祈り神社に供えられた。

                この出来事が氷室饅頭の起源と伝えられる。

                7月1日は氷室開きの日(氷室の日)とされ、

                無病息災を願って饅頭を食べる習慣が残った。








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どんなパンを食べていますか


Img_01






臭素酸カリウムを使用するパン屋がある。


「ランチパック」シリーズのパンには品質改善と風味の向上のため臭素酸カリウムを使用しております。

残存に関しては厚生労働省の定める基準に合致しております。- 山崎製パン

http://www.yamazakipan.co.jp/brand/02_03.html


パン用生地改良剤である臭素酸カリウムの安全使用について - 山崎製パン

http://www.yamazakipan.co.jp/brand/pdf/foodchemical200410.pdf


中央研究所発表の研究論文「食パン中の残存臭素酸量の低減」- 山崎製パン

http://www.yamazakipan.co.jp/brand/pdf/syokuhinkougakkaishi2.pdf


ヤマザキ

http://www.yamazakipan.co.jp/index.html




そもそも臭素酸カリウムとは何?


【臭素酸カリウム potassium bromate】 


化学式KBrO3。無色三方晶系の結晶。融点370℃(分解を伴う),比重3.27(17.5℃)。

水100gへの溶解度3.11g(0℃),49.75g(100℃)。エチルアルコールに難溶,アセトンに不溶。


融点以上でしだいに酸素を放って分解し,臭化カリウムに変化する。


水溶液は強い酸化剤で臭素酸塩滴定に用いられ,

容易に再結晶できるため,酸化還元滴定における標準物質となる。


水酸化カリウムの水溶液に臭素を加え,煮沸したのち冷却し,分別結晶によって,

副生した臭化カリウムを分離したのち,水溶液から再結晶して製する。


臭素酸カリウム

http://www.fsc.go.jp/sonota/factsheet-kbro.pdf

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AD%E7%B4%A0%E9%85%B8%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0


国際化学物質安全性カード

http://www.nihs.go.jp/ICSC/icssj-c/icss1115c.html




パン工業界は・・・・・


パン生地改良材(臭素酸カリウム)の安全使用について    日本パン工業会


 臭素酸カリウムは、欧米及び日本のパン業界で小麦粉改良剤として長年にわたって使用されてきた

食品添加物です。

ところが昭和57年、臭素酸カリウムの安全性の問題が指摘されたことにより、

わが国では食品衛生法の使用基準を改定して、許容使用量を減らすとともにパンにのみ使用を認めました。


日本の製パン業界では、臭素酸カリウムの使用が認められていますが、厚生省の要請を受けて平成4年以降、

臭素酸カリウムの使用を自粛してまいりました。その代替品としてビタミンCを使用してきておりますが、

ビタミンCではパン生地物性の改良やパン特有の風味を生み出す発酵改良効果などにおいて

不十分なところがありました。


 臭素酸カリウムの使用の是非に関する科学的な根拠を求めて、鋭意研究を重ねた結果、

高精度のパン中の臭素酸カリウム残存量の分析技術を開発しましたが、これが厚生労働省の公定法となりました。

最近では分析技術は更に精度が高められておりますが、

角型食パンにおいては臭素酸カリウムが完全に分解されて残留せず、0.5ppbの検出限界で

検出されないことが確認できました。


また、山型食パンでパン中の残存量を大幅に減少させ、

臭素酸カリウムのパン生地改良効果を最大限に発揮させる技術が確立できました。


そこで、臭素酸カリウムを使用する製パンメーカーは、(社)日本パン工業会科学技術委員会小委員会の管理下で、

適正製造規範(GMP)に準じた自主基準を遵守して角型食パンに限って使用を再開することになりました。


 なお、厚生労働省のご指導により、お客様には商品選択に資するように商品には臭素酸カリウム

使用の旨を表示しております。

http://www.pankougyokai-subc.jp/safety.html


パン生地改良剤(臭素酸カリウム)の角形食パンに関するQ&A    日本パン工業会

http://www.pankougyokai-subc.jp/q&a.html




使用に批判的な意見も・・・・・


臭素酸カリウムについてのQ&A   日本生協連安全政策推進室

http://jccu.coop/food-safety/qa/qa01_03.html#menu


【臭素酸カリウム。EUでは使用禁止】パン生地改良剤として使われる発がん性物質。

ガンガン使う会社=山崎製パン「無添加でいいもの作れるはずないだろ!」と社長。

2009/9/30 My News Japanより。

厚労省は「残留しない条件で認める」FAO/WHO「100%除去が保証できない」

・・・「検出されない」は「残存ゼロ」ではない

http://enzai.9-11.jp/?p=9918


臭素酸カリウムの発がん性について (財)佐々木研究所 黒川雄二

http://www.sasaki-foundation.jp/rireki/kenkyu.html


(財)佐々木研究所

http://www.sasaki-foundation.jp/




こんなパン屋も・・・・・


臭素酸カリウム不使用について - 神戸屋

http://www.kobeya.co.jp/fresh_pure/index_fp6.html


神戸屋

http://www.kobeya.co.jp/index.html


臭素酸カリウム不使用について - Pasco

http://www.pasconet.co.jp/company/feeling/material02.html


Pasco

http://www.pasconet.co.jp/




あなたはどんなパンを食べていますか。








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デッキのある家


1998301


わが家を新築したのが98年の3月。

県の河川改修事業に協力するかたちで鶴来町より転居したものだ。

500戸はある新しい住宅団地の中にあってもひときわ目をひくユニークな造りといえるかもしれない。


公園に面した側は家の長さいっぱいにとったひさしの深いデッキ。

そこが玄関にもなっているのだが家の側面へスロープで降りられるようになっていて

足の不自由なかた、車いすのかたを想定した造りになっている。


「すべてのひとを迎え入れる家」とした家づくりの基本コンセプトは

形としての家だけではなく、多くのひととの出会いの "場" をねがってのことでもある。

人生は出会いからはじまる。それを形にしたかった。


公園に面していることもあってたちまち注目の的となった。


「なかはどうなっているんや」


「いっぺん はいってみたい」


こどもたちは思ったままを口にしてくれるのでわかりやすい。

デッキのベンチを公園の延長ととらえているのだろう。

何人かこしかけてゲームなんかしている姿をよくみかける。


「雨の日はここ使ってください」


そういってご近所の幼児の運動場に解放しているのだが、

日ごとに力強さを増していくヨチヨチ歩きの音は2階の部屋で聞いていておもわずこちらの顔もほころぶ。


きのうなどは見かけないお顔の来客があった。

こちらからカーテン越しに見ていることなど気にとめる様子もなく足を投げ出してお昼寝をしている。

どうも自分のエリアと決め込んでいるふしがある。

事前のことわりはなかったはずだが「千客万来」ってことで、ま、いいか。


多くのひととの出会いのために作ったスロープだったが、

そこから車椅子の母を連れ出すことになろうとは思いもしないことだった。


07年の晩秋、突然に末期癌を宣告され病院通いが始まった。

スロープがなければ車椅子の人間を私ひとりで車に乗せることなど到底できることではない。

パニックになっていたろう。


おだやかに晴れた昼下がり、車椅子のまま散歩に連れて行くこともできた。

私の人生で最もきびしい時間であったが最もしあわせな時間でもあった。


すべてのひとを迎え入れる家はほかでもない私たち自身を迎え入れてくれる家であった。


きょうも手をふりながら行き交うこどもたちの笑顔があった。

そんなおだやかな街のなかにデッキのある家は建っている。






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一見(いちげん)さんお断り



永六輔氏が「一見さんお断り」の話をされていた。

京都で評判の割烹だったかに予約の電話を入れたところ、

 


