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文言で語る世界  文言でしか語れない世界



 大いなるものにいだかれあることを


             けさふく風のすずしさにしる
             


                            無文                            

                           



私たちは音楽を楽しむとき五線譜を用いる。

しかし、これほどアバウトなものはなく、アバウトであればこそ楽しむ余地があるともいえる。


五線譜が音楽のすべてを正確に表現できているのなら、そして演奏家がその通り正確に演奏しているのなら

マーラーの「巨人」のCDは世の中に1種類でいいはずである。


それでも「巨人」は多くの演奏家がそれぞれのCDをリリースしている。(我が家の棚には19枚並んでいる)

ニュアンスの違いはとても同じ作曲家の作品とは思えない。


                            
つまり、五線譜は音楽の世界を便宜的に表現しているに過ぎない。


作曲家の想いは便宜的な手法でしか伝えることはできないわけで、

作曲家自身の演奏以外は「似て非なるもの」というしかない。


設計と施工が異なるような現代の建築にあっては「設計図書」は重要な役割を果たす。


が、機械的に進めていけばよいように見える、本来は無機質な世界であるはずの建築界ですら同じ事がいえる。

「設計図書」通りに施工しました、と言っていては良いものはできない。

「設計図書」は設計者の意志を伝えるものであるが、設計者の「想い」「哲学」まで網羅しているわけではない。


ある現場でビスを直して欲しいといわれたことがあった。「ビスを直す?」意味が理解できなかった。

設計者はプラスビスの頭を「+」にしておくように言ったのだ。

「×」では自分のイメージとは違うと言いたかったのだ。


以来、「設計図書」を通して建築家が何を求めているのか、

どんな世界を描こうとしているのか考えて仕事をするようになった。


設計者の「想い」を表現できているか、塗装の微妙な仕上がり具合までに神経を使うようになった。

音楽も建築も詰まるところは「人間学」ということだ。

人間が何を求めているのか・・すべてはここから始まるということだ。


私は時々意地悪な質問をする。(いつもかも・・・)


「パレスチナの人々が全員改宗してクリスチャンになったら パレスチナ問題は解決すると思いますか」

クリスチャンのかたの答えは「解決する」だった。


しかし、「私たちの聖地」をいうのはユダヤ教もキリスト教もイスラム教も同じだ。

本質的には宗教に名を借りた領土問題である。全ての人がクリスチャンになっても解決はありえない。


では宗教は無力なのか。

それは違う。パレスチナに限ったことではないが、

人は宗教という形を通して語られる本質を見ようとはしていない。

そこに大きな誤解が生じ、融和を妨げている。宗教とは便宜的に語られるメッセージでしかない。


外面的な文言の世界に浸っていては宗教が例えひとつになったからと言って何も問題は解決しない。


文言でしか語ることのできないものであることを知り、

文言の先にある数多のひとびとの願いの世界に目覚めたとき、人は初めて共通の夢を持てる。

宗教という形にこだわりすぎては「和」の世界はあり得ない。


数多の宗教があり、宗派がある。聖典もさまざまだ。

概していえることだが、歴史があることが大切にされる所がある。大なり小なり権威主義的な面もある。


しかし、何か違うと思う。語られたのはいつの時代であっても「現代」であったわけだ。

バッハもヴィバルディも現代音楽であったわけで、古典などではなかった。それと同じだ。


権威に寄りかかっても自身の問題は何も解決などできない。問題の存在を忘れることがせいぜいだ。


経典を有り難がる人は多いが、経典というのはある意味何も書かれていない。


漢文で書かれたものを音読みにしているからもっともらしく聞こえるが、

内容は至って平易で「何だ そんなことか」と言うことばかりである。


道元の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」は日本の書物の中で最も難解とされるが、

書き方が難解なだけで気の遠くなるほど難しいことが書かれているわけではない。

仏教書というのは悪筆が多いといえるのかも知れない。


キリスト教の聖書は文言としてはやさしい。

が、書かれているメッセージは奥が深く、

簡単に「わかりやすい」などと言っていては外面しか受けとめることはできない。


私は19歳の時、宗教を語るとき専門用語を使うことを自ら封印した。

日々の言葉、暮らしの言葉、わたしの言葉に置き換えて語らなければ何の意味もないことに気づいたからだ。


専門用語というのは心地良いところがある。たくさんの言葉を覚えると立派になったような気になる。

他人から見ると特別の人に見えるというわけだ。


しかし、宗教とは本来的には「便宜的なもの」であり、そこで語られる文言自体は「虚構」の世界である。

「虚構」を通して「真実」を語るのが宗教である。


経典を丸暗記しようと、聖書を50年間読んでこようと、

そこの所を見誤ると単なる文化を楽しんでいることでしかない。


だからこそニーチェは警告した。「神は死んだ」と。


すべては架空のものと知って虚しさを感じるべきではない。

架空なるものを通して語りかけられていることを受け取るべきだ。


聖書がなかったら生きていけない、とあるかたが語っていた。

しかし、聖書がなくても、ブッダ・道元・親鸞の存在が否定されようとも「私」がここにいる事実に変わりはない。


私たちは全うしなければならない "いのち" の中に脈々と流れている「大いなるもの」

からの恵みに気づかなければならない。


"大いなるものの願い" がこの "いのち" であることに気づかなくてはならない。


「教え」は荒海を渡る舟のようなものだ。わたるときには必要だが、渡り終えれば邪魔になる。


宗教は非常出口を示す緑の表示のようなもの、といってもいい。


「表示」を鑑賞して欲しくて掲げてあるのではない。

外へ案内するものであり、外の世界へ出て欲しいがためにある。


便宜的に語られた「宗教」を突き抜けて向こうにある世界に至らなければ誰とも心を通い合わすことなどできない。

宗教という「枠」に縛られていては寺も教会もカルト教団も何ら変わりはない。


生涯で30分にも満たない禅僧との出会いが私の今を支えている。

禅僧は語ってくれた。


    勉強などせんでええ 人間は生まれたとき もう 仏さんになっとる 気づけばそんでええ

    
    求める答えは 自分の中(うち)にある
    

        

短い大学生活に気持ちの踏ん切りをつけられたのも僧との出会いがあったからである。








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疲れた人 重い荷を負っている人 は ・・・・・・・





疲れた人 重い荷を負っている人 は このブログにくるといいよ




ウィンザー通信、、、このブログにめぐり逢えたひとは幸せです。


" 何もかもさらけ出せるかた " がここにいます。


己をさらけ出す、なんでもないようなことですが、人間これがようできません。


大いなるものに生かされている確信と、

生きとし生けるものへの深い愛情や畏敬の念、

なにより人間を信じる気持ちがなければとてもできることではありません。


ときに理不尽や世の不条理にむけられる

激しい言葉からでさえこのかたの深い人間愛を感じます。


こころまで着飾ったインチキ文化人や、

たてまえしかよういわん評論家みたいなひとが多い今の社会。

そんなニホンにうんざり気味だった私も " まうみさん " の " ウィンザー通信 " で

ひさしぶりに " ほんとの人間 " にでおうた思いです。


疲れたひと  こころに 重い荷を負っているひと  は このブログにくるといいよ。

(このフレーズ どっかにあった? きづきました?)


らくぅな気持ちになれるし、とてもHappyな一日になって、

もうちょっと頑張ってみようかって思えてくるし。












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「私」という宇宙___Gotama 氏とともに見る




物理学の世界では4つの力のことがいわれています。


重力、電磁気力、強い力と呼ばれるもの、そして弱い力と呼ばれるものです。

強い力とは陽子と中性子をつなぎとめ、あらゆる原子の原子核をつくっています。

弱い力は中性子を陽子に変化させる力です。そのときに放射線を出します。


アインシュタイン以来、世界の物理学者はすべての力を統一的に説明できる道を模索しています。

有力な理論は「ひも理論」や「超ひも理論」(M理論)といわれているものです。


超ひも理論(M理論)とは宇宙の要素は1種類の要素でできているというものです。

その構成要素とは「ひも」とよばれる小さな振動するエネルギーの糸、

振動するパターンであらゆるものを作っている、という理論です。

宇宙は11次元の時空でできているとされ、我々の宇宙の他にも平行宇宙が存在すると予言しています。

近い将来、必ず解明されるでしょう。


しかし、私はそこでいう統一理論をもってすべてが解明できるわけではないと思っています。

ある視点が欠けているからです。

「生命」です。さらに「精神」です。そして「私」です。

4つの力にこれらが統合されてこそ統一理論と言うべきと考えます。


宇宙に孤立したものなど一切ありません。

精神と物質を分けて考えていては統一理論はあり得ません。

それでは内科と外科を別の病院に分けるようなものです。


「いきることとは?」「私とは?」この素朴な疑問というか、

根源的な命題が欠落しているところに現代の学問の悲劇があります。

技術のみにしか関心のない科学者が批判されるのはここにあります。


しかし、文系の人、なかでも宗教家、思想家のいう科学批判もまた戒められねばならないと考えます。

科学に万能はなく、不可解の存在を理解することが必要である、とよく言われます。

しかし、その人たちの科学論は矮小化された科学論でしかありません。


真の科学者こそ、私たちは不可解なるもののまっただ中にいる不可解な存在であることを知っています。


あらゆることを論理的に解明していくことこそが科学なのであって、

そこから得られたわずかばかりの知識をこれ見よがしに振り回すのをもって科学とするのは実に不幸なことです。


すべては合理的に、論理的に語られなければなりません。

怪しげな非論理の世界に身を置くことは危険なことです。


オウム事件の時、科学者たちが何故・・・と言われました。

科学が人間から乖離しているのではとも言われました。

が、彼らは科学する心など端から持っていなかっただけだと私は考えます。


自分の求めるもの、探求する原点が論理的に理解できていないような人物が

科学者と呼ばれることに強い抵抗感があります。


自分の「問」が何であるか検証できぬまま、用意された答えに飛びつくから愚かな結末になるのです。

高等数学ができるだけが科学ではないはずです。


身の周りに起きていることや自分の悩みを論理的に解明できない人は科学者などではありません。


不安など何処にも無いのです。苦悩など何処にも無いのです。


それに気がつかぬからこそ、逃れる道、解消できる答えなるものに騙されるのです。

自己分析能力のない人間は自分の問が何であるかさえ見えていません。

それゆえ安易にほかに答えを求めるのです。


ものの道理を熟知して、その道理にのっとった暮らしであれば苦悩などはなく、

無知や飽くなき欲求の影におびえ、己を失っていては生涯を危うくします。


答えはすべて自らの中(うち)にあります。



科学者は思想家を、思想家は科学者を、「自力」を言う人は「他力」を、「他力」を言う人は「自力」を批判します。


しかし、ようく考えてほしいのです。

かつてすべてを統一的に論じる人がいたでしょうか。

宇宙のすべて、「私」の問題も含めてです。


それぞれが部分の議論に過ぎません。

指摘もあながち否定されるべきとは思いませんが、統一的な理論など誰も必要性すら論じていないのが現状です。


内科や外科以外にも診療科目はどんどん広がりました。

総合病院ではどこを受診するのか迷うくらいです。

しかし、からだはひとつなのであって部分の集合体ではありません。


量子力学、素粒子物理学、原子核物理学、天体物理学、化学、医学、分子生物学等々・・・

これらは一眼レフカメラの交換レンズのようなもので真実を解き明かすにはあらゆる視点が欠かせません。


自己と宇宙との関わりに想いをはせるとき宗教、哲学、文学、音楽等のあらゆる交換レンズも必要です。


交換レンズが目的でないことはいうまでもありません。

レンズなどまったくない世界こそが求めているもののはずです。


ましてや交換レンズどうしが優劣を論じるのは如何なものかと思います。



私は無機質なものになど精神性はない、とする大胆な意見こそ慎重でなければならないと考えます。

精神のなんたるかも理解できないひよっこが「精神」と「物質」を明確に分けることに疑問を感じます。


ひよっこの大胆さには論理的思考があるとはとても思えません。

ひよっこのとらえかたでいけば「精神」とは宇宙のすべてから超越したものになってしまいます。


「私」は「閉じられた系」ではありません。宇宙と一体です。いや一体ということではない。

宇宙そのものであるととらえています。


私たちは分子の固まり、素粒子の固まりです。そして外界の分子と常に入れ替わっています。


はたして「私」なるものが存在するのかも怪しげに思います。

出て行った分子が「私」なのか、入ってきた分子が「私」なのか。考えると眠れなくなります。


自分で指を曲げてみて、「ああ、自分だ」と確認できるくらいです。


しかし、形ある物体と考えると理解できない「私」も風や波のようなものとして受けとめると少しは

理解できるような気がします。


風や波は誰でも知っています。しかし、保存することもクロネコで送ることもできません。

ここに不思議さを感じないでは所詮、「私」の不思議さにも気付かないでしょうが・・・・



魔女、バテレンの術、科学を超越した世界、神の意志等々・・・

人間はともすると深く考えることから逃れようとするとき、これらの言葉を利用してきたのではありませんか。

そして、怪しげな権威で支配されてきたのではありませんか。


神秘主義や権威主義こそが宗教であるかのように言う人たちもいます。


「生かされている」そう受けとめるところに信仰生活があります。

ならば、生かしてくれる存在は・・と考えるのは現代人的な発想で、宗教、信仰とは異質のものです。


人間はこの神秘主義や権威主義にあこがれるのです。

権威づけされた、いわばブランド化されたものに弱いのです。


そうであってはなりません。

宗教は日々の言葉で、暮らしの言葉で、自身の言葉で語られなければなりません。


専門用語というのは心地良いところがあります。たくさんの言葉を覚えると立派になったような気になるのです。

他人から見ると特別の人に見えてしまいます。


しかし、経典を丸暗記しようと、聖書を50年間読んでこようと、

そこの所を見誤ると単なる文化を楽しんでいることでしかありません。


宗教は非常出口を示す緑の表示のようなもの、といってもいいでしょう。


「表示」を鑑賞して欲しくて掲げてあるのではないのです。

外へ案内するものであり、外の世界へ出て欲しいがためにあるのです。


便宜的に語られた世界を抜けて向こうに至らなければ誰とも心を通い合わすことなどできません。

宗教という「枠」に縛られていては寺も教会もカルト教団も何ら変わりはないのです。

    