   お昼何を召し上がられましたか


   朝は何を召し上がられましたか


   夕べは何を召し上がられましたか



散々聞かれたという。

先に召し上がったものと重ならないように用意させてもらいます、とのことだったようだが、

気の短い永氏は途中で電話を切ったという。


その後、祇園の料亭の主人に「一見さんお断り」の理由を教えられたと語っておられた。

「一見さんお断り」と聞けば、「何お高くとまってんだ」となるようだが、

もてなすということに対する料亭の真摯な姿勢があってのことだという内容だった。


   お客さんの好みをわからいでは自信をもっておもてなしできません。


   お客さんの好みに合わせ、お客さんが心から満足できるよう最善を尽くす、これが仕事やと思います。


   どういうおかたかわからぬままに用意するなんて不安でならんでしょう。


   宣伝して大勢のお客さん呼んで、ちゃんとしたおもてなしができるんですかね。



いのちがけで仕事するということはこういうことなのかと思い知ったという。



そういえば母も呉服屋さんにお客さんのことをよく尋ねていた。

寸法だけでなく、何を仕事にしているか、

趣味は何か等およそ着物の仕立てに関係なさそうなことまで尋ねていた。

姿や動きがイメージできないと仕立ても出来ないという。

ただ形になっていればいいというのでは着にくいという。


最近では東南アジアで浴衣を縫製していると聞く。

確かにそうでなければ帯、下駄、はては団扇までつけて5000円で出来るとは思えない。

母などは仕立代だけで2万円とっていた。


どの道も「良いもの」を作るというのは奧が深そうだ。


ということは "ものづくり" は やはりオーダーが基本だということか。

お客のひととなりを受けとめてこそ、「満足」を提供できるという言葉は、

大量生産で潤ってきたこの社会に対する静かな抵抗であり、

原型だけ作り、あとは弟子にまかせている一流パティシエに対する痛烈な皮肉でもある。


お客の顔を思い浮かべながら、工夫や努力を重ねてきたことが「文化」を築いてきたといえるのかも知れない。

ものを中に置いて作り手と受け手がこころを通い合わす、"手作り" とはこういうことなのだろう。


日本人の暮らしを知らない外国の人が作る "日本" は決してお客の欲求を満たしはしない。

コスト優先で作る仕事はたんなる産業でしかない。








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映画づくり





私は6年前、母が亡くなったのをきっかけにテレビの契約を解除した。

観たいと思えるものがなくなったからだ。

テレビが嫌いなわけではない。叔父の肩車で街頭テレビをみて以来テレビっ子であったともいえる。


しかし、幼い日に電気屋の店先でみていた「テストパターン」や「番組のお知らせ」ほどに

私を引きつけるものを探そうとしても、現在のテレビ界にはそんな怪しいまでの魔力を秘めた

番組などどこにもない。


視聴率の呪縛から抜け出せないテレビは魔力を失い、スポンサーが魔力をもちだした。

作品をサポートするスポンサーではなく、スポンサーをサポートするテレビになってしまった。



近年、といってもハイビジョンの試験放送の時だからかなりたつが、

私を小学生の頃にタイムスリップさせてくれる放送があった。


ひとつは東南アジアとおもわれるが、幼い女の子が学校から家まで帰るという、ただそれだけの映像だった。

ナレーションもない、音楽や効果音もない、実にシンプルな映像だ。


ところが、これが実にいい。からだに似合わぬ大きなかばんをかついで、あちこちで道草をしている。

女の子の目に映るものはすべてが新鮮だ。道すがら出あう家畜や小川の生き物たち。

いつしか私も女の子になっていた。


もうひとつは東京近郊の鉄道の映像だった。これもナレーション、音楽等いっさいなし。

列車の先頭にカメラを置いただけという、これ以上のシンプルさもないだろうと思える映像だ。


今どきの鉄道ファンにとっては物足りないかもしれない。車両全体の姿は映らないのだから。

ただひたすら前方に流れる線路が映るのみだ。観ているほうはすっかり運転士である。


手元にあったお茶がすっかり冷たくなっていることも忘れて見入っていた。

"見る楽しさ" "映像文化の本質" をしっかり捉えた内容だった。


今のテレビが演出が過ぎて、例にあげた放送に演出がないのか。

そうではない。女の子も鉄道もしっかりとした演出がつくりだした映像だ。

では、何が違うのか。



私は "人間をみるまなざし" であるように思えてならない。

最近のテレビに物足りなさを感じるのはこの "まなざし" のなさである。


ストーリーだけを追っかけているような作品では登場人物の行為のみが大切なわけで、

屈折したこころの有り様やその原点がどこにあるか考える必要はない。

表面的な謎解きにのみ視聴者の関心が集まってくれればそれでよいのだ。


人間の上っ面しかとらえようとしなければ作品は淡泊なものとなり、味わい深いものになどなるわけがない。

これでは作り手のメッセージがまるで伝わってこない。

いや、そもそもメッセージなるものが込められているのかさえ観る側にはわからない。

見終わった後に何も残らない。


こういう人間の描き方は観る側の "人間観" "人生観" に強い影響をあたえる。

いつしかひとは他人の行為のみにしか関心を寄せない無機質な生き方をしてしまう。


そして、自分はドラマのヒーローであり、

妨げになる存在に対してはドラマの悪役を見るような、そんな目つきでしか人を見れなくなる。

こちらも、あいてもおなじ "ひと" であることを忘れて。



端役や通行人にまで神経を使っていたら今のテレビはつくれない、というのが現場の声かもしれない。

端役や通行人をどうとらえるか、どう位置づけているかは演出家の理念にとどまらず、

発信されるメッセージにも現れる。


作品は主人公だけで作れるものではない。台詞などない通行人もいなければ情景描写などできない。

実はこの風景としての大部屋役者たちの出来不出来が作品を左右する。


ピアノもハンマーで叩かれる弦だけで音が出ているわけではない。

叩かれていない弦も間違いなくピアノとしての音を出している。あれとおなじだ。


だからこそ黒沢は無名の役者の卵の歩き方にほぼ一日をかけた。

「七人の侍」の撮影現場での話だ。

そして、数秒のカットに一日中歩かされた役者の卵こそ、名優仲代達矢である。


台詞のある役者は台詞で表現できる。

しかし、端役や仕出しはそこにいるだけで風景にならねばならない。

売春宿の女将が御店のお内儀に見えては困るのだ。バーテンダーが銀行の頭取では酒場にならないのだ。


そんなクレジットにさえ出てこない大勢のひとびとの熱い思いが作品を作っている。

この思いを大切にしていれば観ている側にも伝わる。

逆に、粗略すれば小学生の学芸会になってしまう。



よく人生はドラマだといわれる。波瀾万丈の日々や思いがけない出逢いをいうのだろうが、

私はそれぞれの持ち場でそれぞれが主人公である撮影現場をイメージしてしまう。


誰が偉いとかそんなことは誰も言わない。

違って見えるのは脚本がそうさせているだけであることは皆がわかっている。

善人悪人は作品であって、カットを撮り終えればみなよき仲間である。

撮影所にいる全員が大切な仲間で、いらない人など一人もいない。


短い大学生活の中で京都ならではのアルバイトをした。映画のエキストラだ。

私が映画づくりの現場を知るのはそのせいである。


大映で「兵隊やくざ」「大魔神」がシリーズで作られていた頃だ。

マイクロバスで送迎され弁当付きで確か700円だった。

名の売れた人も大部屋の役者もない、皆が対等、大映撮影所はそんなところだった。



          ※[仕出し]

           映画に主役や脇役以外のその他大勢、つまりエキストラはつきもの。

           その中にあって若干の台詞もあるキャラクターが必要なわけで、これを仕出しという。

           大部屋の役者さんたちの仕事。







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桜の季節

Photo_6






町内に住む友人が「いただきものですけど」と言って羊羹を持って遊びに来た。

あれこれ話すうちに「一休の詩」の話になった。


http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week19/index.html#entry-76444792


「ああ そうなんや 全然知らんかった」


「けど やっぱり清沢哲夫の方が落ち着きがいいね 文章として素直だし お子さんへの愛情が伝わってくるわ」


「それはそうと剱さん」


「うん?」


「これってどうして書いたがぁ? 

 パソコンって横書きばっかしやろ 縦書きの文章があってもいいと思うとったけど・・・どんなソフトや」


「いやぁ これは横書きなんや」


「横書き? 縦書きやがいね」


「うん 縦書きに見えるけど これは横書きなんや 禅問答みたいかも知れんけどね」


しばらくけげんそうな表情の彼女だったが、


「あぁ そういうこと?」


「うん そういうこと」


「あぁあ わたしも頭が固くなったわ」




私の住む井上の荘という住宅団地もご多分に漏れず、

各種の営業や宗教の勧誘のターゲットにされている感がある。

いつもはインターホン越しに断っているのだが、仕事に区切りがつき休憩中だったこともあり、

頻繁に訪れる、ある新興宗教のメンバー二人を中へ招き入れた。


「私は宗教を語るとき 専門用語を一切使わないことをモットーにしています

 お二人もそのおつもりでお話しください さあどうぞ」


まったく想定していない発言だったと見えて、とたんに言葉数が少なくなった。

「さあどうぞ」と、一応は聞く姿勢を見せている私へのアプローチに戸惑っているようだった。


それでも社会で起きている事への感想やなんかを話しだした。

やがて年上の女性が自分の子供について語り出した。


幼児期と違って、親の言うことを聞かない。口答えばかりして反抗的になる・・・ということだった。

子育てにほとほと手を焼いているという表情だ。


「唐突に思われるかも知れませんが・・・お二人は『桜の季節』っていうと いつとお考えですか」


女性たちは口をそろえて即座に


「そりゃあ3月下旬から4月上旬でしょう  年によって若干ずれるでしょうけど・・」  


「あなた、そりゃ『花見の季節』でしょ  私は『桜の季節』と言ったはずですが」

 