Gotama 氏をご存じでしょうか。

あらゆる形作られたものには不滅なるものは何一つなく、すべてが寄り合い、依り合い、

縁り合いながら生じては滅しているという、因果の道理を説いたかたです。


氏はこの道理に基づき、人の歩むべき道を説いています。

神を信仰しなくてもほんとうの安らぎを得られる道を教えています。


いかに人は生きるべきか、いかに己の心を処すべきか、いかに世間に身を処すべきかなどを説いています。

神がなくては生きていけないとか、神の思し召しを受ける信仰に生きるべきと説いたことは一度もありません。


氏はものの道理を熟知して、その道理にのっとって正しい習慣を身につけ、

規則正しい生活をすることが最も大切と語っています。


21世紀の今日、七夕さまに願い事の短冊を書き、サンタさんにお願いし、合格祈願のお札をもとめ・・・・

それがこころに潤いのある暮らしと思っているかたがたもいます。それが精神文化なのだと・・・


Gotama 氏の思想を私の暮らしの言葉として語ったところ、「それは宗教ではない」と言われました。

クリスチャンを名乗るかたからも、浄土真宗を名乗るかたからもです。


Gotama 氏が有名なかたであることをご存じなかったようなのですが、

それにしても21世紀の宗教観とは実に危ういと感じたことです。


Gotama 氏の思想は神秘主義や権威主義の対極にある考え方です。

すべては合理的に、論理的に語られなければなりません。







お薦めの参考文献
般若心経(山田無文)
http://www.amazon.co.jp/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E7%84%A1%E6%96%87/dp/4881821881/ref=sr_1_4/377-6867608-8280745?s=books&ie=UTF8&qid=1373534672&sr=1-4&keywords=%E5%B1%B1%E7%94%B0+%E7%84%A1%E6%96%87

自己を見つめる―ほんとうの自分とは何か (山田無文)
http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%82%81%E3%82%8B%E2%80%95%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%AE%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E7%84%A1%E6%96%87/dp/4881820125/ref=sr_1_1/377-6867608-8280745?s=books&ie=UTF8&qid=1373534672&sr=1-1&keywords=%E5%B1%B1%E7%94%B0+%E7%84%A1%E6%96%87

空の世界―龍樹から親鸞へ(山口 益)
http://www.amazon.co.jp/%E7%A9%BA%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E2%80%95%E9%BE%8D%E6%A8%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%81%B8-%E5%B1%B1%E5%8F%A3-%E7%9B%8A/dp/4804612335

正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)(中村宗一)   ※ 正法眼蔵は道元の著
http://www.seishinshobo.co.jp/book/b88126.html
http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A3%E6%B3%95%E7%9C%BC%E8%94%B5-%E5%85%A8%E8%A8%B3-%E5%B7%BB1-%E9%81%93%E5%85%83/dp/441411201X/ref=sr_1_19?s=books&ie=UTF8&qid=1373534822&sr=1-19&keywords=%E6%AD%A3%E6%B3%95%E7%9C%BC%E8%94%B5

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ニュートラルにするということ___あなたの哲学はいのちを危うくしてはいないか




ニュートラル(neutral)


1 いずれにも片寄らないさま。中立的。中間的。かたよりのないこと。「.....なものの見方」

2 機械装置で、原動機と動力伝達装置が切り離された状態。



哲学


1 世界・人生などの根本原理を追求する学問。

2 各人の経験に基づく人生観や世界観。また、物事を統一的に把握する理念。

 「仕事に対しての...をもつ」「人生...」


ここではさらに日常にある ものの見方、とらえかた と幅を広げて考えてみることにする。


.....................................................................................




血糖値が高ければ下げる。

血圧が高ければ下げる。

飛行機の機首が下がりすぎていれば機首をあげる。


私たちの社会ではごく普通の風景である。

私たちはこのことに何の疑問ももたず、それを当然な事として日々を過ごしている。

当たり前すぎて、ここで疑問を呈することにすら違和感があるのではないだろうか。


結論を先にいえば、これらの対応はすべて間違いである。




明治維新以来、この国は西洋に多くの近代文明なるものを学んできた。

導入された産業機械や教育制度は確かにこの国を変貌させた。

変貌させたことに違いはないが、良くなったかとなると話は別である。


しかし、気がついてみれば古くから脈々と伝えられてきた知恵や工夫、もののみかたを隅へ追いやり、

前時代的とか非科学的だとかいって隔離してしまっていた。


物事の上っ面から見た、通りいっぺんの合理性にこだわり、本質に近づくことに不熱心な西洋文明をよしとしてきた。


つい最近までは生薬や漢方薬は呪術や迷信の世界のもののように扱われていた。

そんな得体の知れないものを扱うのはまともな連中ではなく偽医者のごとくに見られてきた。


生薬や漢方薬と西洋医薬ではその背景にある考え方が大きく異なる。


東洋医学は体を全体としてとらえるが、西洋医学は部位、器官の集合体と見る傾向がある。

一方は体質改善や体を養うことに重きが置かれるが、一方は治療に重きを置く。




アマリールという薬がある。膵臓のβ細胞を刺激して、インスリンの分泌を促進する血糖降下剤だ。

糖尿病治療に使用される広く知られた薬だ。


この薬を処方するときドクターは患者に対して必ず飴や砂糖を持ち歩くことを言い添える。

血糖値が下がりすぎて危険な状況に陥ることも予想されるからだ。


意識障害や昏睡状態にもなることもあって服用には注意を必要とする。

車を運転しているときにこの状態になれば大変な事態を招く。


ついでのことである。低血糖の意識障害とはどういうものか、私の体験談を書いておく。


ある日の夕方(夕方という点がポイント)、近所のスーパーで買い物をしているときのことだ。

カートを押して売り場のコーナーを曲がった。

と、そこは今まで見たこともない空間ではないか。

何かの店舗らしいのだが、さっき入ってきたスーパーとはまるっきり違う。

歩いているのもまったく見かけたことのない人たちばかりだ。


     これが いうところの ワープ というやつか 

     いまのコーナーが異次元の入り口だったに違いない。

     それにしても ここはいったい・・・


そのときはじめてアマリールの副作用のことを思い出した。

そして自分が意識障害を起こしているのだと自覚できた。


ドクターの指示通り、甘いものを買って店内の休憩コーナーでしばらく休んだ。

予備知識がなければパニックに陥っていたと思う。


家へ帰っても意識障害は続いた。


パソコンの中へ誰かが「ゴミ箱」を置いていったようだ。

しかも、「マイコンピュータ」などと立て看板まで立てていった。

ひとのコンピュータになんてことを !! (今から思えば笑い話である)


コーヒーを飲もうとカップを取り出しコーヒーの瓶を手に持つ。

ところが次にすべきことがわからない。

瓶の中へお湯を注ぐのか、コーヒーをポットの中へ入れるのか・・・

しまいには何で自分がコーヒーの瓶を持っているのかがわからなくなっていた。


なんだこりゃあ・・・だんだん自分がおかしくなっていっている。

人格が崩壊していく・・・そんな感じだった。


アマリールという薬、朝に服用しても効き出すのは午後になってからで空腹時の夕方がピークになる。

そのことを考慮した生活をしないと上記のような事態になる。


後にホームドクターから聞いた話。


   ある精神科の医師から、一年半、統合失調症の治療をしているがいっこうに改善が見られない

   患者がいると相談され、診てみるとインスリンの分泌異常、つまり糖尿病だったとか。

   血糖値低下は統合失調症ときわめて似た症状を起こす。


   
        ※ 統合失調症  かつては精神分裂病と呼ばれていた精神疾患群の名称。

                 幻覚、幻聴や妄想を抱く等の思考障害を起こす。

                 「 ここはどこ? 私は誰? あんた誰? 」の状態にもなる。



ってことは統合失調症と診断されているひとの何パーセントかは実は糖尿病?


アマリールは血糖値を下げる薬であって決して血糖値を正常にする薬ではない。

このことをおさえておかないと大変なことになる。


血圧を下げるというのもほぼ同様であって、

決して血圧を正常にする薬ではないことを認識していなければならない。

使い方を誤れば生命の危険すらある。


これらの薬、確かに即効性という点では評価はするが、あくまで対処療法であって、

なにやら行き当たりばったりの感は否めない。


「治療」には有効とされる西洋医薬も「体を養う」という発想はない。

求められているのは正常値にすることであって、「下げる」ことではないはずなのだが。




「上げる」「下げる」ということを短絡的にとらえていたりすると

飛行機の機首云々のケースにおいては重大な事態を引き起こす。


下がりすぎた機首に対してとるべき行動は機首をあげることではない。機首を戻すことだ。


「あげること」と「戻す」は同じように思えるが、本質的にまったく違う。

この考えがわからなければ決定的な過ちを犯す。


実際にこの事が原因して264名もの犠牲者を出す事故が起きている。

1994年に起きた中華航空140便墜落事故がそれである。




事故の概略


1994年4月26日名古屋空港へ着陸しようとしていた台北発の中華航空140便

(エアバスA300)が名古屋空港滑走路への進入中に失速し、滑走路東脇に墜落した。


この事故で乗客、乗員合わせて271名のうち264名が犠牲になり、乗客7名が重傷を負った。


犠牲者数は1985年の日航ジャンボ機墜落事故に次ぐ、

国内の空港で起きた事故の犠牲者数では日本史上最悪である。


事故原因として報告されたところによると


運輸省事故調査委員会の調査は、操縦乗員の自動操縦装置の誤操作があったことを指摘したうえで、

エアバスによる操縦システム設計も不適切であったとしている。


手動操縦でのILS進入時に副操縦士が誤って着陸復行(ゴーアラウンド)レバーを操作し、

自動操縦装置のゴーアラウンドモードがオンになった。


ゴーアラウンドモードを解除しないまま自動操縦装置に反発する機首下げの操縦を行ない続けたため、

自動操縦装置は水平安定板を機首上げ方向に操作したうえ、

自動失速防止装置も作動しエンジン出力を最大とした。


しかし、操縦桿の操作による昇降舵の動きの効果が自動操縦による水平安定板の動きの効果を

上回っていたため、機体は降下をはじめた。

降下はしたものの、機体が思うように操作を受け付けないため、

機長は着陸のやり直しを決断し、操縦桿を元に戻した。


その結果、自動操縦装置による機首上げ操作のみが急激に作用して機体が急上昇、

機首角は最大53度にまで達し、失速し墜落した。


自動操縦装置にインプットされていた思想に瑕疵があったのである。

「機首が下がれば機首をあげる」ではなく、「機首が下がれば機首を戻す」であればこの事故はなかった。


背景にある思想は時にかくも残酷な結果を私たちに突きつける。




手元にある常備薬の丸薬はおもしろいことに便秘にも、下痢にも効く。

正反対の症状になんで? と思うのは多分、現代人のものの見方がそうさせている。


いにしえから生薬を扱っている人の目から見れば「胃腸が弱っている」のであって、

何も真逆という認識はない。


からだを本来あるがままのニュートラルな状態に戻すことを求めてきた文化がここにある。


とらえかたの根本が違えば導き出される解答も自ずと違ってくる。

本質をしっかり見極めなければいのちにも関わる。




あなたの哲学にニュートラルにするという概念はあるだろうか。



あなたの哲学はいのちを危うくしてはいないだろうか。








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バイタルサインを測る____あなたのセンサーは機能しているか





医療現場では心拍数・呼吸・血圧・体温の四つをさしてバイタルサインという。

人体の状態を示す数値情報で、注目すべきもっとも重要なものとされている。


医師、看護師を目指すものが最初にたたき込まれる「いろはのい」である。


危険とされるのは


   血圧:収縮期血圧60mmHg未満

   脈拍:1分間40回未満または測定不能の頻脈

   呼吸:1分間以上無呼吸

   体温:35度以下または42度以上


しかし、からだの状態を示すのは何も四つだけではない。

医師、看護師が知るべき情報は目の前にいるひとがすべてもっている。


見ているか見ていないか、見えているか見えていないかの違いであって、

体の状態は全身に現れている。


私は勝手に、バイタルサインとは異変を知るためのすべてのシグナルと定義している。


昔の町医者はとにかく体を触った。触り、トントンとたたいたりもした。

いや、触る前から目の色、肌のつや、呼気の臭い、息づかいなどを細かく観察していた。


確かに、診断のための血液検査や画像診断は以前とは比べものにならないほど良くはなった。

血圧も自動血圧計で測る医師も多い。


私は末期癌の母の様子を見るため、水銀血圧計で血圧測定をしていた。

どんな異変も聞き漏らすまいと聴診器はドクターと同じグレードのものを取り寄せた。

循環器の先生の手元をいつも見ていたおかげもあって、正確な測り方を習得するのに時間はかからなかった。


その体験を踏まえて言うと、血圧計は水銀式やアネロイドタイプ等聴診器を使うタイプがよいと思う。


自動血圧計なるものは日々の推移がわかるという程度に過ぎず、

オモチャと言っては言い過ぎだが、知りたい情報は最高血圧、最低血圧しかない。

正確な値や、血流音の異常を知ることはできない。


毎日測っていると聴診器から聞こえる「音」がわかってくる。

特別な耳をもっていなくとも叩いたカップがガラスか金属かの区別がつくようであれば誰にでもわかる。


この音によって医師は異変を察知する。動脈硬化や弁の異常は先ず音で診断できるという。

音から得られる情報は多いそうだ。自動血圧計は情報があまりにも少ない。

情報源の宝庫を前にしながら実にもったいないことである。


それでは診断と言えないのでは・・・と生意気にも思う。


   (残念ながら、私などは微妙な音の変化には気付くが音の違いの意味するところはわからない)