「・・・・・・・」


「桜は花が散っても桜ですよ


 夏には夏の 秋には秋の 冬には冬の いろんな表情がある それみんな桜なんですよ

 つまり 一年中『桜の季節』なんですよ  『花見の季節』が『桜の季節』というのは人間の身勝手です


 桜を育てると言うことは 土作りから始まって 苗を育て 水をやり 毛虫からまもり 堆肥を施し

 そうやって丁寧に丁寧に接してやらないと桜は育たない


 『花の季節』以外も全部好きになってやらないとね 


 お子さんは見透かしているのではありませんか  あなたが『花』にしか関心がないことを・・・」


女性たちは真っ赤な顔になり、恥ずかしそうにうつむいていた。

やがて無言のまま深々と一礼し、帰って行った。




人間はともすると、あらゆる事象を自分のフィールドで捉えようとする。

思い込みや自分の思慮の無さを忘れて、自分のフィールドに映ったものを真実と信じ込みたがる。


臓器移植ということが先に決まっていたのでは、死の定義も見えなくなってくるというものだ。

これは真理探究にとって大きな障害となる。歪められた「真理」は我々を隘路に導くだけだ。


人間が人間である以上、先入観や身勝手さなしに事象を捉えるのはそんなに簡単な事ではない。限界もあろう。

しかし、真実と自分のフィールドのギャップを極力小さくする努力だけは怠ってはならない。

それが勉強をするということだと思う。






追記


文字はどのようにも書ける。

縦に読めば意味が理解できるからといってその文章がお約束通りの順序で書かれたとは限らない。

「道」の文章は紛れもなく横書きで書いたものだ。


私の使っているメールソフトは横に書いていくしかできない。

いわゆる「縦書き」というスタイルにしたければ見たとおりを強引に左から右へと書くしかない。

正直これは骨が折れた。

結果、読む人が「縦読み」にしているだけのことだ。


物事の本質に迫るときはそうした部分に注意を払う感性、洞察力が必要だ。

でなければ私たちはいとも簡単に用意された答えに誘導されてしまう。








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ガラス細工の地球


今、人々はある意味で呪文をかけられている。


「地球温暖化防止」「省エネ」「節電」という言葉がすべてに優先される空気に包まれている感がある。

原発事故がことさらこの空気を濃いものにしている。


無論、どれも大事なことには違いない。

しかし、本質を見誤って目先の対策に右往左往していても未来は見えてこない。


地球温暖化防止と言われれば、

「二酸化炭素を出さない原子力発電が有効である」という言葉に騙されてしまう。

裏にもっと大きな問題が隠されていることも知らずに。


標準的な原発では1秒間に70トンの海水を7度温めて海に流しているという。

原発のエネルギーの三分の二を使ってだ。これは発電所ではなく、湯沸かし所だ。

これが日本だけで54基あるという。


温暖化防止というが、これこそが温暖化の根源にある問題だろうと素人ながらに思う。

これで海水が温まらないと考える人がいたら科学的根拠を示すべきだ。


こんな事を世界中で行なっていれば気象に影響も出るだろう。

放射能の問題がクリアされたとしても、

津波対策がなされたとしても「湯沸かし器」の本質は何も変わらない。


私たちはしっかりと現実に目を向けるべきだ。

「部分」の議論でよしとする雰囲気に引きずり込まれてはならない。



ご多分に漏れず、原発もまた後のことを何も考えないで突っ走った。

子孫にツケを残さないために今、財政再建が必要だと主張していた与謝野氏は「日本原子力発電」出身として、

核廃棄物の処理をどう考えていたのか。


処理を子孫に託して毎日毎日せっせと核廃棄物を作り続ける現状をどう言い訳するのか。

まずは足下の問題を片付けてからにして欲しいものだ。


放射能を撒き散らさないエネルギーが求められている。

識者も風力だ、太陽光だ、地熱だと言っている。

その方向が正しいのか、別の選択肢があるのか、門外漢の私にはわからない。


私の視点は別の所にある。

どんなエネルギーであれ、人類が無制限に消費してよいエネルギーが存在するのかということだ。


人間のエゴを優先し、自然界の調和を乱せば、やがて動的平衡を保とうとする自然界から

それに見合った様々な反動を受けることになる。



私たちの体は分子から成り立っている。

しかも、絶え間なく外界の分子と入れ替わっている。


私たちの体は単に分子の「よどみ」のようなものでしかない。

外界の変化はすぐさま生命の危機に直結する。

いや、外界という概念そのものが意味をなさない。

内も外もない。私たちは自然界の働きの中に浮かんでいるに過ぎない。


「自然を征服する」というのはあまりに人間中心的な発想であり、

意のままにされているのはむしろ私たちであると認識しなくてはならない。


「自然を愛する」という言い方自体、私たち自身が「自然」そのものであることを忘れている事を意味する。


私たちは「我--汝」「我--それ」と言う概念などない「ひとつ」の世界に生きている。

長い時間をかけて互いに折り合いをつけて保たれている精妙な均衡の世界に私たちは息づいている。

自然界全体の調和が崩れることは死を意味する。


部分的な視野しかない人々は、自分の関心事にのみ反応する。

風邪で発熱するとすぐに熱を下げようとする人がいる。医師であってもだ。

すぐに座薬を処方する外科医の如何に多いことか。


しかし、熱を下げれば白血球の働きが弱まり、かえって症状をやっかいなものにする。

ちゃんとした医師なら安易に解熱剤を処方せず、経過を観察する。


西洋に発した近代文明というのは効率を求める故か、民族性の故か、部分的な思考が好きなようだ。

薬草から自分の好きな成分だけを抽出して薬とする。注目しない成分は無いことにしてしまう。

しかし、その成分に大変重要な働きがあることを後になって知る。


部分的な思考で生命をとらえ、宇宙を語るのは真理探究の妨げになるだけでなく、

私たちの生命を危険にさらすことになりかねない。


デカルト以降特に顕著になってきた機械論的生命観・宇宙観が私たちの存亡に大きく影を落としている。

「インフルエンザワクチンや多くの抗生物質」「移植医療」「遺伝子操作」「生殖医療」「農薬農業」・・・・


どれも「自然を征服する」と言うような発想から始まっていると思われるが、

問題点続出で隘路にはまり込んでいる。


人体でどのように電気が発生するかも満足に説明できない連中が「移植医療」とは・・・

何とも恐ろしい事である。


分子生物学者福岡伸一氏は人間の体に部品というものなど無いという。

仮に人の顔から嗅覚のパーツである鼻を体から切り離し、別の体に移植しようしても

すべてがつながっていて、結局は体全体を取ってこないと機能の移植は出来ないという。
           



これは人体に限ったことではない。自然界に孤立した箇所、部分など無い。

一部分の問題と言うことはあり得ない。必ず全体の問題となってくる。

一方の効率の良さは全体を非効率なものにし、平衡状態を乱してしまう。



私たちは先ず自然界のしくみ、関わり合いかたを学び、仲間に入れてもらう謙虚さが必要だ。

この地球はガラス細工のようにもろい。






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永田町住人たちの犯罪2___そして犯罪はつづく



≪引用開始≫

天満の母子遺体「最後にもっとおいしいもの食べさせてあげられなくてごめんね」
産経新聞 2013年5月27日(月)15時23分配信

 ■母、3歳息子にメモ

 大阪市北区天満のマンションの一室で、母子とみられる2人の遺体が見つかった事件で、室内から

 「最後にもっとおいしいものを食べさせてあげられなくてごめんね」とのメモが発見されたことが

 27日、捜査関係者への取材で分かった。

 母親とみられる女性が、現金をほとんど所持していなかったことも判明。

 室内の電気やガスが止められていたほか冷蔵庫もなく、母子が困窮状態に陥っていた可能性が高い。

 司法解剖でも女性や幼児の死因は特定できなかったが、体形などから女性は飢餓状態にはなかったとみられる。

 大阪府警天満署は生活苦から将来を悲観して、無理心中を図った疑いもあるとみて慎重に調べている。

 部屋から見つかった運転免許証や乳幼児医療証などから、

 亡くなったのは井上充代(みつよ)さん(28)と息子の瑠海(るい)ちゃん(3)とみられる。

 捜査関係者によると、井上さんは昨年10月に知人の紹介で、このマンション3階の一室に入居した。

 仕事はしていなかったとみられ、室内には小銭程度しかなかった。

 食べ物も食塩程度しかなかったといい、府警は井上さんの預金残高など生活状況を詳しく調べている。



沖縄タイムス  …2013年5月30日 09時16分
[大弦小弦]「もっとおいしい食事をさせてあげたかった」

 「もっとおいしい食事をさせてあげたかった」と3歳の息子に謝り、餓死したとみられる28歳の母親が

 「遺書」に込めた温かな親心に、胸が締め付けられた

▼母子が住んでいた大阪市北区のマンションは電気やガスが止まり、食べ物は食塩がわずかにあっただけ。

 夫からのDVを避けたためか、転居後は住民票を移さず、生活保護を受けていなかった

▼「オニギリ食べたい」と日記に書き残し、生活保護を「辞退」させられた北九州市の独り暮らしの50代男性が

 亡くなって社会に衝撃が走り、生保のあり方が問われたのは約6年前。二度と繰り返してはならないはずだった

▼この時は、生保の申請を拒否する「水際作戦」や「打ち切り」など行政対応が問題となった。

 母子は転居時に孤立を深め、行政はその存在さえ知らなかった可能性がある

▼貧困のすそ野が広がり、対応が複雑で深刻さを増していることの表れだ。

 生保の受給者が10カ月連続で過去最多を更新し、約215万5千人(2月時点)に達する一方で、

 極貧なのに救われなかった2人の若い命があるという矛盾も抱える

▼誤解や偏見から生保へ厳しい目を向ける人の声が大きいのも無縁ではないだろう。

 かわいい盛りの男児の目に、最期に映ったのが非情な社会だったとしたら、こんなに悲しいことはない。

(与那嶺一枝)

≪引用終了≫



「最後にもっとおいしいもの食べさせてあげられなくてごめんね」

衝撃的な言葉が世界中に伝わった。

ジャーナリズムはまだ生きていた、木鐸は朽ちてはいなかった・・・・・

と言いたいところだが、28歳の母が遺した衝撃的なメモがなければ事件はこれほどに報道されただろうか。

メディアは表面に出てきたごく一部の出来事を視聴率や部数のために報じているだけではないのか。

社会の底辺、陰の部分に光を当て、たてまえではない社会の実像を世に問うてこそ木鐸であろう。

生活保護の申請を拒否する行政の対応は何も変わってなどいないではないか。

政府の御用機関と化したメディアどもに政の不備や矛盾を糾弾する気概があるとはとても思えない。


何かと問題も多く、国会に上程されることなく今日に至っている改正刑法草案だが

その第12条に不真正不作為犯を規定していた。

          第12条(不作為による作為犯)
          罪となるべき事実の発生を防止する責任を負う者が、その発生を防止することができたにも
          かかわらず、ことさらにこれを防止しないことによってその事実を発生させたときは、
          作為によつて罪となるべき事実を生ぜしめた者と同じである。

          ※不作為
            法律で、あえて積極的な行為をしないこと。

デフレ経済から脱却できぬ中、消費税増税などをいう政治の素人集団の犯罪は罰せられないのか。

企業のやりたい放題になってしまっている雇用環境の放置は許されるのか。


「経営が成り立たないから」という似非資本家の言葉だけを聞き、雇用環境の悪化を推し進めてきた政治。

国民に購買力がないのにどうやって経済を活性化させようとするのか。

税率を上げることと税収を増やすことは違うであろう。

素人政治家、高給官僚にはそれがまったくわかっていない。

世の中を知らない彼らのやっていることはこどもの「政治ごっこ」に過ぎない。

  「お客さんを大事にせな商売というものは続けていけません  金はあんじょう回さんとな」

昔からどんな商人(あきんど)でも言うことだ。

お客さんが豊かになってくれなければ商売人も共倒れだ。

似非資本家、高給官僚にはそれがわからない。


TPP参加不参加議論が十分なされていない状況でさえこのような事件が起きている。

TPP参加ともなれば雇用情勢は今以上に劣悪になる。

貧困層はさらに増加する。

この種の事件は常態化し、こんな形でニュースになることすらなくなるだろう。


先日もあるかたが「正規雇用」「非正規雇用」の理不尽さをブログで取り上げられていた。

民間も官庁も予算がないからといって「雇用」で苦しい予算を調整しようとしている。

同一労働同一賃金ならまだしも、正規雇用の者は自分たちの生活を守るため、

弱い立場である非正規の待遇をよくしようとはしない。

何のことはない。これでは奴隷を囲っているのと同じではないか。

これで豊かな社会が築けるとはとんだお笑いぐさである。自由、平等が聞いて呆れる。

日本は奴隷制度社会だ。


どの政党も選挙向けに耳触りのいい言葉をマニフェストに書き連ねる。

遙か彼方の理想もよいが、いま緊急にやらなければならないことにどう対処するのか、

嘘偽りの無いところを有権者に示してもらいたい。

もっとも政治家個人に嘘偽りは無くとも、政党は集団である。意見の違いも当然ある。

有権者に示したことがすべて果たせるとは限らない。結果、嘘偽りになることもあろう。

が、重要政策で正反対のことを言う人々が集って政党を名乗れば立派な詐欺ではないのか。

社会の有り様を根底から変え、すべてをウォール街の思惑にゆだねるTPPに賛成する人と

反対する人が同席する政党をどう評価せよと言うのだ。

確かに、政権をとるには大きな集団でなければならない。

が、意見の幅があまりに大きい人々が集うと先の民主党のように頓挫してしまう。

それはそのまま自民党にもいえることで、自民党も民主党も参院選の前に分党すべきであろう。

でなければ本質的に公約違反を抱える党との非難は免れ得ない。

今のままでは有権者は選択の基準を持てない。

選挙が民主政治の第一歩というが、選択の基準を持てない状況では選挙に意味など無い。

政党内の混乱こそが政治の混乱であり、社会の混乱であり、経済の混乱である。

我々はいつまでこういう状況を甘受しなければならんのだ。

がらがらポンをやってからの選挙にしてほしいものである。


「福祉の党」「教育の党」「平和の党」といいながら政権与党の座にしがみついている党もある。

キャッチフレーズはたてまえなのか。推し進めてきたことは真逆の政策ばかりではないか。

「TPPは国民的議論を」などと国民目線を装ってはいても対米隷従はみえみえではないか。

「国民的議論を」などと政治家が言うときはまともな議論を避け、

結果の責任だけを国民に押しつけてくるということだろう。

赤坂党の彼らに真の政策立案能力、実行力はない。


そんなこんなに明け暮れ、社会の混乱、経済の混乱は長期にわたっている。

政治家達は混迷からの出口を示すことすらできていない。

一部の人間のみが潤う社会スタイルは定着してしまったし、今後は今以上に格差が拡大するだろう。

社会の木鐸たるメディアはすでに朽ちている。

政は朽ちている。

体制は我々が暴力革命を起こさねばならない状況にまで追い込むつもりなのか。


亡くなられた親子に哀悼の意を表するとともに、このような社会、政を許してきたことを心からお詫びしたい。

       この「永田町住人たちの犯罪」は私のファイルではもはやテンプレート化している。
       文面はほぼ以前と同じものを使っている。
       このテンプレート、削除できる日は来るのだろうか。


あなたはきのうどんな食事をされましたか?

※「高給官僚」は「高級官僚」の誤変換ではありません。






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世界のスタンダードになる平和憲法を!



「マニュアル人間」というと世間では手引書に従うばかりで

それに掲載されていない事態には対応できないひとをさす。それでもマニュアルは必要だ。

作業の安全管理や組織全体の一貫性のためにも重要なものだ。


人間工学や経営学的考察は専門家にまかせるとして、

永年製造工場に籍を置いて気がついたことを紹介する。


結論からいうとマニュアルは「作ること」に意味があるということだ。


大企業なら優秀な人材もあつまるだろうが中小・零細ではそうもいかない。

当然、仕事と向きあう意識にも従業員間で温度差が大きい。

そのことは品質のばらつきや安全作業の不徹底となって現れる。


わたしが入社した頃は企業再建を図るという次期であって、恥ずかしい話だが、

外科病院から毎年年賀状がくるという状態だった。


労災事故があればどんなに利益を出そうとも小さな企業はもたない。

まして再建中である。安全マニュアル、作業マニュアルの整備が不可欠だった。


首脳陣はマニュアルづくりを急ぎそれを工場に徹底させようとした。

しかし、わたしは意識改革が必要とし、時間がかかっても社内一丸となって進めることを提案した。

当事者意識を持ってもらうことが早道と考えたからだ。

一部の部署に負荷をかけ過ぎれば業務のバランスを悪くする。


押しつけられたものと違って当事者意識からくる改革・改善は効果的だった。

日毎に品質は安定してきたし、けがも少なくなった。

時期を見計らって「改革・改善」を冊子にすることにした。


ところが、冊子ができてしばらく経つとまた品質にばらつきが出始めたのだ。

どういうことか。
それはひとの意識の働きにある。


「創造」することは自身の主体性を発揮する行為であり自己満足も得られる。

それに反し「順守」することは何も考えずにいるということであって、ひとにとっては「苦痛」なのだ。


マニュアルの内容に問題があったわけではない。

マニュアルとの関わり方が変わった、そのことが問題だった。


マニュアルを順守するだけというのはつまらないことである。

無論、作業者に怠惰な気持ちがあるわけではない。

しかし、微妙に違うのだ。「さあ、これからマニュアルを作っていくぞ」と熱く語り合っていたときと。

ひとは充足感を感じ続けないと生きられないのだ。


「マニュアル」を順守するということが大事なのではない。

情熱をもって「マニュアル」をつくっていく、そのことが大事なのだ。


憲法問題でも同じことが言えると思っている。


戦後諸先輩が行なってきた「護憲運動」という姿勢に私は違和感がある。

もっといえば運動のあり方として間違っていると思っている。


マニュアルのことで触れたように「順守」という行為は「創造する」という行為と比較すると

熱が冷めやすいと言うことだ。無関心に流れてしまうと言うことだ。


民主的な国づくりに燃えていたまだ熱いうちに「もっと民主的に もっと民主的に」と

改訂版をつくる体制を作るべきだった。


反動的な勢力の芽が育たない空気を作るべきだった。

戦前の憲法よりも民主的なものができた。

しかし、よろこびのあまり育てることにもう一つ力が入らなかったのではないか。


朝鮮戦争に始まる東西冷戦構造がそれを許さなかったということはあるのだが・・・


この憲法づくりに携わった日米のリベラルな人々は決して燃焼し尽くしたわけではないと思う。

世界の何処にもまだない平和憲法をとねがった思いを私たちは成就させるつとめがある。








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総括をしない日本人___スケープゴートにされたA級戦犯たち



かつて菅直人氏は靖国神社問題について「A級戦犯合祀という本質的な問題がある」と発言した。


これはまったくおかしなことで、一宗教法人が誰を祀ろうと政治が介入すべき問題ではない。

政治が靖国神社をどうこうしようと言うこと自体、政教分離を逸脱した行為と言うべきだろう。

政治の介入こそが本質的な問題である。


神社側が天皇のために戦死した人を追悼しようと戦犯と認定された人々を祀っていようと、

それは一宗教団体のあり方の範囲内であれば自由であるべきだ。

そうでなければ憲法に定めた信教の自由は有名無実なものとなってしまう。


    第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。


    第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、

           又は政治上の権力を行使してはならない。

         2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

         3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。



A級戦犯合祀が問題・・と捉えるから「分離すれば・・」という話に引きずり込まれる。

何故、そうまでして「神社」という形にこだわるのか。

政治が「神社」を必要とする魂胆とは何なのか。

政教分離の大原則はいったい何処へ行ったというのだ。


合祀・分離論が出てくることは国家による「靖国神社」存立を画策するグループの巧みな戦略であり、

そのような議論の土俵に乗ること自体、

憲法が描いている民主的国家運営から遠いものであることを忘れてはならない。


そもそもA級戦犯とは日本の国内法で戦争犯罪と決められたものではない。

第二次大戦後極東国際軍事裁判で連合国、つまり、戦勝国によって犯罪とされたものである。


裁判そのものを否定するつもりはないが、手続きとして国内法が関わっていないことは押さえておくべきだ。

つまり、A級戦犯合祀が問題になるということは、国内の総意や法理論よりも

戦勝国におもねることが優先されていることにある。


60年余を経過した今日でもなお敗戦国の呪縛から解放されない政治のありようは

独立国としての将来を思うとき、まことに憂慮に耐えない。


戦前の国家体制がよい社会とはとうてい思えない。

戦争という最も愚かな道を選択し、あまたの尊い命を犠牲にしたことを擁護するつもりなど毛頭ない。

侵略戦争ではなかったという論調に与するものでもない。


真に民主的な国家を築いていく過程においては戦前の政治体制について十分な検証が必要となる。

では、これまでに日本の市民の手によって検証し、自らを裁いたのかといえば答えは「NO」である。


一部の人間をスケープゴートとして巣鴨におくり、戦争犯罪のすべての罪を被せ、

自分たちは何も関係がなかったと戦後社会を生きるような連中がこの社会をよい方向に導くものだろうか。


戦前、戦中を巧みな処世術で生き抜いた連中は、戦後、GHQにとりいり戦犯リストから逃れている。

悪名高き731部隊の石井四郎は訴追もされていない。


自ら最高責任者でありながら戦後は傍観者を装い、平和国家の「顔」を演じ続けた天皇裕仁は

その意味で最も卑劣きわまりない人間である。


A級戦犯分離を唱えるということはまさにこの延長線上にある論理である。

戦前の国家体制について批判することもせず、

「加害者であるA級戦犯」を切り離して新しい国家を築こうとしても、

足元のしっかりしていない国家観など砂上の楼閣でしかない。


歴史の検証、それは決して容易ではない。

先人たちを傷つけることもあるかもしれない。

しかし、あまたの尊い命が犠牲になり、我々がその当事者であった事実から目を背けてはならない。


戦争に参加した人、当時こどもだった人、そればかりではない、

現代の我々も含めすべての人が検証に立ち会わなければならない。

そうでなければ本当に民主的な社会、平和な社会などつくれるはずはない。


スケープゴートとして死んでいった人たちは無駄死にになってしまう。





ウィンザー通信

家畜的な盲従に自己の一切を委ねてしまった国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任が悪の本体
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/aba75602d41c1774fa78180242454816


戦争責任者の問題  伊丹万作
http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html






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失いたくないものは?