医療現場では五感すべてがセンサーでなければならない。

機器だけに頼っている若手では見逃すことも、経験豊富な医師は瞬時に問題点を察知する。


最新の機器は確かに有効な診断方法となるが、その機器を必要とするか否かは医師の鋭い観察眼にかかっている。

宝の持ち腐れになっている医療現場も現実にはあると聞く。




政はまさにひとがひとに対して行なう行為だ。その意味で医療に似ている。

企業の利益が先に語られたり、塾で教えられた理論を実行に移す場などではない。


経済は人間学そのものである。政は人間学そのものである。

ひとびとの"ねがい" を察知できる感性、能力が求められる。


世情に通じていなければ民の求めるものなどわかるはずもない。


上から目線、世間知らずは今や松下政経塾出身議員のトレードマークの感がある。


まず理論ありき、まず政治の専門家である私に従え・・の姿勢では機械偏重で目の前の患者から

情報をとろうともしない未熟な医師と同じであろう。こういう人々は何をもって政というのか。


政治の現場に出てくるにはさらなる研修期間が必要ではないか。

感性のない人物が研修を積んでも無駄なのはどの世界にも共通のことではあるのだが・・・・


社会の隅々まで目が届き、異変を察知するところから始めなければならない。

声なき声を聞き逃さない感受性も政治家には求められる。


政に携わる者が自分の言いたいことだけ言って、支援してくれた人の利益しか眼中になければ、

民はいつも政治の蚊帳の外に置かれる。

置かれるだけではない。いのちをつないでいくという最低限のことでさえ危うくされる。




民のバイタルサインをキャッチする姿勢はメール受付という処に端的に現れている。


一方的に送られてくるメールであってみれは確かに迷惑であるとは思う。

読んでなどいられない事情もわからぬではない。

受け取ってくださる皆様にはただただ感謝もうしあげる。敬意を表したい。


しかし、政党ではないか。

民の声であるメールをいきなり削除して「未開封」のシグナルを送ってしまっては党の姿勢を問われよう。 

せめてそのようなシグナルを発信しない工夫ぐらいはしておけよ、と言いたい。


「メールなど迷惑千万 業務に支障が出る」と言っているのと同じで、

このような政党は党首がいかに愛嬌を振りまこうとも不正選挙でもせぬ限り、党の存続は難しいのではないだろうか。

心当たりがあるかたは速やかに対処されたい。




私のホームドクターの場合は患者を診察室に招き入れるのはナースではない。

ドクター自らが「つるぎさん どうぞ」と呼びかける。


そして、椅子から立ち上がってきて診察イスに腰掛けるまでの様子をじっと見ている。

と同時に待っているひとびとの様子もさりげなく観察している。


たいていの医師は診察イスに座った患者を診るところから始める。

ホームドクターの診察は待合室から既に始まっている。

大学病院時代、某病院院長の主治医に院長自らのご指名があったというのもうなづける。




民の暮らしを知るセンサーは用意されているだろうか。


民の声を聞き取るあなたのセンサーは十分機能しているだろうか。









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信頼感___どっちの子が建てた家に住みたいと思います?




何事も簡素がいい。

必要にして無駄がない・・これが一番だ。

殊に何かを説明するようなときは心がけていたい。

複雑になるにしたがって言葉は説得力を失う。


制度設計ともなればさらに留意すべきだ。

選挙制度、年金の仕組みなどは役所の担当者ですら説明に腐心する。

これでは市民は何も理解できない。

理解できないものを作った側に不信感さえ抱く。


重複立候補、ドント方式などを有権者自身がどれだけ説明できるだろうか。

地方区、比例区もそうだ。

地方の願いが反映されない政治であってはならないとして、

都道府県をさらに細かく区切って選挙区としている。

が、細かくすればするほど社会全体では死に票が増える。

これを民主主義と開き直っているから若い感性は制度について行けない。

若い世代がついてこないと言うことは若い世代に見棄てられていることを意味する。


地方の代表はあくまで地方の代表であって、社会全体の代表ではない。

若い感性にはそう映る。


そんな代表が社会全体について論じ、制度設計をしようとしても拒否感が先に立つ。

明らかに公職選挙法に違反していても地方選挙で「みそぎ」を済ませたと言って

また出てくるようでは政治離れも進もうというものだ。


市民の支持を得られないでは制度は行き詰まる。

誰もが納得できる政でなければ民主主義は朽ち果てる。


ひとは愚直がいい。 説明や制度は簡素がいい。

愚直・簡素は説得力が強く、信頼感がある。


宮大工西岡常一の唯一の内弟子、小川三夫は語っていた。



    頭のいい子が計算して出した答と要領の悪い子が実際やってみて出した答と


    あんたらどっちを信用します?


    どっちの子が建てた家に住みたいと思います?








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原潜K-19の事故




K-19※の事故が知られるようになって20年以上経つが、

まだ「K-19って何?」というかたもおられるので紹介する。

※(旧ソ連の潜水艦なので Kは「かー」と読む)


K-19

 
1960年に就航したソ連海軍原子力潜水艦。

   
排水量 4030トン 全長 114メートル  乗員数 125名

潜水艦発射弾道ミサイル( 1.4メガトンの核弾頭 射程650km)を装備した

敵国への核攻撃を目的とする戦略ミサイル原子力潜水艦である。このタイプの原潜としてはソ連海軍初。


潜水艦というのはその任務の特殊性なるが故に、行動は常に "臨戦態勢" であると考えておくべきものだ。

東西冷戦下の時代にあってはことさらその任務は重要な意味を持っていたはずだ。


訓練であろうと兵装(装備している武器)は実戦と何ら変わらない。それは現在とて同じ。

当然、核兵器も装備していると見るべきだろう。


1960年11月に就航した最新艦が1961年7月に原子炉事故を起こした。

冷却水漏れ事故を起こし、航行不能となったのだ。場所はグリーンランド付近の北大西洋上である。

無線システムも使用不能になり、モスクワに報告や救援の要請もできなかったという。


福島の事故でもわかるように、放置すれば炉の爆発もあり得るわけで、

そうなれば核弾頭ミサイルを積んでいる艦のことである、

さらなる大事にいたることは誰の目にも明らかであった。


ニューヨークの沖合数百kmの位置である。

核弾頭が爆発すれば、どんな言い訳をしても「事故」で済ませられるはずはない。

西側に対する攻撃と見なされ、第3次世界大戦に向かうことは必至の状況だった。

1961年とはそういう時代だった。


乗組員の決死の対応で大爆発は避けられたが、多くの犠牲者を出す結果となった。


当時は冷戦下ということで極秘にされていたが、28年後にその事実が明らかにされた。

この事故のことは2002年、ハリソン・フォード主演で映画化された。

ロシア海軍が映画製作に全面的な協力をしたことからわかるが、決してプロパガンダ映画などではない。


ディテールの部分は無論フィックションであろうが、全体は事実を再現していると考えて良いと思う。


福島で大きな事故が起き、いまだ収束が見えない状況であるからこそ、

事故に立ち向かう人々の存在を思う手がかりになってくれればと願い、映画の鑑賞をおすすめする。


以下は映画「K-19」より


     艦は原子炉配管のひび割れが発生し冷却水漏れから炉心が加熱する。

     このまま温度が上昇すると炉心溶融がはじまり爆発からミサイル弾頭の核爆発を誘発する。


     炉心区画の担当兵士が二人ひと組で10分ずつ炉内に入り配管の溶接にあたる。

     国家の威信を優先していたためか、放射線防護服など一切積んでいなかった。

     兵士にはゴムカッパを着せて放射線が充満する炉内に入るよう命じる。


     床には水が溜まり、内部は水蒸気が充満している。

     10分過ぎて出てきた兵士は全身が焼けただれ、嘔吐、震えが止まらない。

     放射線を計測するメーターは目盛りを振り切った。

     艦には彼らを治療する薬品さえ積んでいなかった。


     苦しむ兵士にアスピリン※を飲ませ「これで良くなる」と気休めの言葉をかける。

     決死の溶接作業の結果、何とか冷却水漏れは止まり炉心温度が下がった。


     しかし、艦内は高い放射性物質が充満してしまい。

     技術士官と下士官以下8人からなる対策チームは全員が1週間以内に放射線被曝で死亡した。

     後に20人が被爆が原因で死亡した。


     

                     ※ アスピリン:解熱鎮痛薬

             

             
無謀であれ、何としてでも大爆発は防がなければならない。

乗組員の命を犠牲にしても核戦争になる危険を回避することを優先せざるを得ない。


東西冷戦下とはかくも非情な状況だったのだ。軍事というのは常にそういうものだ。

平和の裏側で実際あった出来事に私たちは無関心であってはならない。



     
放射線被曝を知るかたは「実際はあの程度の症状ではないはず」という。

乗組員も全員が重度の被曝をしていることは間違いはなく、現在の健康状態が案じられる。


原子炉で事故を起きれば普通の労働災害などとはまったく次元の異なる状況になる。

福島の現場がいかに過酷な状況であることか。無事を願うのみである。



     
"ただちに健康に影響は無い" などと無神経なコメントを流し続ける政府関係者、電力会社の株主たち、

広告代理店やメディア、その他の多くの原子力村といわれる人々、

プルトニウムを飲んでも安全という御用学者ども、

過疎地に危険を押しつけて電力を消費する人々


K-19、チェルノブイリ、スリーマイルでの現場がどんなであったか、

何よりいま福島の現場がどんなであるかを知る手がかりとするためにも映画「K-19」を観て欲しい。




多くの被曝者が何の対策もされない中、

己だけが防護服姿で現地入りした岡田某の姿は脳裏に焼き付いて離れない。

いまの政治を象徴する映像として、後世に語り継いでいかねばならない。


弁護士らしく言質をとられないように "ただちに健康に影響は無い" を繰り返す官房長官も忘れない。

"ただちに健康に影響は無い" は "健康に影響がある" ということだろう。


そうでありながら政府は何をしてきたのか。

こんな政治ではこれからもさまざまな形で被害者が出るに違いない。


一部に菅直人氏を評価する声もあるが、よく聞き、よく見るべきだ。

首相として、原発廃棄とはひと言も言っていない。新規の建設を認めないとはひと言も言っていない。

そればかりか外国に対しては輸出を認めるとまでいった。

こんなまやかしの政治家など信用できるわけがないではないか。


市川房枝氏の菅氏に対する見方は正しかった。








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バベルの塔




海水温の上昇が異常気象につながっています

漁業にも深刻な影響が出ています


それでも [海を温めること] こそが人類のためになると人々を騙し続けている連中がいます


確かに地球温暖化の原因は未だ科学的に解明されてはいません

が、海水温の上昇は現実です 


ならば上昇につながる人為的なものを止めることが喫緊の課題でしょう

[海を温めること] が [地球温暖化防止] になるとはまったくもっておかしな理屈です


コップいっぱいの熱湯を海に流しても海は温まりません capacity(容量)が圧倒的に大きいからです

でも24時間365日世界中で温水を流し続けるとどうでしょう

昼夜を問わず間断なく温水を流し続ければどうでしょう


根拠も示せない者が「大丈夫でしょう」とはあまりに能天気です


理科の時間に習いませんでしたか? 海水は温まりにくく、さめにくいのですよ



     原発による深刻な環境破壊

     http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week31/index.html#entry-77191336



     湯沸かし器という現実を見せつけられた

     原発停止後の若狭湾では近海の魚介類に大きな変化が起きているという

     若狭湾の全原発が停止していた間

     温排水により上がっていた水温が3度下がったために海中の環境が激変した

     『原発は地球温暖化防止に役立つ』などという欺瞞性が露呈している

     たった数か月で海中の環境を激変させるという原発による温排水の“威力”が端無くも証明された





人類は性懲りもなくまた「バベルの塔」を造り始めてしまいました


そして・・・・・




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海水温、過去最高の海域も 漁業への影響懸念【地球温暖化】

The Huffington Post  2013年09月11日



気象庁は10日、四国・東海沖と東シナ海北部の8月の平均海水温が、

データがそろう1985(昭和60)年以降で最高だったと発表した。

異常気象とされた今夏の猛暑が海にも影響を与えた形で、

日本近海はほかの海域もすべて平年の水温を上回った。MSN産経ニュースが伝えた。


NHK NEWS WEBによると、先月1か月の平均の海水温は、

九州の西の沖の東シナ海で平年より1.5度、四国・東海沖の太平洋で1.2度高く、

いずれも1985(昭和60)年に統計を取り始めてから最も高くなった。


このほか、平年と比べて北日本周辺の日本海で2.1度高く、

西日本周辺の日本海で2度、沖縄周辺でも0.7度から1度高く、

統計を取り始めてから2番目か3番目に高くなっている。


北海道函館市近海では、海水温上昇により、

捕獲したスルメイカが漁船のいけすで死ぬケースが急増している。


函館海洋気象台によると、函館近海の海水の表面温度は8月中旬、

平年より約3度高い26~27度だった。

漁協によると、イカは水温が23度を超えると生きられないという。


イカ漁では、港に到着するまで、漁場の海水を入れた漁船のいけすで捕獲したイカを保管。

8月は全体の3~4割のイカが港に着く前に死んでしまう日もあったという。

昨年も同様の現象が起こり、出荷を遅らせた。


気象庁は「海面水温は北日本の日本海では次第に平年並みに近づいているが、

東日本や西日本の太平洋沖では9月上旬まで高い状態が続くと見られる」と話している。


■ 海水温上昇で沖縄のサンゴ死滅の危機


沖縄美ら島財団は8月21日、沖縄県本部町の海洋博公園の沿岸部で、

サンゴの白化現象が見つかったと発表した。

水温が例年より高いことが原因とみられ、50%以上が白化していたケースもあるという。


サンゴは、細胞内に住む「褐虫藻」の光合成で生じた養分を取り込んで生きているが、

海水温が上がると褐虫藻が体外に抜け出て白くなり、栄養不足で数週間後には死ぬという。


気象庁によると、沖縄周辺の広い海域で、

海面水温が外洋ではこれ以上温かくならないとされる31度以上になった。

沖縄南海上の8月上旬の平均海面水温は30・3度まで上昇し、

世界的に大規模な白化が起きた1998年と同程度となった。


■ 海水温、海水面の上昇、極地の氷塊は地球温暖化の証拠


今月発表される国連の気候変動に関する報告書で、

気温の変化だけではなく地球が温暖化していることを示す

一連の証拠に焦点が絞られていることが分かっている。


アメリカ国立大気研究センターの気候分析担当上級研究員、ケビン・トレンバース氏は、

極地の解氷、海水温と海水面の上昇などがいずれも地球温暖化を示していると述べた。

「その水準まで行く可能性は5%。

何か異例なことが起きて大規模な氷床が実際に崩落すると解氷はかなり速まる」と述べた。

2100年までの海水面の実際の上昇は約25-90センチメートルの間になる可能性が高いとみている。


トレンバース氏は「気候システムの他の要因が安定しても海水面は上昇し続けるだろう」

と語っている。



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原子力の場から視た地球温暖化問題

http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week29/index.html#entry-77105174