1948年春、日本の教育状況と日本語に対する無知と偏見から

「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」

とするアメリカの若い将校の発案で日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。

その年の8月に文部省によって実施された「日本人の読み書き能力調査」であったが、

結果、漢字の読み書きができない人は2.1%にとどまり「日本人の識字率が100%に近い」という結果が出た。

世界的に見てもこれは例を見ないレベルであり、日本語のローマ字化は撤回された。

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あなたにとって 失いたくないもの は なんですか

あなたにとって 奪われたくないもの は なんですか


ひとりひとりのこの素朴な思いがしっかりと認識されていなければならない。

「何をまもるか」誰もその答えをもたぬままでは「防衛」という行為は成り立たない。あってはならない。

「国をまもる」「国を愛する」これらの言葉はある意味美しい響きがある。

しかし、どちらも漠然としていて「イメージの世界」を脱していない。

ここにつけこまれ私たちは利用される。協力させられる。

何をまもる、何を愛する・・・これらは具体的に語られなければならない。


   「こいし屋」のうどんの味をまもりたい。
   

   きゃっきゃいいながら虫を追いかけているこどもたちの、そんな時間をまもりたい。
   

      重房さんの包丁作りに寄せる並々ならぬ情熱を大切にしたい。
   

   「いえなみ」ではなく「やなみ」という響きをまもりたい。
  

   etc


漠然としたイメージのままにしておきたい連中がいる。そのほうが都合がいいと考える連中がいる。

美しい言葉に酔いしれていては一部の人間の思惑に利用されるだけだ。

一部の人間のみが「まもりたい」とすることに付き合わされるだけだ。

それもこちらの命をかけて。

あたかもそれが自分の目的であるかのように信じ込まされて・・・・。


わたしたちから "大切なもの" を奪っていくのが外国人と決めつけてはならない。"敵" はどこにでもいる。

誰かが言っていた "おなじニッポンジン" を名乗って。わたしたちの協力者、後ろ盾のような顔をして。


外国でどろぼうの被害にあった夫妻は語っていた。

隣人がコンサートのチケットをプレゼントしてくれた。それもプレミアチケットだ。

夫妻は隣人の好意に感謝してコンサートに出かけた。

帰宅してみると家財道具はきれいになくなっていた。当然、隣人は行方をくらませていた。


日本人は善い人が多い。

しかし、周囲が自分と同じような善意の人であるとは限らない。ここが問題だ。

それでも「騙す人間」よりは「騙される人間」でありたいと願っているからどうにも始末に悪い。

だから好きになれる。

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[防衛]ニ ツイテ ノ シツモン デス

★ 防衛 トハ グタイテキニ ナニヲ スル コトデスカ

  A: 外国の勢力から国土をまもる
  

不正解デス

   北海道では近年、外国資本による森林取得が急増。道の調査によると、外資の森林取得は

   これまでに33件、計約820ヘクタールに上る。このうち最も多いのが中国の12件だった。

   自衛隊施設周辺や水源地にあたる森林が買収されるケースもあり、

   安全保障や公共秩序維持の観点から問題視する声が強まっている。  


コノヨウナ モンダイ ガ オキテイルノニ カスミガセキ モ ナガタチョウ モ ムカンシン デシタ

コクド ヲ マモル イシ ガ アルトハ オモエマセン

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★ 防衛 トハ グタイテキニ ナニヲ スル コトデスカ

  A: 外国の勢力から空をまもる

不正解デス

スデニ ニホンノ ソラ ニ ニホンノ ジユウニナル クウイキ ハ アリマセン

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★ 防衛 トハ グタイテキニ ナニヲ スル コトデスカ

  A: 日本人の財産をまもる
  

不正解デス

ニホンジン ノ ザイサン ハ ユウセイ ミンエイカ ノ ナノ モトニ

アメリカ シホン ニ サシダサレマシタ

セイフニ ザイサン ヲ マモル イシハ アリマセン

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★ 防衛 トハ グタイテキニ ナニヲ スル コトデスカ

  A: 日本の文化をまもる
  

不正解デス

エイガサンギョウ ハ ドクセン サレ アメリカ ノ ボウリョクテキ コウセンテキ

エイガ ヲ ミセラレツヅケテ イマス

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★ 防衛 トハ グタイテキニ ナニヲ スル コトデスカ

  A: 日本人の生命をまもる
  

不正解デス

ホウシャノウ オセン デ オオクノ ヒトノ セイメイ ガ キケンニ サラサレテ イマス

ソレデモ キケンナ ハツデンショ ヲ トメヨウトハ セズ デンリョクガイシャ ノ

リエキ ヲ ユウセン サセル セイフニ セイメイ ヲ マモル イシハ アリマセン 

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★ 防衛 トハ グタイテキニ ナニヲ スル コトデスカ

  A: 武器を生産すること
  

正解デス 正解デス

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あなたにとって 失いたくないもの は なんですか

あなたにとって 奪われたくないもの は なんですか









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永田町住人たちの犯罪


毎日新聞(2012年09月21日 00時30分)より引用


「保護責任者遺棄:4歳女児が衰弱死 両親を容疑で逮捕」


病気の長女(4)に適切な治療を受けさせず放置したとして、

愛知県警豊橋署は20日、同県豊橋市神野新田町口ノ割、派遣社員、加藤和久容疑者(48)と

妻の陽子容疑者(39)を保護責任者遺棄の疑いで逮捕した。


長女の杏奈ちゃんは20日午後、豊橋市内の病院で死亡が確認された。

同署は同遺棄致死容疑も視野に調べている。


容疑は、杏奈ちゃんが11年12月ごろに風邪をひいた際に適切な治療を受けさせず、

十分な食事を与えなかったとしている。


同署によると、死亡時の杏奈ちゃんの体重は8キロ程度で、平均的な4歳児の半分程度だった。

長男(7)は児童相談所に保護され、健康に問題はないという。


和久容疑者は「生活が苦しくて病院に行けなかった」などと供述しているという。


(引用終わり)


                      [保護責任者遺棄]

                      刑法第217条

                      老年、幼年、身体障害又は疾病のために扶助を必

                      要とする者を遺棄した者は、1年以下の懲役に処する。


何かと問題も多く、国会に上程されることなく今日に至っている改正刑法草案だが

その第12条に不真正不作為犯を規定していた。



          第12条(不作為による作為犯)