原発による深刻な環境破壊

http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week31/index.html#entry-77191336


たんぽぽ舎

http://www.tanpoposya.net/main/index.php?id=202


自然エネルギー推進会議

http://janfre.com/action/







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福島の子供を描いたアニメ「ABITA」




福島の子供を描いたアニメ「ABITA」、世界各地の映画祭で高評価









2011年の福島原子力発電所事故以後、「Fukushima」の名は原発問題とセットで世界に知れわたることとなった。

その後、世界の人々の共通の関心事となった「Fukushima」は、芸術家、クリエーターの壮大なテーマとなり、

国内外問わず、さまざまな視点から描かれた作品が世に輩出されている。


ドイツに住む日本人、Hara Shoko氏と、Paul Brenner氏が制作したショートアニメーション「Abita」を紹介する。


「Abita」は、放射能の影響で外で遊ぶことができない、“福島の子供たちの夢と現実”をテーマに、

水彩の流れるような繊細で美しい映像・音響でシンプルにまとめられた3分49秒のショートアニメーションだ。

何故か日本のメディアは取り上げようとしない。

が、取り上げない理由をほとんどの国民は知っている。

これまでにヨーロッパ、アフリカ、中東、アジア、北米、南米のさまざまな映画祭で上映されている。

ブラジル・リオデジャネイロで開かれた原子力がテーマの映画祭、

「International Uranium Film Festival 2013」ではベストアニメーション賞を受賞。

ドイツ・ヴァイマルで開かれた「Back-Up Film Festival 2013」では特別賞を受賞している。

ぜひご覧いただきたい。








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私たちは世界平和を希求し、その礎にならんことを誓った




武器輸出は憲法で禁じていない ・・・ これは詭弁だ。

私たちは世界平和を希求し、その礎にならんことを誓い、国の立て直しを約束した。

憲法前文、および9条はその宣言だ。

武器輸出は実態として戦争の輸出ではないか。

憲法の精神を蹂躙し、国家を再び軍事優先の社会にするものである。

あまたの死を無にするいかなる試みも断じて認めるわけにはいかない。








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私たちは誓ったではないか___老人の願いを無にするな





     先の戦争では300万を超す多くの人が亡くなりました。

 

     その人々の死を無にすることがないよう,

 

     常により良い日本をつくる努力を続けることが,残された私どもに課された義務であり,

 

     後に来る時代への責任であると思います。

 

     そして,これからの日本のつつがない発展を求めていくときに,

 

     日本が世界の中で安定した平和で健全な国として,

 

     近隣諸国はもとより,



              できるだけ多くの世界の国々と共に支え合って歩んでいけるよう,切に願っています。




老人の願いはすべてのひとびとの願いでもある。

ニホンは世界平和の核となっていかねばならない。

私たちにはその責任があると同時に成し遂げる力もある。

私たちは誓ったではないか。

名誉にかけ、全力をあげて世界平和の実現というこの崇高な理想と目的を達成することを。



     日本国民は、恒久の平和を念願し、

     人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、

     平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、

     われらの安全と生存を保持しようと決意した。


     われらは、平和を維持し、専制と隷従、

     圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、

     名誉ある地位を占めたいと思ふ。


     われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、

     平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


     われらは、いづれの国家も、

     自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、

     政治道徳の法則は、普遍的なものであり、

     この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、

     他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。


     日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。








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レジスタンス運動の戦士となれ___We shall overcome






We shall overcome   

私たちが克服すべきは無知、無関心、不勉強です。

意識改革なしに社会を動かす原動力は生まれません。選挙で勝利することはありません。

確かに原発再稼働反対の大きなうねりと衆院選の選挙結果の乖離には違和感を覚えます。

不正選挙をいうかたもおられるようですが、

若い人たちの超保守化傾向を思うときこの結果が今の日本なのだということでしょう。

一億総白痴化計画、愚民化戦略、3S政策が成果を見せ始めたと捉えるべきです。



現代の戦いは主に情報戦です。

メディアをアメリカが押さえている以上、アメリカの傀儡政権が出来るのは自然な流れです。

それに対抗する手段を模索しなければ何度やっても結果はおなじでしょう。

選挙は公明正大に・・・無論それが大原則ですが、それだけで勝利することは容易ではありません。

相手陣営だけが敵なのではありません。敵はアメリカであり、それに隷従していく勢力すべてです。

言ってみればアメリカに支援された敵との内戦とも言える状況であるわけです。

侵略軍を相手に如何に戦うか、情報戦を如何に制するか、それぐらいの覚悟がなければ勝負になりません。

TPP参加ともなればこの国の主権そのものがなくなるのです。

謀略には謀略を・・・は過激でしょうか。しかし何としても市民を動かさなければなりません。

まずは情報戦とは何かから学習し次に備えていただきたいと思います。

ただ、一回の選挙だけで世の中が変わるなどと甘い考えを持つべきではありません。

私たちは真実を伝えるところから始めなければなりません。愚直に。愚直に。

既存メディアにどっぷりつかっていたのでは社会を変えられるはずはありません。

それは絶対に不可能です。

新聞は真実を伝えていません。 東京新聞(中日新聞)などがわずかに頑張っているだけです。

テレビは大衆を目覚めさせるどころか体制に都合のいい方向へ煽っています。

新聞を棄て、テレビを拒否するところから始めるべきなのです。

その運動を是非拡げて欲しいと思います。

躊躇されるかた、賛成できないかたはどうぞ現体制の中で自滅していってください。



「戦争を知らない子どもたち」も年金生活の時代を迎えました。

いまや「いつか来た道」の意味さえ知らない世代が中心の社会です。

今の市民の社会観、政治感覚はあまりにも幼稚です。市民を目覚めさせなければ何も起こりません。

アメリカに押しつけられた憲法は拒否すべしといいながら、日本をアメリカに売り渡す政策には

賛成してしまう愚かさ。

他国の属国になることが嫌だという気持ちにつけ込まれ自由、民主主義体制を

棄てようとする愚かさ。

暴力団員であるというだけで処罰の対象にすることが明日は無辜の一般市民に向けられる

悪法であることを見抜けない愚かさ。

事故が起きなければ原発は必要だと言ってしまう愚かさ。

自分をコンビニ強盗に駆り立てる敵の正体を考えようともしない愚かさ。

自分を自殺に追い込むのが応援した候補者だったとは気付きもしない愚かさ。

「自由であるべき」と言いながら「神事」に人々を参列させる愚かさ。

自分が搾取する側に立っていても加害者意識のない愚かさ。

この愚かさはあまりに哀れです。

無知であることはなんと惨めなことでしょう。何とさびしい人生でしょう。



ひとびとは自衛隊を国軍にするという党を選びました。

福島の事故を知りながら原発をなくそうとしない党を選びました。

核武装すべしと言う党を選びました。

戦争すべしと言う党を選びました。

彼らは何もわかっていません。

そしていつか来た道を歩み始めるでしょう。



私は戦後生まれですが幼少期はまだどの家もユニオンジャックのガラス窓がある状況でした。

傷痍軍人も街頭に立って支援を求めていました。他界した私の叔父も傷痍軍人でした。

NHKでは戦禍で行方のわからなくなったかたを探す「尋ね人の時間」が毎日ありました。

直接に戦争は体験していませんがそこここに戦争の傷跡があり、

周りに戦争で大切な人を失ったかたが大勢いたという時代を過ごしています。

「わけのわからないまま いつの間にかそういうことになっていた」と大先輩たちは述懐しておられましたが、

「わけがわかっていれば食い止められたのではないか・・・・」そんな気持ちが滲んだ言葉だったように思います。

♪ ああ 許すまじ 原爆を みたび 許すまじ 原爆を 

大先輩たちが幼い私たちに教えたのは「おなじ過ちを繰り返さないでくれ」という悲痛な叫び、

願いからだったでしょう。

私には彼らの悲痛な叫びを語り継いでいく責務があります。

私の恩師八田有親は卒業の餞に「曲がった道をまっすぐ歩きなさい」と言って送り出してくれました。

何の力もない私ですが後につづく人たちにまっすぐな道を照らす「燈」でありつづけたいと思います。

短絡的な勝利ではなく、人々の意識・社会改革を成し遂げる強い意志を持って。



We shall overcome








We shall overcome

We shall overcome

We shall overcome someday


Oh deep in my heart

I do believe

We shall overcome someday


We shall hand in hand

We shall hand in hand

We shall hand in hand someday


Oh deep in my heart

I do believe

We shall overcome someday


We shall all be free

We shall all be free

We shall all be free someday


Oh deep in my heart

I do believe

We shall overcome someday


We are not afraid

We are not afraid

We are not afraid today


Oh deep in my heart

I do believe

We shall overcome someday


We are not alone

We are not alone

We are not alone today


Oh deep in my heart

I do believe

We shall overcome someday


The whole wide world around

The whole wide world around

The whole wide world around someday


Oh deep in my heart

I do believe

We shall overcome someday


We shall overcome

We shall overcome

We shall overcome someday


Oh deep in my heart

I do believe

We shall overcome someday 




http://www.youtube.com/watch?v=RkNsEH1GD7Q








よけいなことですが・・・・・・・




邦題の「勝利を我らに」は賛美歌第2編164番の歌詞や公民権運動を意識して付けられたのだと思いますが、

「勝利を我らに」という訳には違和感があります。


公民権法の成立はひとつの前進ともいえますが、

法律の制定は人種差別を排除する法的な基盤ができたというだけのこと。


その根底にあった人々や社会の偏見・差別意識を一掃するものではなく、

真の運動の出発点であったに過ぎませんでした。


この歌の題名は短絡的な運動の勝利を求めるものではなく、私たちは克服すべきだ、

人々の意識・社会改革を成し遂げるのだいう強い意志を表明したものと思います。


そもそもあらゆる人間が平等であるべきとする運動に勝利も敗北もあるわけがないのです。

闘いがあるとすれば無知や無関心との闘いでしょう。


ガンジーやキング牧師の非暴力・不服従の精神は勝者だの敗者だのとは無縁のものです。


真理、真実の実現という遥かに遠い理想を目指し、長く困難な道を行くのだという強い決意を

歌っていたのだと私は思います。








ユニオンジャックのガラス窓

http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week19/index.html#entry-76444877


原爆を許すまじ

http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week19/index.html#entry-76444807








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子どもの声が届かない




[転載元]

BLOGOS
http://blogos.com/outline/102060/



自販機の裏で暖を取り眠る子ども、

車上生活のすえ座席でミイラ化し消えた子どもの声が届かない日本社会



国家公務員一般労働組合
2014年12月24日




NHKで12月22日に放送されたNHKスペシャル

「調査報告“消えた”子どもたち~届かなかった「助けて」の声」をみました。 

母親に18年間自宅軟禁されていた子ども。

手足を縛られることもある自宅軟禁で、

お風呂に入らせてくれるのはよくて5カ月に1回、ひどくて1年に1回で、

18歳のとき自力で自宅から脱出。

18歳にもかかわらず保護されたとき身長は1メートル20センチだったとのこと。


こうした事件を受け、

NHKは主に義務教育を受けられない状態にある子どもたちを「“消えた”子どもたち」として

全国の関連施設に独自アンケートを実施。

その結果、「“消えた”子どもたち」は、1,039人におよび、

義務教育を受けられない期間が10年以上もあった子どももいたとのことです。


 そのアンケートに寄せられた「“消えた”子どもたち」の状況は次のようなものでした。


 ◆ケージに入れられ、紐でつながれていた3歳の男の子

 ◆家から一歩も出たことがなく、髪がのび放題、言葉が話せず、

  笑うことも泣くこともない、食事を犬のように食べていた4歳の子ども

 ◆自動販売機の裏で暖を取って寝ていた幼い兄弟

 ◆車上生活のすえ、後部座席からミイラ化した遺体で見つかった男の子


 こうしたアンケート調査から、「子どもたちの姿が“消える”主な要因」(複数回答)として、

「虐待(ネグレクト含む)」が60%、「経済的理由」が30%、

「親の精神疾患・障害」が20数%としていましたが、

「虐待(ネグレクト含む)」の背景に「子どもの貧困」があることは明らかですから、

やはり、「“消えた”子どもたち」の問題は「子どもの貧困」の問題なのだと思います。


 そして、番組はこのアンケート調査をもとに、当事者へのインタビューを行っています。


 中学校に3年間通えなかった女の子は、

「母親がタクシーに乗って帰ってきて、運賃もなくて、中学生の自分が話をするんですよ。

それで全然知らないタクシーの運転手に怒られて、『自分、しっかりしいや』みたいなこと言われて。

普通に考えたらおかしいじゃないですか。子どもが出てきて、すいませんって謝るなんて。

なんで『どうしたの?』『大丈夫?』と声をかけてくれへんのやろなと思った。

みんながみんな、自分のことばかり気にして生きてんねんな。誰も助けてくれへんねんな」と語っていました。


 このインタビューには、

子どもの人権を守ることができない日本社会の問題が端的にあらわれていると思いました。

子どもを育てることは、家族の責任、親の責任とするのはもちろんのこと、

子どもが目の前で困窮していようが「自己責任」(家族責任)であり

自分を含む社会の責任ではないということでしょう。


 そして、子どもたちを助けることができない私たちの社会がもたらすのは、

こうして「“消えた”子どもたち」のその後の人生に深刻な影響を及ぼして、

社会的な損失をもたらしていくことです。

「言葉が話せない」、「17歳で保護されたが漢字が書けない、計算ができない状況」、

「筋肉がなく、坂道をくだりはじめると止まることができない」など、

700人以上の子どもがその影響に苦しんでいることが分かったとのことです。


 とりわけ深刻なケースとして紹介されていたのが、中学2年生までの7年間、

学校に通わせてもらえなかった女の子の例です。

この女の子は7年間、夜は椅子にビニール紐でぐるぐる巻きに縛りつけられ、殴られて出血し、

冬は冷水でシャワーをかけられ、泣くとぶたれ、

部屋のドアにはガムテープが貼ってあったところから施設に救われたのだけれど、

社会に適応できないまま、

「最後まで大人を信用できない私でした」と施設にあてた手紙を残し23歳で自殺してしまったのです。

この「最後まで大人を信用できない私でした」という言葉は、

「最後まで日本社会を信用できない私でした」と同じで、

やはりこの女の子を死に至らしめたのは日本社会なのだと思いました。


 番組の最後の場面で、18年間自宅軟禁の状態から自力で脱出し、

その後9年が経過した女性が現在取り組んでいる児童虐待を防止するための

ボランティア活動などの様子とともに、

「子どもたちを孤立させない社会であって欲しい。

子どもたちが普通に生きて、普通にすごせることが、一番の願いですね」

というその女性の言葉が紹介されていました。


 番組のナレーションのラストが、

「助けを求める子どもたちの小さな声を聞き漏らさないでください。

私たちがもう一歩踏み出すことを子どもたちは待っています」

というものでした。

もちろん、「私たちがもう一歩踏み出すこと」も重要だと思いますが、

もっとも重要なのは、

日本社会における「子どもを育てることは家族の責任」「自分の子どもは自分で育てるのが当然」

というようなほとんど社会的な責任を問うことを放棄した自己責任論と

同一線上にある「家族責任論」の克服だと思います。


 日本社会は、子どもの貧困をなくす公的支出が欧州の半分もなく、

子どものための公的支出が世界最低レベルという「社会責任」=「政府の責任」を

「家族責任」にすり替える「家族依存型社会」です。

この「家族依存型社会」の構造を改善しないでおいて、

子どもの貧困が6人に1人、300万人にのぼる日本社会で、

「私たちがもう一歩踏み出すこと」だけでは、

「助けを求める子どもたちの小さな声を聞き漏らさない」ことなど不可能だと思います。


 それに、このNHKのアンケート調査で判明した1,039人は、

施設に救出された子どもたちですから、実際の人数はもっと多いでしょう。

そのことは、「居所不明児童生徒」が文部科学省の調査で1,491人にのぼっていることや、

17年間無戸籍に置かれた子どもたちの問題の発覚でそれも

氷山の一角にすぎないことなどからも明らかだと思います。

そうした日本社会の構造上の問題に対して、

ただ一人ひとりが「もう一歩踏み出すこと」だけでは抜本的な改善にはならないでしょう。

ましてや自民党が掲げている「日本国憲法改正草案」の第24条

「家族は、互いに助け合わなければならない。」などとして、

さらに「家族責任」「家族依存型社会」を憲法でもって強制したり、

3歳までは母親の手で育てるべきというようなことを強制する政治をあらためていかなければ、

子どもの命、子どもの人権を守ることはできないと思います。



 最後に、本田由紀東京大学教授の指摘を紹介します。

本田由紀教授の著作『社会を結びなおす――教育・仕事・家族の連携へ』(岩波ブックレット)の一節です。


 たとえば、家族に対して教育を費用や意欲の面で支える役割を求めるだけではなく、

逆に教育が家族を支えるような役割がこれからずっと大事になってくるはずです。

つまり、学校が地域の拠点として、児童生徒のみならずその背後の家庭が抱える困難を鋭く見出し、

様々な社会サービスにつなげてゆく役割を強化してゆくことが必要だと考えます。

現在の日本の学校においては、「児童生徒を平等に扱う」という規範が非常に強いため、

問題を抱えている児童生徒に対して十分な対処ができていません。

しかし、子どもや若者にとって学校はいわば社会との「臍(へそ)の緒」にあたるものですから、

それを切ってしまうことは孤立する個人や家庭を生み出すことにつながってしまいます。

ただし、学校が家族を支える役割を果たすためには、

公的な支出を確保し教職員やスクール・ソーシャルワーカーなどの人員等を拡充することが不可欠です。


【出典:本田由紀東京大学教授著『社会を結びなおす――教育・仕事・家族の連携へ』

(岩波ブックレット、46ページ)】


(国公一般執行委員 井上伸)


[転載終了]



自民党が掲げている

「日本国憲法改正草案」の第24条「家族は、互いに助け合わなければならない。」や

「家族責任」「家族依存型社会」を憲法でもって強制したり、

3歳までは母親の手で育てるべきというようなことを強制する・・・

これはもはや政治ではない。

「家族は、互いに助け合わなければならない」は家庭論であって、政治が取り上げていうべきことではない。

政は様々な家庭のありように応えていくべく、選択肢を用意する責務がある。

「家族責任」「家族依存型社会」とはその責任を放棄するものであろう。

自民党は政治からの撤退を宣言したのか。













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アメリカ人 Erik Barnouw が見た原爆




「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」 アメリカ合衆国より




人道主義のもと  人類に対する罪を裁いた東京裁判で 

原子爆弾の使用についてはまったく言及されなかった。

勝者の都合と断ぜざるを得ない。

これはアメリカ人ドキュメンタリー監督 Erik Barnouw がまとめた

広島・長崎の記録である。



     The Scenes of Hiroshima and Nagasaki

     which you are about to see were withheld

     from the public for more than 20 years






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総括をしない日本人___スケープゴートにされたA級戦犯たち




かつて菅直人氏は靖国神社問題について「A級戦犯合祀という本質的な問題がある」と発言した。


これはまったくおかしなことで、一宗教法人が誰を祀ろうと政治が介入すべき問題ではない。

政治が靖国神社をどうこうしようと言うこと自体、政教分離を逸脱した行為と言うべきだろう。

政治の介入こそが本質的な問題である。


神社側が天皇のために戦死した人を追悼しようと戦犯と認定された人々を祀っていようと、

それは一宗教団体のあり方の範囲内であれば自由であるべきだ。

そうでなければ憲法に定めた信教の自由は有名無実なものとなってしまう。


    第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。


    第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、

           又は政治上の権力を行使してはならない。

         2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

         3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。



A級戦犯合祀が問題・・と捉えるから「分離すれば・・」という話に引きずり込まれる。

何故、そうまでして「神社」という形にこだわるのか。

政治が「神社」を必要とする魂胆とは何なのか。

政教分離の大原則はいったい何処へ行ったというのだ。


合祀・分離論が出てくることは国家による「靖国神社」存立を画策するグループの巧みな戦略であり、

そのような議論の土俵に乗ること自体、

憲法が描いている民主的国家運営から遠いものであることを忘れてはならない。


そもそもA級戦犯とは日本の国内法で戦争犯罪と決められたものではない。

第二次大戦後極東国際軍事裁判で連合国、つまり、戦勝国によって犯罪とされたものである。


裁判そのものを否定するつもりはないが、手続きとして国内法が関わっていないことは押さえておくべきだ。

つまり、A級戦犯合祀が問題になるということは、国内の総意や法理論よりも

戦勝国におもねることが優先されていることにある。


60年余を経過した今日でもなお敗戦国の呪縛から解放されない政治のありようは

独立国としての将来を思うとき、まことに憂慮に耐えない。


戦前の国家体制がよい社会とはとうてい思えない。

戦争という最も愚かな道を選択し、あまたの尊い命を犠牲にしたことを擁護するつもりなど毛頭ない。

侵略戦争ではなかったという論調に与するものでもない。


真に民主的な国家を築いていく過程においては戦前の政治体制について十分な検証が必要となる。

では、これまでに日本の市民の手によって検証し、自らを裁いたのかといえば答えは「NO」である。


一部の人間をスケープゴートとして巣鴨におくり、戦争犯罪のすべての罪を被せ、

自分たちは何も関係がなかったと戦後社会を生きるような連中がこの社会をよい方向に導くものだろうか。


戦前、戦中を巧みな処世術で生き抜いた連中は、戦後、GHQにとりいり戦犯リストから逃れている。

悪名高き731部隊の石井四郎は訴追もされていない。


自ら最高責任者でありながら戦後は傍観者を装い、平和国家の「顔」を演じ続けた天皇裕仁は

その意味で最も卑劣きわまりない人間である。


A級戦犯分離を唱えるということはまさにこの延長線上にある論理である。

戦前の国家体制について批判することもせず、

「加害者であるA級戦犯」を切り離して新しい国家を築こうとしても、

足元のしっかりしていない国家観など砂上の楼閣でしかない。


歴史の検証、それは決して容易ではない。

先人たちを傷つけることもあるかもしれない。

しかし、あまたの尊い命が犠牲になり、我々がその当事者であった事実から目を背けてはならない。


戦争に参加した人、当時こどもだった人、そればかりではない、

現代の我々も含めすべての人が検証に立ち会わなければならない。

そうでなければ本当に民主的な社会、平和な社会などつくれるはずはない。


スケープゴートとして死んでいった人たちは無駄死にになってしまう。





ウィンザー通信

家畜的な盲従に自己の一切を委ねてしまった国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任が悪の本体
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/aba75602d41c1774fa78180242454816


戦争責任者の問題  伊丹万作
http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html






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マイルドコントロールの怖さ____ファシズム国家




こんな時代だから観て欲しいドラマ。



フィクションとはいっていられない今日的な問題です。

マイルドコントロールの怖さ、ファシズムの怖さが描かれています。(18分ほどです)



世にも奇妙な物語 第181話「23分間の奇跡」 










ユニオンジャックのガラス窓

http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week19/index.html#entry-76444877


原爆を許すまじ

http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week19/index.html#entry-76444807


沈黙の螺旋
http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week20/index.html#entry-76479181








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兵法の極意


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♪おさかな くわえた どらねこ おっかけて~


裸足で飛び出す 隣のじいさん。

そんなことはしょっちゅうだ。


隣家の花壇をトイレときめている猫くんたちは毎日のようにほうきで追いかけられていた。


鶴来に住んでいたときのお向かいは超猫好き。

お隣は超猫嫌い。

子だくさんの藤本さんちは中立派。

人間関係もそれを反映していた。


トムとジェリーではないが、じいさんと猫くんたちのバトルは見ててあきなかった。

おもしろがっていては叱られそうだが、じいさんは動物をわかっていない。

間違った対応をしているからこそバトルは延々と続く。


ほうきで追いかけられ、ホースで水をかけられ、あんな家はもうこりごりだ、絶対近寄りたくない。

そんなふうに思う弱気な猫ばかりではない。



「あの じじい いまにみてろ」


「おい ゆだんしてたら また 台所から なんか かすめとってくるんやで」


「けど あにぃ あすこの おかず あんまり おいしなかったで」


「そんなん ええねん たべんでええ もってくることに 意義があるんや ええな」


「ほかのもんにも よう いうときや」



私だって自分ちの庭をトイレにされたくはない。

だから私は猫くんたちと仲良しになるよう心がけた。


「は~い おっはよう」「は~い おいで」「は~い ちゃんと たべてる? んっ?」


彼らは相手に敵意があるかを本能的に見抜く。

敵意のある者にはそのように振る舞う。

警戒すれば彼らもまた警戒する。

簡単に詐欺の被害に遭うようなパンツをはいた間抜けな猿よりははるかに賢い。


おもしろいことに彼らは猫族に好意的な家の周辺をトイレにはしない。

時々カリカリなんかを提供してくれる小父ちゃんの家は大事にする。

彼らもそういう仁義は心得ている。


夕涼みに庭の石に腰掛けて話し込んでいると足下にあたたかいものが、、、、

いつのまにか馴染みになった面々が一緒に涼をとっていた。


猫くんたちにとって我が家の庭は運動場であり、憩いの場であり、おやつの場であった。

そして、お気の毒にお隣の花壇はトイレだった。





味方を作らずとも、敵を減らすこと、これ兵法の極意なり。








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沈黙の螺旋


        ♪里の秋   


                    斎藤信夫作詞

                    海沼実 作曲



        静かな静かな 里の秋

        お背戸に木の実の 落ちる夜は

        ああ 母さんとただ二人

        栗の実 煮てます いろりばた



Q:何故、母さんと二人なのでしょうか。  父さんはどこにいるのでしょうか。



/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////


高校時代の私たちは勉強の虫だった。

とくに2年生のときの28ホームというクラスは全員が向学心に燃え、寸暇を惜しんで参考書を読みあさっていた。

休み時間はといえば議論、弁当を食べながらも議論、登下校は歩きながら議論・・・そんな毎日だった。


断るまでもないが、そのことと"結果がついてくるか" とは別次元の話であって、

私たちの場合は多分にそうせざるを得なかったというのがあたっている。

勉強と相思相愛の間柄が理想であるわけで、片想いでしかないのは何とも切ない。


そんなクラスであったから学校全体から見れば "浮いた存在" だった。

よそのクラスの連中には青春を謳歌していない "嫌みな奴ら" に映ったに違いない。


校庭を歩いていると、どこからともなく石をぶつけられるということはよくあった。物が紛失するのもしょっちゅうだ。

卒業後、20年ほど経ってはじめて「あれってイジメだったのかも・・」と語り合うくらいだから、

何とも呑気というか、ピーカン気分の友たちだった。




"異質" であることはいつの時代でも "浮いた存在" になる。

ニホンのような島国で、共同作業を必要としてきた農業社会の中ではなおさらである。


"同調圧力" という言葉がある。何とも嫌なというか、こころの貧しさを感じるさびしい言葉だ。


「危険を知りながら、子どもたちへ伝えられない自分に耐えられない。彼らが被曝するのを見ているのもつらい」


そう言って高校を退職した宍戸俊則氏のことが2011年8月6日付の中日新聞に掲載されていた。

(おそらく東京新聞にも)