          罪となるべき事実の発生を防止する責任を負う者が、その発生を防止することができたにも

          かかわらず、ことさらにこれを防止しないことによってその事実を発生させたときは、

          作為によつて罪となるべき事実を生ぜしめた者と同じである。


          ※不作為

           法律で、あえて積極的な行為をしないこと。


デフレ経済から脱却できぬ中、消費税増税などをいう政治の素人集団の犯罪は罰せられないのか。

企業のやりたい放題になってしまっている雇用環境の放置は許されるのか。


「経営が成り立たないから」という似非資本家の言葉だけを聞き、雇用環境の悪化を推し進めてきた政治。

国民に購買力がないのにどうやって経済を活性化させようとするのか。


税率を上げることと税収を増やすことは違う。

素人政治家にはそれがまったくわかっていない。


世の中を知らない彼らのやっていることはこどもの「政治ごっこ」に過ぎない。


  「お客さんを大事にせな商売というものは続けていけません  金はあんじょう回さんとな」


昔からどんな商人(あきんど)でも言うことだ。

お客さんが豊かになってくれなければ商売人も共倒れだ。

似非資本家にはそれがわからない。


国民皆保険があってさえこのような事件が起きている。

TPP参加ともなれば自由診療中心となる。

医療費は高騰し、民間保険会社の医療保険に加入していなければ病気になっても我慢させるしかない。

この種の事件は常態化し、こんな形でニュースになることすらなくなるだろう。


先日もあるかたが「正規雇用」「非正規雇用」の理不尽さをブログで取り上げられていた。

民間も官庁も予算がないからといって「雇用」で苦しい予算を調整しようとしている。


同一労働同一賃金ならまだしも、正規雇用の者は自分たちの生活を守るため、

弱い立場である非正規の待遇をよくしようとはしない。


何のことはない。これでは奴隷を囲っているのと同じだ。

これで豊かな社会が築けるとはとんだお笑いぐさである。自由、平等が聞いて呆れる。




もう一方の党も偉そうなことは言えない。

彼らの暴政が2009年、庶民の反撃を招き政権を奪われたのではなかったか。


社会の混乱、経済の混乱は長期にわたっての政策の行き詰まりが出て来たものだ。

同罪であることになんら変わりはない。


3年しか経っていないのに、もう遠い過去のように言うのはやめてもらいたいものだ。

何も変わっていないではないか。

市民は愚かではない。


「庶民の党」と言い続けている党もそろそろまやかしのキャッチフレーズは止めにすることだ。

「福祉の党」「教育の党」「平和の党」といいながら推し進めていることは対米追従の庶民いじめ政策ではないか。


「TPPは国民的議論を」などと政治家が言うときはまともな議論を避け、

結果の責任だけを国民に押しつけてくると見ておいた方が良い。


赤坂党の彼らに真の政策立案能力、実行力はない。




亡くなられたお子さんに哀悼の意を表するとともに、このような政を許してきたことを心からお詫びしたい。








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Purple rain 


Cate_k_purple_rain

Purple rain 


雨が美しい季節になるとそんな名のバラがあったことを想いだす。


色の表現はむずかしいものだが、むらさきっぽいバラだ。

市場にはじめて出たせいもあったのだろうが、香林坊の花屋にならんだときは1本1000円もした。

むずかしい病状に落ち込んでいる友のためにかなり思い切って3本買いもとめた。


見たこともないそのバラの色にひさしぶりの笑顔をみせてくれ、

ねえ、これって何んて色? と、花などには疎い私を半分からかうようにきいてきた。


えっ これ? え~ バラ色だろ


苦しまぎれの返事に友は大きな声で笑いころげた。

はいってきた看護婦までもが笑っていた。

友に笑顔がもどってきたのだ。3000円は高くなかった。




世の中にはさまざまな色のバラがある。

よく「バラ色の人生」というときの「バラ色」というのはどんな色を言うのだろうか。


だけど、これってどこがおかしくないか。

多くのバラにむかって「あなたはバラ色ではない」と宣告することになる。

バラとしての "be"を認めないということになる。

白や黄や深紅のバラたちから抗議されそうだ。


   「あたくしたち それぞれ バラでございますのよ」


   「かってにバラ色を定義なさらないでくださいまし」 と。


おなじことはリンゴにもいえる。

「りんごのようなほっぺ」といえば、寒さの中を走りまわる子どもの赤いほおをさすようだけど・・・・


   「おらたち 王林だってさ 青リンゴだってさ りんごにゃかわりゃねえさ」


   「リンゴは赤いもんだと かってに きめねえでくれっかや」




おもえば「○○○らしさ」「○○○らしく」という言葉が "にほんじん" は好きなようだ。


    男らしさ 女らしさ 若者らしく 学生らしく ・・・・

    

らしく らしく らしく と、ひとつの型に入ることをもとめる。

そして少しづつ「おおらかさ」や「のびやかなこころ」を削いでいく。


「かってに きめねえでくれっか !! 」








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オタマジャクシが降ってくる




私の住む石川県ではよくオタマジャクシが降ってくる。

2011年6月には加賀市で2009年には七尾市で多くのオタマジャクシがみつかった。

近頃では天気予報の時間に「オタマジャクシ予報」をしていて観光客を驚かせている。


「オタマジャクシ予報」のことは冗談だが初めての時より反応も落ち着いてきているのは事実だ。

サギの落とし物説が有力だがつむじ風説を言う人もいて最終結論には至っていないようだ。

豊かな自然ってことよ、と涼しげにこたえる友人もいる。

オタマジャクシ騒動をどう見ますか。何人かに尋ねてみた。


   「いやぁ~ オタマジャクシのことはわからんわ」


   「自分 理科系弱いし・・・」


の返事がほとんどだ。

私が問題と感ずるのはオタマジャクシそのものではなくこの「騒動」から私たちは何を学ぶかだ。

一つの事象に対して分析することもできず、

異常を異常のまま見過ごしているとその陰に隠れた重大な警告を見のがしてしまう。

工場での安全管理、危険回避の底にある考え方は社会現象に対しても同じだろう。


私たちの周りでは日々、さまざまなことが起き、俊敏な対応を求められる。

何度も体験していること、滅多に起きないこと、初めて体験すること、いろいろであっても、

暮らしを守るためには「想定外」などとは言っていられない。

学識や技術を総動員して対処しなければならない。


しかし、昨今の財源不足とやらで、予算がつくのはすぐさま利益になりそうな部門ばかりだ。

産官学共同研究にはスポットライトはあたるが、地味な基礎研究部門は資金難にあえいでいる。

すぐさま成果の出ないものは疎んじられている。

確かに、理論物理学や分子生物学で画期的成果があったからといって、どこかの株価が上がるものでもない。


しかし、fundamentalな研究あってこその応用科学だろう。

「異常」は「変わりばえのしない日常」の観察があってこそ見えてくるものだ。

オタマジャクシ騒動はfundamentalな研究がないがしろにされている証左といえる。


近視眼的な応用科学偏重の社会は薄っぺらな未来しか見ることはできない。

短兵急に日々の利益を貪る似非資本家たちに地球の諸問題の解決はできない。

一見、箸にも棒にもかからないようなものでも思わぬ利益を生むということはよく聞く。

コーディネート次第で社会はいくらでも変化する。

基礎科学の充実とコーディネーターの養成が求められている。


「つまらないもの」「取るに足らないもの」が大事にされる社会はあらゆる変化に適応できる

潜在力を有する豊かな社会といえる。









参考までに・・・

@nifty:デイリーポータルZ:オタマジャクシは降っているのか in 加賀
http://portal.nifty.com/kiji/110629145386_1.htm