被災地の真実を伝えることに対して「不安を煽るな」と学校側から指導を受けたとある。


教師は学校に、学校は教育委員会に、教育委員会は文部科学省に同調することを求められる。

私の辞書ではこれを "強要" という。ファシズムとはまさにこれを言う。


理を説くのならまだしも、

たんに「同じ事をしていろ」というのは「赤信号であろうとみんなで渡ることが安全なのだ」

と言っているに等しい。非論理の世界であって、無謀きわまりない。


「不安を煽るな」とは言っても、何故か「安心を煽るな」とは誰も言わない。

誰が言わせているかはこのことによって明らかだ。


ネットは常に政府によって監視され、政府の言う「真実」を伝えるよう求められる。

ここまできても今の政府が危険であることを認識できないのであれば、これはもう "愚か" と言うしかない。


「自粛を求める」というおかしな言い方がある。

求められる、強要されることを「自粛」と答えれば八田教室では笑われる。強要されれば自粛とは言わない。


しかし、本当に気をつけなければいけないのは「圧力」なのではない。

「ファシズム」と闘ってきた我が党は・・・という言葉も時折耳にするが、

私たちをファシズムに引きずり込むのは他でもない私たち自身であることも忘れてはいけない。


ひとは肉体的にも精神的にも他者との関わりなくしては生きていけない。

とくに孤独感にさいなまれることは精神の死を意味する。


「共同感」「帰属感」をあたえてくれる暮らしがなければ、ひとは無性に不安を覚える。ここが大事だ。

自分にとって許し難い疎外感・断絶感・乖離を感じるとき、ひとは奈落の底に落ちていく夢を見る。

そんな無力感を麻痺させたい時こそ、最も危険な状態といえる。


ここにファシズムの導入口が大きく口を開く。


みんなで渡ることで恐怖心を押さえることはできても、赤信号が危険であることに何ら変わりはない。

孤立や精神的な孤独からの脱却は、愛や生産的な仕事の自発性のうちに他者と結ばれていく中にこそ

見いだされなければならない。


権力者が演出、用意する「連帯感」の世界の中ですべてが解決していくという幻想を見せられ、

擬似的な連帯感に浸っていては自ら「滅び」の道を歩むしかない。


「非国民」と言われるのが嫌だというなら、生涯にわたって後悔し続ける哀れな魂が自らの姿であることに

思い至らなければならない。




全体に従い、他人にも強要しておいても「あれは間違いでした」と謝った人が今までにいただろうか。

70年前のことは何もかもA級戦犯に責任をおっかぶせ、被害者づらしているだけではなかったか。


体育の時間にウサギ跳びをさせられ、「運動するときは水を飲むな」そう言われた。

しかし、そんな先生たちから「間違ったことを教えてしまった」という謝罪の手紙をもらったことはない。


すべてが同じ図式だ。「上層部から言われたことを伝えただけだ。それに従うしかなかった」と開き直るのだ。


被災地の真実を伝え、不安を訴える者に対してはケアをしていくべきで、

「不安」を起こさないために沈黙したのでは、自らも加害者であることを強く認識すべきだ。


沈黙はさらなる沈黙を招くのだ。これを沈黙の螺旋という。




メディアには「絆」「協調」「助け合い」「節電」の言葉が無機質に流されている。

放射能汚染の疑いのある食品も汚染など無いことにして、「風評被害の被災地を助けよう」などと

無責任に消費を呼びかけている。国や原子力村の責任追及などかすむ勢いだ。


笑顔や個人の道楽などもってのほかという空気がこの社会に蔓延している。

被災者も被災者らしくないのは嫌われる。ボランティアの芸能人にまで媚びを売っていないと叩かれる。

他人の生活には立ち入らない、自立のサポートのみをして遠くから見守るだけということは出来ないものか。


私などは、まったくの他人様にそう易々と「絆」などと言われたくはない。

それが原子力村でたらふく潤ってきた連中であってみれば腹立たしいだけである。


この空気、これが70年前にもあったのだ。


「欲しがりません。勝つまでは」


「銃後の護りは僕たちが」


と、言わされた時代があったことを忘れてはいけない。

忘れているからこそ今また同じ事を言わせれていることに誰も気付かない。



童謡「里の秋」はまさにそういう空気の中で作られた詩だ。

もともとは秋の情景を歌ったというより、「銃後の母子」ともすべき内容である。

貴重な歴史の証人ともいえる歌だ。

よく読んでみて欲しい。




高校2年の修学旅行は九州だった。

帰路は別府港からフェリーで大阪までの船旅だったが、

10代の若い連中がおとなしく船室で眠っているはずもない。

夜通し甲板で騒いでいた。


珍しいものが見えるたびに大勢の生徒が右舷へいったり、左舷へいったり。

心配性な私は船が傾きそうに思えて、そのたびに皆とは反対側に立っていた。

3000トンクラスの船が傾くことなどないことは頭では理解できる。

それでも条件反射的に体が動いたのを覚えている。


気がつくといつも議論している連中は私と同じ側でそれぞれ立っていた。





  
  

 

       ♪里の秋   
  
                          斎藤信夫作詞

                          海沼実 作曲


        1 静かな静かな里の秋

          お背戸(せど)に木の実の落ちる夜は

          ああ母さんとただ二人

          栗の実煮てます いろりばた


        2 明るい明るい星の空

          鳴き鳴き夜鴨(よがも)の渡る夜は

          ああ父さんのあの笑顔

          栗の実食べては思い出す


        3 さよならさよなら椰子(やし)の島

          お舟にゆられて帰られる

          ああ父さんよ 御無事でと

          今夜も母さんと祈ります


                             (1945年12月発表)




      戦前に作られた元々の詞  

      (元は 「星月夜」 として1941年12月に作られた)


  
        1 静かな静かな里の秋

          お背戸(せど)に木の実の落ちる夜は

          ああ母さんとただ二人

          栗の実煮てます いろりばた


        2 明るい明るい星の空

          鳴き鳴き夜鴨(よがも)の渡る夜は

          ああ父さんのあの笑顔

          栗の実食べては思い出す


        3 きれいなきれいな椰子の島

          しっかり護って下さいと

          ああ父さんのご武運を

          今夜も一人で祈ります


        4 大きく大きくなったなら

          兵隊さんだようれしいな

          ねえ母さんよ僕だって

          必ずお国を護ります








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市民序列化装置__天皇




民主制国家に君主などあってはならない。


国王だの天皇だのと・・・どこかの国では政治的指導者というそうな・・・

所詮は地方の豪族やその辺りを仕切っていた親分ではないか。

縄張りを仕切るヤクザの親分と本質的には何も変わらない。

仕切っていた親分本人ならばまだしも、

時を経た今日ではなんの実力も無い化石のような存在であろう。

その系列に属するというだけの者が一般市民から隔絶し、敬われるなど滑稽の極みではないか。

ひとが手を振る者と旗を振る者に分かれる、こんな理不尽なことがあっていいわけはない。


しかし、比叡山を焼き討ちした信長でさえ天皇家を壊滅させることはしなかった。

天皇に実力があったからでもなければ、天皇に民の信望があったからでもない。

己を権威づけるのにうってつけだったからだ。


何の力もない者が虚勢を張るためであったり、

悪行を重ねてのし上がってきた者が、マネーロンダリングさながら

自身の経歴をフレッシュアップするためにこそ天皇は必要だった。


民を序列化、差別化し、己の支配に正当性を持たせるためにこそ権力者は天皇を利用してきた。

信長の時代から今日に至るまでそれは何ひとつ変わってなどいない。


いつまでこんな欺瞞に満ちた制度を存続させるのか。

現憲法では「国民統合の象徴」だそうな。

国民統合の象徴とは言ってくれるよ。

国民序列化の象徴であり、権力者の隠れ蓑に過ぎないではないか。

それに向かって旗を振らされる市民はいい面の皮だ。


ひとのよい市民は市民で、そんな天皇に少しでも近づくことで自身の社会的存在を再確認しようとする。

勲章制度がそんな市民を喜ばせる装置として用意されている。


権力者の言葉に従ったり、得体の知れない連中の後を追いかけていても「自身」は見つからない。

愛や生産的な仕事の自発性のうちに他者と結ばれていく中でこそ

「自身」の「場」が確認できようというものだ。

そろそろ気付けよ !!




党の存続を優先させるためとはいえ、

民主主義の1丁目1番地を言わなくなってしまった政党など評価に値するのだろうか。

何とも頼りない社会主義もあったものだ。








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いまは開戦前夜の状況




我々は悪夢を見ているのではない。

戦後69年間、民主主義体制のもと暮らしてきた。それこそが夢だった。


権力による国民への「弾圧」や「謀略」は今もなお我々の身近にある。

戦前と何もかわってなどいない。すべては夢だった。


メディアは完全に権力に掌握され、大本営発表を流しつづけている。

原発報道ではそのメディアの本質が誰の目にもあきらかになった。


選挙の結果と直前に行なわれる共同通信の「世論調査」との結果が大きく異なることも少なくない。

乖離は何を意味するのか。


市民は「世論調査」といえば、市民の生の声と信じている。


しかし、若いときに大先輩達から教えられたのは、

「世論調査」や「読者の投書欄」は市民の声ではない、メディアの論説委員の声だということだ。


読者の投書欄を編集しているのはメディアであることを忘れてはならない。

意に沿わない意見は端から掲載されないのだ。


過去に、ジャーナリズムが機能しない時代に何が起きたのか、歴史を振り返って欲しい。

大政翼賛会の日本で何が起きたのか振り返って欲しい。


震災の後、集められた東日本大震災復興構想会議のメンバーにメディア関係者が2名入っていた。

朝日新聞社OBの高成田 享氏、読売新聞特別編集委員の橋本五郎氏だ。

これはジャーナリズムの崩壊を意味する。


権力をチェックするべきメディアが権力の中に入ったのでは、チェック機能は働かない。

戦後このようなことはなかった。菅以降の内閣が非常に危険な存在であることは誰の目にも明白だ。


   過去の自民党政権下でもなかった、武器輸出3原則の撤廃は何の議論もないまま進められてしまった。


   通信の秘密を保障した憲法に抵触している「ネットメディア監視法」はいとも簡単に成立。


   またもやアメリカ隷従外交を象徴する突然のTPPへの参加表明。


   核エネルギーの軍事利用への道をひそかに決めてしまった。


   格差拡大の社会を批判してできた政権も菅以降は小泉路線の継承者でしかない。


大きな問題が起きているのにメディアは一切問題にしようとはしない。

政権とメディアがひとつになっていることを思えば当然といえる。


朝日、読売、産経の政権擁護はもはや、この国が民主主義体制でないことを意味する。

大戦前夜の状況と同じだ。戦争準備の時代に入ったということだろう。

歴史に学ぼうとしない人は、暗黒の時代に入っていることを認めようともしない。


どの局にもニュース枠とは別に報道番組がある。

気をつけて見て欲しい。コメンテーターが永年変わっていない。

無償ならまだしも、報酬を約束されつづけているコメンテーターが局の思惑と異なることを発言するものだろうか。


彼らは約束された今の立場をやすやすと手放したりはしない。局のご機嫌取りに終始するだけだ。

狼も飼い慣らされればただのペットである。


解説者の顔をしているお目付役が必ずいて、発言者を監視している。これはかつての検閲将校だ。

作家澤地久枝氏が局の番組作りに抗議し、コメンテーターを降板した姿は今も記憶に生々しい。


「世論調査」というのは設問の設定、調査対象の選び方によって最初から答えが誘導されるものだ。


よく用いられる、コンピューターで無作為に対象を選ぶRDD方式は対象が固定回線のみだ。

固定電話を持たず携帯電話のみで生活する若い世代の意見は調査には反映されない。最初から偏りがある。

この一点だけでもこの調査に信頼を置けないことがわかる。


彼らはそれを知りながら行なっている。最初から結果が決められているからだ。

さらにいうなら、市民は調査が公正に行なわれたかを確認するすべがない。


いや、実際に調査そのものが行なわれたかも確認できはしない。

捏造は簡単にできるし、捏造であっても罰せられることもない。


配信大手一社のみが行なっている調査を信じろというのはあまりに市民を馬鹿にしている。

世論調査結果という世論操作が繰り返し行なわれていることに市民は警戒をゆるめてはならない。


市民が思うほど社会は優しくはない。

「週間ベストセラー」を見て本を選ぶような人は作られた「世論調査」を信じやすい。要注意だ。


「検察は正義である」これが神話でしかなかったことが次々明らかになってきている。

2000年に起きた佐賀市農協背任事件は、事件そのものが地検ぐるみのでっちあげだった。

主任検事だった市川寛検事ひとりが詰め腹を切らされたが、実は個人の犯罪ではなかった。

今は弁護士となった市川寛氏が驚くべき検察の実態を暴露している。


   新人検事は先輩から調書の捏造をたたき込まれる。

   外国人とやくざに人権などないと教えられる。

   暴力、脅迫、ときには拷問ともいうべき苦痛を与えて自白させる。


厚労省局長事件の証拠捏造は、つじつまがあわないことがはっきりしたため、「事件」になったが、

つじつまが合っていれば表面に出てこなかったはずだ。

彼らには証拠捏造、証拠秘匿に対して罪悪感などない。


検察は社会正義実現のためにあるわけではない。権力の擁護のためにある。これがこの国の現実だ。

捏造することが恒常化している警察、検察はもはや民衆の敵でしかない。


ネットメデイアの監視と弾圧を目的とする「コンピュータ監視法」が成立した。


立法を阻止するために活動していた市民活動家が12年6月15日の深夜帰宅途中の電車内で

「東京都迷惑防止条例違反」(痴漢行為)容疑で逮捕された。

市民活動家のY氏は男3名、女2名の公安警察・謀略部隊に電車内で「痴漢事件」をでっちあげられ、

逮捕されたという。


しかし、謀略工作がずさんだったため、東京地裁は検察官が出した10日間の検察拘留請求を却下し

釈放を決定した。

検察官は「抗告」もできなかった。

Y氏がはめられた「痴漢事件」は植草一秀氏のケースとまったく同じだ。


一応、この国は民主主義国家といわれている。その国に「公安警察・謀略部隊」があるという。

信じがたいことだが、Y氏が嘘を述べるメリットはなにもない。事実であろう。


報道関係者、政治家、事件の関係者が不審な死を遂げている。

他殺の証拠があるわけではない。証拠があったら暗殺とはいわない。

我々の眼前に証拠があきらかになるまで待っていたら、こっちの首が先になくなっている。

暗殺をも視野に入れておくべき事案が多すぎる。


権力者のなりふり構わぬやり方の先に何があるのか。想像力を最大限にして考えてみて欲しい。


日本は戦前の治安維持法下の「弾圧と失業と戦争の時代に突入した」と、どなたかが書いていたが、

突入したというのは正確ではない。戦前と何も変わっていなかったということだ。


いずれにしても全力をあげて暗黒の時代から脱出しなければならない。








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どんなパンを食べていますか

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臭素酸カリウムを使用するパン屋がある。


「ランチパック」シリーズのパンには品質改善と風味の向上のため臭素酸カリウムを使用しております。

残存に関しては厚生労働省の定める基準に合致しております。- 山崎製パン

http://www.yamazakipan.co.jp/brand/02_03.html


パン用生地改良剤である臭素酸カリウムの安全使用について - 山崎製パン

http://www.yamazakipan.co.jp/brand/pdf/foodchemical200410.pdf


中央研究所発表の研究論文「食パン中の残存臭素酸量の低減」- 山崎製パン

http://www.yamazakipan.co.jp/brand/pdf/syokuhinkougakkaishi2.pdf


ヤマザキ

http://www.yamazakipan.co.jp/index.html




そもそも臭素酸カリウムとは何?