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いまは開戦前夜の状況




我々は悪夢を見ているのではない。

戦後69年間、民主主義体制のもと暮らしてきた。それこそが夢だった。


権力による国民への「弾圧」や「謀略」は今もなお我々の身近にある。

戦前と何もかわってなどいない。すべては夢だった。


メディアは完全に権力に掌握され、大本営発表を流しつづけている。

原発報道ではそのメディアの本質が誰の目にもあきらかになった。


選挙の結果と直前に行なわれる共同通信の「世論調査」との結果が大きく異なることも少なくない。

乖離は何を意味するのか。


市民は「世論調査」といえば、市民の生の声と信じている。


しかし、若いときに大先輩達から教えられたのは、

「世論調査」や「読者の投書欄」は市民の声ではない、メディアの論説委員の声だということだ。


読者の投書欄を編集しているのはメディアであることを忘れてはならない。

意に沿わない意見は端から掲載されないのだ。


過去に、ジャーナリズムが機能しない時代に何が起きたのか、歴史を振り返って欲しい。

大政翼賛会の日本で何が起きたのか振り返って欲しい。


震災の後、集められた東日本大震災復興構想会議のメンバーにメディア関係者が2名入っていた。

朝日新聞社OBの高成田 享氏、読売新聞特別編集委員の橋本五郎氏だ。

これはジャーナリズムの崩壊を意味する。


権力をチェックするべきメディアが権力の中に入ったのでは、チェック機能は働かない。

戦後このようなことはなかった。菅以降の内閣が非常に危険な存在であることは誰の目にも明白だ。


   過去の自民党政権下でもなかった、武器輸出3原則の撤廃は何の議論もないまま進められてしまった。


   通信の秘密を保障した憲法に抵触している「ネットメディア監視法」はいとも簡単に成立。


   またもやアメリカ隷従外交を象徴する突然のTPPへの参加表明。


   核エネルギーの軍事利用への道をひそかに決めてしまった。


   格差拡大の社会を批判してできた政権も菅以降は小泉路線の継承者でしかない。


大きな問題が起きているのにメディアは一切問題にしようとはしない。

政権とメディアがひとつになっていることを思えば当然といえる。


朝日、読売、産経の政権擁護はもはや、この国が民主主義体制でないことを意味する。

大戦前夜の状況と同じだ。戦争準備の時代に入ったということだろう。

歴史に学ぼうとしない人は、暗黒の時代に入っていることを認めようともしない。


どの局にもニュース枠とは別に報道番組がある。

気をつけて見て欲しい。コメンテーターが永年変わっていない。

無償ならまだしも、報酬を約束されつづけているコメンテーターが局の思惑と異なることを発言するものだろうか。


彼らは約束された今の立場をやすやすと手放したりはしない。局のご機嫌取りに終始するだけだ。

狼も飼い慣らされればただのペットである。


解説者の顔をしているお目付役が必ずいて、発言者を監視している。これはかつての検閲将校だ。

作家澤地久枝氏が局の番組作りに抗議し、コメンテーターを降板した姿は今も記憶に生々しい。


「世論調査」というのは設問の設定、調査対象の選び方によって最初から答えが誘導されるものだ。


よく用いられる、コンピューターで無作為に対象を選ぶRDD方式は対象が固定回線のみだ。

固定電話を持たず携帯電話のみで生活する若い世代の意見は調査には反映されない。最初から偏りがある。

この一点だけでもこの調査に信頼を置けないことがわかる。


彼らはそれを知りながら行なっている。最初から結果が決められているからだ。

さらにいうなら、市民は調査が公正に行なわれたかを確認するすべがない。


いや、実際に調査そのものが行なわれたかも確認できはしない。

捏造は簡単にできるし、捏造であっても罰せられることもない。


配信大手一社のみが行なっている調査を信じろというのはあまりに市民を馬鹿にしている。

世論調査結果という世論操作が繰り返し行なわれていることに市民は警戒をゆるめてはならない。


市民が思うほど社会は優しくはない。

「週間ベストセラー」を見て本を選ぶような人は作られた「世論調査」を信じやすい。要注意だ。


「検察は正義である」これが神話でしかなかったことが次々明らかになってきている。

2000年に起きた佐賀市農協背任事件は、事件そのものが地検ぐるみのでっちあげだった。

主任検事だった市川寛検事ひとりが詰め腹を切らされたが、実は個人の犯罪ではなかった。

今は弁護士となった市川寛氏が驚くべき検察の実態を暴露している。


   新人検事は先輩から調書の捏造をたたき込まれる。

   外国人とやくざに人権などないと教えられる。

   暴力、脅迫、ときには拷問ともいうべき苦痛を与えて自白させる。


厚労省局長事件の証拠捏造は、つじつまがあわないことがはっきりしたため、「事件」になったが、

つじつまが合っていれば表面に出てこなかったはずだ。

彼らには証拠捏造、証拠秘匿に対して罪悪感などない。


検察は社会正義実現のためにあるわけではない。権力の擁護のためにある。これがこの国の現実だ。

捏造することが恒常化している警察、検察はもはや民衆の敵でしかない。


ネットメデイアの監視と弾圧を目的とする「コンピュータ監視法」が成立した。


立法を阻止するために活動していた市民活動家が12年6月15日の深夜帰宅途中の電車内で

「東京都迷惑防止条例違反」(痴漢行為)容疑で逮捕された。

市民活動家のY氏は男3名、女2名の公安警察・謀略部隊に電車内で「痴漢事件」をでっちあげられ、

逮捕されたという。


しかし、謀略工作がずさんだったため、東京地裁は検察官が出した10日間の検察拘留請求を却下し

釈放を決定した。

検察官は「抗告」もできなかった。

Y氏がはめられた「痴漢事件」は植草一秀氏のケースとまったく同じだ。


一応、この国は民主主義国家といわれている。その国に「公安警察・謀略部隊」があるという。

信じがたいことだが、Y氏が嘘を述べるメリットはなにもない。事実であろう。


報道関係者、政治家、事件の関係者が不審な死を遂げている。

他殺の証拠があるわけではない。証拠があったら暗殺とはいわない。

我々の眼前に証拠があきらかになるまで待っていたら、こっちの首が先になくなっている。

暗殺をも視野に入れておくべき事案が多すぎる。


権力者のなりふり構わぬやり方の先に何があるのか。想像力を最大限にして考えてみて欲しい。


日本は戦前の治安維持法下の「弾圧と失業と戦争の時代に突入した」と、どなたかが書いていたが、

突入したというのは正確ではない。戦前と何も変わっていなかったということだ。


いずれにしても全力をあげて暗黒の時代から脱出しなければならない。








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B級科学者批判



原発について某大学名誉教授は自身のブログで次のように書いている。


   私の考えはここで繰り返し述べましたが、『原発は危険だが必要である』

   『現有原発は危険で信頼性がないからすべて廃炉にして、より安全な新型原子炉を研究開発する』

   というものです。


氏は原発については、安全神話や事故隠しといった政府や電力業界の姿勢を批判する一方で


「あらゆる物理学の発展のうち、人類のために応用・利用してはならない特定の分野などあるはずもありません」

「物理学者が物理学で発見された理論を産業に利用されることを歓迎するのは当たり前のことです」


と原子力発電、核研究の必要性を声高に叫んでいる。


やはりこの御仁も「事故が起きなければいいんでしょ」という単純回路の人間のようである。

このような人物が科学者の評価を貶めている。


原発の今日的課題は、処理できぬまま増え続ける高レベル廃棄物問題であり、

自然現象では決して起こりえない温排水による環境破壊の問題であろう。


生態系のみならず、気象にも影響が出ているととらえるべき重大な問題である。

氏にはそんな本質的な問題を理解する能力は微塵もなさそうだ。


事故の処理をどうするのか、このことが緊急の大問題であることは言うまでもない。

と同時に正常運転時の危険も語られるべきであろう。


潜在的な危険なのではない。

温排水の問題も高レベル廃棄物の問題も今まさに起きていることである。

社会はこれを見ようとしないだけではないか。


原発は危険だが必要であるという氏だが、その必要性の根拠は曖昧なままである。

氏の言う必要性はほとんどの炉が停止している状況の中でどれだけの説得力があるのだろうか。


氏が「より安全な新型原子炉を研究開発する」そう言うのであれば

自らが先頭に立って人類の危機ともいうべき状況に立ち向かうべきではないか。

タレント活動などしている時間などあるはずもなかろう。


氏は高レベル廃棄物の処理や廃炉の問題について

「それを克服する科学的・技術的努力もまた科学技術の発展によって成果をあげるでしょう」と

超楽観論を展開するだけに止まらず、脱原発運動など一連の原子力否定論に対しては

「文明を拒否する誤った態度」と厳しく批判している。


このかたの文明観とはどのようなものなのだろうか。

薄っぺらな知識をひけらかして、社会に不完全な技術を送り込むことが文明というなら、

人類はもはや文明を必要としない域にまで達している。


数多の道具や技術の内に潜む愚かさや危険に目覚めた人類はいま新たな船出の準備にとりかかり始めている。

哲学のないB級科学者氏にはそれが見えていない。


原発否定派の代表的論客の一人である広瀬隆氏に関して、氏は

原子力工学の大学院を出ている人間でも解からないことが多いのに

理工学部応用工学科しか出ていない人間が原発の安全性について断定的に言えるのか、

と専門家でないことを痛烈に批判している。


その一方で、福島原発事故については

水素爆発などの事故対策の手抜かりなどを批判したものの、地震対策については概ね評価している。

??? 土木や建築の専門家ではないかたが何故そこまで断言できるのか。


事故発生後に農作物の出荷規制が起きた際には、

「そもそも出荷規制の根拠となる暫定基準値が最悪のケースを想定したものであって、

さほど問題にすべきものではない」と発言し、出荷停止になった野菜を食べるとまで言い切っている。

東京大学アイソトープ総合センター 児玉龍彦教授ならば氏の発言をどのように評価されるだろうか。


専門外の人間を否定するなら、このかたはご自身の研究テーマについてのみ発言すべきであろう。

レオナルドダヴィンチにも勝る天才というなら話は別だが・・・・・


氏は原子力以外の代替エネルギーについても否定的である。太陽光発電については

「太陽光パネルの寿命は短い。4,5年も経つと部品の劣化・接続不良などの故障が起こる。

15年で元をとるとか20年では優に元がとれるというがこれはまゆつば」と完全に効果を否定している。


ここでは現代の科学技術の発展によって克服できるとは述べようとはしない。


いやはや、どこかの市長を彷彿とさせるような行き当たりバッタリの迷走ぶりである。

科学者としての名声が聞こえて来ぬのもうなづけようというものだ。


氏の言う「克服する科学的・技術的努力もまた科学技術の発展によって成果をあげる」とは願望の域を出ていない。

確かに科学者といえども人間であるからにはロマンを追い求めることもあってよい。

ときには学究の日々を支える大きな力にもなろう。


が、おのが感情を抑え、あるがままを冷徹に観るところからすべての学問は始まるのではないか。

いや、学問だけに止まらない。

心のありかたも含め私たちのすべてはスタートをそこに置かなければならない。

願望が先んじれば過ちを犯すのは私たちは日々の暮らしの中で嫌というほど体験してきている。


「将来克服されるであろう」などと自分たちの無能を次世代に丸投げする姿勢は

いやしくも科学を志した人間には決してあってはならないことである。


それを口にした時点でそれまでの日々が水泡に帰すこととなる。

学者としてのみならず、人間としてのすべてを失うこととなろう。


抜け殻になっていることにさえ気づけぬような者は端から学者の名に値しない。


B級科学者たちの視野の狭さ、専門馬鹿ともいえるこうした身勝手な論理こそが

地球の危機を招いているのではないか。


私の知る学者は終生、学問を追究するかたがほとんどだが

優秀な科学者であるはずの人物がタレント活動に明け暮れるのは何故なのか、素朴な疑問ではある。




危険なもの、制御できぬもの、得体の知れぬものは作らない、これにまさる事故対策はない。








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脱原発で日本再生

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