【臭素酸カリウム potassium bromate】 


化学式KBrO3。無色三方晶系の結晶。融点370℃(分解を伴う),比重3.27(17.5℃)。

水100gへの溶解度3.11g(0℃),49.75g(100℃)。エチルアルコールに難溶,アセトンに不溶。


融点以上でしだいに酸素を放って分解し,臭化カリウムに変化する。


水溶液は強い酸化剤で臭素酸塩滴定に用いられ,

容易に再結晶できるため,酸化還元滴定における標準物質となる。


水酸化カリウムの水溶液に臭素を加え,煮沸したのち冷却し,分別結晶によって,

副生した臭化カリウムを分離したのち,水溶液から再結晶して製する。


臭素酸カリウム

http://www.fsc.go.jp/sonota/factsheet-kbro.pdf

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AD%E7%B4%A0%E9%85%B8%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0


国際化学物質安全性カード

http://www.nihs.go.jp/ICSC/icssj-c/icss1115c.html




パン工業界は・・・・・


パン生地改良材(臭素酸カリウム)の安全使用について    日本パン工業会


 臭素酸カリウムは、欧米及び日本のパン業界で小麦粉改良剤として長年にわたって使用されてきた

食品添加物です。

ところが昭和57年、臭素酸カリウムの安全性の問題が指摘されたことにより、

わが国では食品衛生法の使用基準を改定して、許容使用量を減らすとともにパンにのみ使用を認めました。


日本の製パン業界では、臭素酸カリウムの使用が認められていますが、厚生省の要請を受けて平成4年以降、

臭素酸カリウムの使用を自粛してまいりました。その代替品としてビタミンCを使用してきておりますが、

ビタミンCではパン生地物性の改良やパン特有の風味を生み出す発酵改良効果などにおいて

不十分なところがありました。


 臭素酸カリウムの使用の是非に関する科学的な根拠を求めて、鋭意研究を重ねた結果、

高精度のパン中の臭素酸カリウム残存量の分析技術を開発しましたが、これが厚生労働省の公定法となりました。

最近では分析技術は更に精度が高められておりますが、

角型食パンにおいては臭素酸カリウムが完全に分解されて残留せず、0.5ppbの検出限界で

検出されないことが確認できました。


また、山型食パンでパン中の残存量を大幅に減少させ、

臭素酸カリウムのパン生地改良効果を最大限に発揮させる技術が確立できました。


そこで、臭素酸カリウムを使用する製パンメーカーは、(社)日本パン工業会科学技術委員会小委員会の管理下で、

適正製造規範(GMP)に準じた自主基準を遵守して角型食パンに限って使用を再開することになりました。


 なお、厚生労働省のご指導により、お客様には商品選択に資するように商品には臭素酸カリウム

使用の旨を表示しております。

http://www.pankougyokai-subc.jp/safety.html


パン生地改良剤(臭素酸カリウム)の角形食パンに関するQ&A    日本パン工業会

http://www.pankougyokai-subc.jp/q&a.html




使用に批判的な意見も・・・・・


臭素酸カリウムについてのQ&A   日本生協連安全政策推進室

http://jccu.coop/food-safety/qa/qa01_03.html#menu


【臭素酸カリウム。EUでは使用禁止】パン生地改良剤として使われる発がん性物質。

ガンガン使う会社=山崎製パン「無添加でいいもの作れるはずないだろ!」と社長。

2009/9/30 My News Japanより。

厚労省は「残留しない条件で認める」FAO/WHO「100%除去が保証できない」

・・・「検出されない」は「残存ゼロ」ではない

http://enzai.9-11.jp/?p=9918


臭素酸カリウムの発がん性について (財)佐々木研究所 黒川雄二

http://www.sasaki-foundation.jp/rireki/kenkyu.html


(財)佐々木研究所

http://www.sasaki-foundation.jp/




こんなパン屋も・・・・・


臭素酸カリウム不使用について - 神戸屋

http://www.kobeya.co.jp/fresh_pure/index_fp6.html


神戸屋

http://www.kobeya.co.jp/index.html


臭素酸カリウム不使用について - Pasco

http://www.pasconet.co.jp/company/feeling/material02.html


Pasco

http://www.pasconet.co.jp/




あなたはどんなパンを食べていますか。








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いのちあるものはすべて平等




「自分は ほとけさんから もういただいております」


文化勲章受章について打診があったとき、禅僧は明快に答えた。


「いのちあるものはすべて平等」と幼い頃より寺の住職から教わってきた。

人間を位付けする勲章制度は仏の教えの対極にあるわけで、

禅僧のもの言いには実に爽快な思いがしたものだ。


世の中には各分野のさまざまな「賞」がある。

研鑽を促すためであったり、業界の発展を願う思いであったり、社会に対するPR活動でもあったりする。


しかし、国家が行なう「褒章制度」は異質だ。

人間を位付けするように見えるのは私だけだろうか。


そもそも「褒章」とは「ほめてとらす」ということだ。

さらに、問題は「ほめてとらす」のが誰であるかということだ。

「誰」が「誰」を「ほめるのか」、それがその行為の本質を見極める上で極めて重要である。


北九州で発見された「漢委奴国王印」は漢王朝が異民族の王に官位と印綬を与えることで、

皇帝を頂点とする秩序に組み入れようとしたもの、といわれている。


そのことからもわかるように、「ひと」が何かを「ひと」に授けるということは、

その人間関係を決定づけてしまう極めて重要な行為である。

「ほめてとらす」も同じ意味を持つ。


「むやみに他人からものをもらってはならない」という先人の教えもそこにある。


大名が武士に「刀」を授ける行為は、臣下として認めたことであり、

受け取ったほうは臣下の礼をとることを約束したことになる。

つまり、終生、家来として仕えることを宣言したことを意味する。

適切を欠く表現で恐縮だが、「魂を売り渡す」ような行為でもあるわけだ。


「褒章」が誰の名によって行われるのかは、

この国の政治体制の根幹に関わる重大な問題であることを認識する人は少ない。


いかに象徴天皇制とはいえ、天皇の名によって行われる「褒賞」を受けることは、

封建的な勲章制度を認めるにとどまらず、天皇を頂点に戴く国家体制を受け入れることを意味する。


確かに、いまの時代に「臣民」や「赤子」という言葉は飛び交っていない。

しかし、天皇制より発現する「臣民」と「赤子」という自己認識が、政治的行動を敢行する根拠とされ、

無謀な戦争に突入していった時代からわずか70年余しか経っていないことを忘れてはならない。


今日の社会情勢をみるとき、いとも簡単に70年前へタイムスリップしそうな気配がしているのは私だけだろうか。


民主的な国家には君主などあってはならない。

いきとしいけるものが「手を振るもの」と「旗を振るもの」にわかれることがあってはならない。 


みなが平等では都合の悪い人々がいる。

序列を作るほうが民を治めやすいと考える人々がいる。

天皇を頂点とした国家像を考える人に「民主国家」を語る資格はない。 



ヨーロッパにはありったけの勲章をつけることを正装とする文化があることを聞いたことがある。

胸全体に勲章をつけている写真を見たこともある。

勲章をつけている人は「誇り」と思っているのだろうが、


「みて みて みて みて」


と、場に居合わせたひとの興味をひくものが金属の固まりでしかないのは何とも哀れである。






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地球人は食糧危機を乗り越えられるか




2002年10月、拉致被害者5人が帰国した。

羽田に降り立ち、にこやかに手を振る彼らだったが報道される映像からでさえ朝鮮の

厳しい食料事情をうかがい知ることができたのは私一人ではなかったはずだ。


軍事優先で食料生産がないがしろにされていることは様々な報道で知ってはいた。

政治の有り様でひとの暮らしがこうまで違うことになるのか、

カメラの先にいるひとびとが同じ時代の人とはにわかに信じられない思いだった。


核開発に血道を上げ、ミサイル開発で世界を恐喝する外交姿勢は各国から非難が集中している。

最近も " キューバ危機 " を思わすような危険な揺さぶり外交を展開した。


朝鮮戦争の後始末ができていないことを差し引いても彼らの政治に同調できるものは何もない。

民の暮らしを犠牲にした政治は抜本的に是正されなくてはならない。


さらに言えば、特定の人間を神格化し民を黙らせる政治手法は前近代的な王政国家であり、

民主主義が世界の共通認識になった今、その存在を国際化社会で誇示することはできまい。




アジアにもう1カ国似たような国があるのを知っているだろうか。


国土面積もわずかで資源も乏しい。

やはり核開発、ミサイル開発には熱心で周辺各国からは警戒の目を向けられている。


社会の格差は大きく、貧困層は万引きするか餓死するかというひどい社会状況である。

やはりこの国も神格化された人物を元首にすることに強いこだわりを持つ非民主国家である。


表現の自由もなく国家警察は常に市民を監視している。

政敵は捏造された罪で監獄に送られるか、メディア総動員で社会から排除される。

近年、暗殺されたと噂される政治家も一人や二人ではない。


この国の食料自給率もきわめて低く、朝鮮のことをとやかく言える状況にない。

食料生産を無視して、工業製品で外貨獲得をのみ目論む有り様は朝鮮の姉妹国家を思わせる。


政の第一は民のいのちと暮らしを守ることにある。太古の昔よりこれは変わらない。

水と食料の確保ができずして政は成り立ち得ない。

水と食料のあるところにのみ文明が花開いたのではなかったか。


40パーセント以下の食料自給率では社会は飢えるしかない。

貿易で諸外国から食料が届くのもいつまで続くことやら・・・・


いのちを犠牲にして暮らしを守る、原発立地自治体のような愚か者は世界にはそうはいない。

その恐ろしさをイメージできなければ食糧危機に備える準備もできまい。


急速に顕在化している温暖化に対してその国の政府も政治家も関心を示そうとはしない。


世界の食糧である栽培植物の多くは社会の要請や地域の事情に合わせて品種改良が進んだ結果、

異常気象にはめっぽう弱い。 適応力を失った、ある意味、異常作物なのだ。

しかも驚くことに米も麦もトウモロコシも品種的にはきわめて少なく、ひとつこけたら

皆こける状態なのだという。 これは恐怖である。


植物全体で見れば温暖化だからといって絶滅することはないだろうと言われている。

しかし、今日の我々は栽培植物を食料にしていることを忘れてはならない。


食糧危機は既に始まっている。世界では食料の奪い合いが既に始まっている。

そんなことを知って知らずか、やれ憲法だ国防軍だと騒いでいるのだから能天気もいいとこである。

民に水、食料を提供できずして政たり得ようか。朝鮮の姿そのままではないか。


自前で食料を確保できないことは国際的な犯罪である。世界の情勢が見えていないのか。


食糧問題を訴えるひとなどどこにもいない。 大丈夫か?地球人。

またもや想定外と言うつもりか。 植物学を勉強せえ !!




     ※ ニホンの食糧自給率は、カロリーベース総合食料自給率で39%(2010年度)、

       生産額ベース総合食料自給率では69%となっている。



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         米がらと            ※ 2011年8月記




もう稲刈りの季節になった。


この頃になると稲作地帯に生まれた "特権" のようなものを感じる。

あの、稲を刈り取ったばかりの独特の田んぼの香りはアスファルト社会では味わえまい。

新しい稲わらの香りは "収穫" の香りだ。


私の中学時代、季節になると "稲刈り休暇" なるものがあった。

農家の生徒が対象だが、数日間、稲刈り作業を手伝うため欠席することが公認されていた。

コンバインなどない時代であり、家族総出の作業となるからだ。


学習時間を考えれば今の時代は良い時代に違いない。

が、 "家族" や "働く意味" を思うとき、

経済の高度成長にあわせて私たちが大切なものを失っていったことが、

実はコンバイン出現から始まっていたのかも知れない、とも思う。


「米がらと」、私たちの地方では「米びつ」のことをこういう。

幼い頃、お米屋さんから届けられた米を「米がらと」に移しておくように言いつけられた。

年少であろうと家事を分担することが当然の時代だった。


そろばん教室から帰ると「米がらと」の中へそろばんを突っ込んで玉の動きを良くすることも教えられた。


私たちの頃はそんなことはなかったが、6歳上の姉の修学旅行は「米持参」だった。

食べ盛りの中学生のことなど配給制度の中では考えておられないということなのだろう。


記憶はさだかではないが、実際に食べる分よりはるかに多く持っていったように思う。

戦時中とは違い、配給制度の中にあっても "やみ米" と呼ばれる自主流通米も米屋にはあった時代だ。


近年、米事情は大きく変わった。

安い外国産が市場を占有している。家電製品や車を売るために農業が見捨てられた結果だ。

米あまりがいわれるようになって久しい。


が、これも食糧自給率の低さを考えるとき、たんに農業政策の欠如を示しているに過ぎない。


農協は巻き返しを図るため、より高く売れる "おいしい米" 作りに重きを置いている。

アメリカや中国の富裕層向きに輸出することで存在感を示そうとしている。

その努力を否定するものではないが、大事な視点が欠落しているようにも思う。


気候の変動である。

近年の異常気象は看過できないものがある。年ごとに猛暑日が増加してきている。


私などは温暖化の原因については懐疑的で、

原発の3分の2のエネルギーを使って地球を温め続けていることと無関係ではないと思う。


へそ曲がりの人間は、多くの人のいう二酸化炭素増加説は操作された情報ではないかと思っている。

無論、根拠のないことではある。

が、それほどに情報開示がなされていないということだ。


私たちは学校時代、米作地帯といえば新潟を筆頭に日本海側の降雪地帯と習ってきた。

そして北海道はといえばジャガイモの産地、酪農地帯と習ってきた。


しかし、全国最大の耕地面積を誇る北海道はいま米の生産量も全国1,2を争う主産地となっている。

品種改良ということもあろうが、気候の変動も大きく影響していることだろう。


昨年、石川県の加賀市沖で南方系のカニ "トゲミズヒキガニ" が採取された。

日本海側ではこれまで鳥取県でしか見つかっていない。温暖化は間違いなく進行している。


いま "おいしい米" 作りでいいのだろうか。

気候変動に対してこの国の農業は対応できるのだろうか。

"おいしい" 以前に生産量が確保されなければならないのではないか。その上での味だろう。


農産物の産地も大きく変わってきている。やがてシベリアが米作地帯になるのではないかとさえ思う。


市場価値は米よりハイブリッドカーやナノテクノロジーの方があるのだろう。(あくまで金額的なものだが)


しかし、それらは所詮作り出された経済スタイルの一面に過ぎない。

工業技術はあるが食べ物はない。これがこの国の実態だ。


気候変動で食料価格が暴騰する状況下で、食べるものを食べないでもハイブリッドカーを

買ってくれる人がいてくれることを夢みているのだろうか。

日本の政治はあまりにバランスを欠いていないか。


気候変動、エネルギーや水資源の枯渇に耐える食料政策になっているだろうか。


避難完了の確認もせず、ベントを行なった政府を見るとき、いのちを大切にする政治とはとても思えない。


"食" の問題はいのちの問題だ。農業をはじめとする食料に対する無策は社会の存立を危うくする。

いのちを支える食糧政策がないがしろにされる政など後世の歴史の評価に耐えるはずもない。


世界では食料の奪い合いが既に始まっている。知らないのではない。知ろうとしていないだけだ。

現在、世界ではおよそ7人に1人、計9億2,500万人が飢餓に苦しんでいる。

地域で見た内訳は以下の通り。 ※WFP(国連食糧支援機関)の資料による。


アジア・太平洋地域           5億7,800万人

サハラ砂漠以南のアフリカ      2億3,900万人

中南米                        5,300万人

中東・北アフリカ                   3,700万人


飢餓に苦しむ人のおよそ75%は、途上国の農村部に住む貧しい農民だ。

残りの25%は途上国の大都市周辺の貧しい地域に住む人たちだ。

世界で都市部に住む人が増加しているのに伴い、都市部の飢餓人口が増えている。


世界の飢餓状況は深刻だ。そんな中で私たちは自分たちの食料さえ確保しようとしていない。

これは国際的犯罪ではないか。


「米がらと」にいつも米がある暮らしはすべての人が享受できねばならない。

「米がらと」から米が消えることがあってはならない。


政がなければ収穫のお祭りもなくなってしまう。




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加賀市沖で南方系のカニ トゲミズヒキガニ 

   
2011年8月12日 中日新聞


海水温上昇、冬生き延びる?


 日本の太平洋岸や熱帯の海に生息し、日本海側ではこれまで鳥取県でしか見つかっていなかった

 「トゲミズヒキガニ」が、石川県加賀市の沖合約10キロで漁船の網にかかった。


 調査した日本海甲殻類研究会の本尾洋会長は、地球温暖化などの影響で日本海の水温が上がり、

 寒さに弱いカニが冬を生き延びたとみている。 



 
 カニは10日、水深約100メートルの海底で同市の漁業大井輝夫さん(65)の刺し網にかかった。

 甲羅の長さは1.1センチ、幅1センチ弱。足を広げると8センチほどになる。

 甲羅の形やとげなどの特徴から、本尾会長はトゲミズヒキガニと断定した。


 このカニは細長い足が紅白のしま模様で、水引のように見えるのが名の由来。


 日本の相模湾から南、東南アジアからアフリカにかけた温暖な海に分布するが、

 日本海ではこれまで、鳥取県で10数年前に1匹が見つかっただけだった。


 卵からかえったカニの幼生は水中を漂いながら成長。海流に乗って長距離を移動できるため、

 トゲミズヒキガニのような南方種の幼生が石川県沖にたどりつくこともある。


 普通は冬の寒さで死ぬが、この冬の海水温は平年より1~2度高く、生き延びたらしい。

 加賀市沖では、昨年6~7月にも南方種のヒラアシクモガニが3匹捕獲された。


 本尾会長は「海水温上昇により、海の底に南方のカニが次々と侵入しているようだ。

 今後も調査を続けて分析したい」と話している。



 魚津水族館(富山県魚津市)によると、2009~2011年春に富山湾の魚津沖や入善沖などで、

 南方系のキビレカワハギやゴイシウマヅラハギ、コンゴウフグ、イトヒラアジ、

 キスジタマガシラを確認した記録があり、ほとんどが初記録の個体という。


 同水族館の伊串祐紀学芸員は「毎年、持ち込まれるケースがいくつかある」と話し、

 いずれも対馬暖流で流されてきたと推測。

 ただ、暖流に乗ってくるため、北の海ではやがて死滅するとみられている。



          ※[トゲミズヒキガニ]



           眼上棘が斜め上に突き出している。

           第4歩脚は小さなはさみ状になっており、物をつかんで体を隠す習性がある。

           岩礁底の水深30m~300mくらいに生息する。

           相模湾以南、フィリピン近海にかけて分布する。成体は甲長2cm程度。








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押しつけられた憲法____民主主義はお嫌ですか?




現在の憲法を押しつけられた憲法だという言うひとびとがいる。

戦勝国のアメリカの占領政策で作られたもので、ニホン人の意志を反映したものではないとする論調だ。


その部分のみを声高に訴え、改憲の空気を盛りあげる勢力があるかと思えば

改憲を党是としている政党もある。


いずれにしても戦前の大日本帝国憲法に戻すべしと言うことのようだ。




私は時に変人扱いされるほど個性的と言われる。

本人はいたってありきたりの生き方と思うが、確かに家づくりなどは500戸はある団地の中でも

ひときわ目を引く造りではあるし、テレビや雑誌の取材なども数多くあった。

母の葬儀も葬儀社には任せず「お別れ会」とし、企画の段階からすべてを取り仕切った。

さらに自分の「死」についても私の意志が反映されるよう手配りを済ませてある。


要するに自分のことは自分が決めるということであるわけで、誰かに指図される生き方は性に合わない。

その意味では " 押しつけ憲法 " に拒絶反応を示されるかたの想いは誰よりもわかるつもりでいる。




明治維新以降、欧米からやってきた価値観には私のようなものはどうにもなじめない。

近代、とくにデカルト以降の機械論的生命観なるものは理解できないだけではなく、強い抵抗感がある。


西洋医学は本質的にこの思想がベースにあって体をやたらパーツに分けて考えるところがある。

脳始や脳死を自分たちの都合のよいように解釈する有り様などは科学とはいいがたい。

まして死の定義もあいまいにした上での臓器移植などおよそ医療とは認められるものではない。

体は部品の集合体などではなかろう。全体として捉えなければ何も理解できないと考える。


欧米のひとたちは自然を征服することが文明だという。

ニホンに暮らすひとは自然の中にあって自然との共存を図り、折り合いをつけて生きることを考えてきた。

いのちあるものはすべてが関わり合いながら生きていることを思えば征服するという発想は傲慢で愚かに思える。


自然観や生命観という、底流に流れるものが異なれば社会制度や暮らしのありかたにも違いはでてくる。

自分たちの暮らしは自分たちの感性で設計したいと願うのは当然のことだ。


「ニホンのひとたちの心を大切にしたい」と願う点ではいわゆる右翼といわれるひととも語り合えると思っている。

伝統的なものがないがしろにされる社会は足下がしっかりしないという認識も共通している。


古来からのものを大切にといっても私がいうときは天皇が出現する以前にまで遡る。そこが大きく違う。


私から見れば天皇の出現もさほど古い話ではない。それ以前から民は暮らしてきた。

天皇ごときがニホンを象徴するとは天をも恐れぬ暴言であろう。

勘違いも甚だしい。


古より継承されてきた遺産は私たちを豊かにしてくれる。

長い歴史の中で培ってきたものが疎略に扱われることがあってはならない。

先人たちの遺した叡智を失えば私たちの未来は危ういものになる。


しかし、先人たちの想いがどこにあったのか、そのメッセージを正確に読み解けねば

意味のわからない猿マネで終わってしまう。

伝える手だては普遍性をもたなければならない。


形にこだわれば時代に残れないだけでなく、価値観の異なるひととの間にいらぬ摩擦を生ずる。

折り合いをつけられないものは決して残ることはできない。




宗教を語るとき 


     日々の言葉で

     暮らしの言葉で

     自身の言葉で語られなければならない


というのが私の持論である。

神秘主義、権威主義に陥ってはならないとの想いからだが、

普遍性、公開性のない言葉では誰とも心を通い合わすことができぬと考えるからでもある。


神秘のベールや権威に守られることに甘んじていればそれはエクスタシー以外のなにものでもない。


社会とは他者との共存である。

それぞれの想いを最大限尊重し合いながら暮らさねばならない。

そのためにこそ先人は教えを遺してくれたのではないか。

文言で語られる概念の世界に固執していては大いなる教えを理解できぬまま孤立を深めることになる。

枝葉末節に囚われず、普遍性、公開性に目覚めなければならない。


価値観の押しつけは共存を不可能にする。社会は成り立たない。

外国からも大勢のひとが出入りする現状では特に留意せねばならない。


自分の価値観を他者にも押しつけようとするひとは普遍的な言葉をもてぬひとである。


内に倒錯的対人恐怖心理を抱いているひとこそが他者に対して威圧的になる。

その暴力的な言動に恐れおののいても信望を寄せるひとなど出てくるはずもない。

結果、誰とも共存などできぬ孤独の道を行くこととなる。




憲法の押しつけは社会のありかたとして無理がある。

憲法はそこに暮らすひとが長い時間をかけて折り合いをつけてきた叡智が反映されるものでなくてはならない。

一部の人間の利益を図るものであったり、共存を妨げるものであれば破綻するのは歴史が証明している。


押しつけられた憲法がいやだというならば、

先ずお上に押しつけられた大日本帝国憲法をこそ非難の対象とすべきではないのか。

大日本帝国憲法は時の政府が国民の言論と政治運動を弾圧した中で成立したのではないのか。

民の声など眼中にない連中が勝手に作ったものではないのか。



しかし、明治憲法はニホン人の手によるものであり、外国からの押しつけは無かったという反論もあろう。


であるならば現在問題とされているTPPは何というつもりなのか。


アメリカのいいなりになってしまうということではないのか。

正確に言えばアメリカ政府ではない。

ウォール街の思惑に社会制度のすべてを委ねるということであろう。

押しつけどころではない。完全に支配されるということではないのか。


議会の決定よりウォール街の思惑が優先するようではニホンの議会制度も意味をなさなくなる。


押しつけ憲法は嫌だとさんざん煽っていながらウォール街の思惑にすべてを委ねるTPPはOKとする・・・・・

こんなインチキ発言に気づけないほどニホンのひとびとは愚かになったのか。

騙されないためには勉強しなければならない。


体制側の用意するものにドップリ浸っていたのではしまいにはこっちがフライドチキンにされてしまう。



TPPでニホンの農業を攻めの農業に転換していくという人もいる。

世界情勢を考えない、超楽観主義、希望的観測もここまでいけば哀れでさえある。

放射能汚染されたニホンの農産品、魚介類を買ってくれる国などもう何処にも無い現実に目覚めよ。


原発事故の収束もできず、世界におびただしい放射能をまき散らし続けている国が各国の人々から

どう見られているかを考えてみることだ。

世界の孤児どころではない。

死に神のように忌み嫌われている現実に気づけ !!


憲法がどうとか言っている場合ではないはずだ。


何より" 押しつけ論 " のみで世論を誘導するありかたはいかがかと思う。



私たちは見極めなければならない。

殺虫剤をやめて !! と叫んでいるのが  幼いこどもなのか、逃げまどうゴキブリなのかを・・・・・







※ 参考資料


現在の憲法が施行に移される年の1月3日に当時の総理大臣吉田茂はマッカーサーから

次のような書簡を受け取っている。




       親愛なる総理


        昨年一年間の日本における政治的発展を考慮に入れ、


              新憲法の現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を加え、


              審査し、必要と考えるならば改正する、全面的にしてかつ永続的な自由を保障するために、


              施行後の初年度と第二年度の間で、憲法は日本の人民ならびに国会の正式な審査に


              再度付されるべきであることを、連合国は決定した。


              もし、日本人民がその時点で憲法改正を必要と考えるならば、


              彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、


              国民投票もしくはなんらかの適切な手段を更に必要とするであろう。


              換言すれば、将来における日本人民の自由の擁護者として、


              連合国は憲法が日本人民の自由にして熟慮された意思の表明であることに


              将来疑念が持たれてはならないと考えている。


              憲法に対する審査の権利はもちろん本来的に与えられているものであるが、


              私はやはり貴下がそのことを熟知されるよう、連合国のとった立場をお知らせするものである。


              新年への心からの祈りをこめて


                                                                    敬具     

                                                                    ダグラス・マッカーサー



このマッカーサーの書簡に対する吉田茂の返書



             親愛なる閣下


            一月三日付の書簡たしかに拝受致し、内容を仔細に心に留めました。


                                                                    敬具     

                                                                    吉田 茂



日本政府も国民も、施行後2年目の1949年5月3日までに憲法の改正をしなかった。

改憲派がよく持ち出す押しつけ憲法論はいささか苦しくはないか。






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ガラス細工の地球



今、人々はある意味で呪文をかけられている。


「地球温暖化防止」「省エネ」「節電」という言葉がすべてに優先される空気に包まれている感がある。

原発事故がことさらこの空気を濃いものにしている。


無論、どれも大事なことには違いない。

しかし、本質を見誤って目先の対策に右往左往していても未来は見えてこない。


地球温暖化防止と言われれば、

「二酸化炭素を出さない原子力発電が有効である」という言葉に騙されてしまう。

裏にもっと大きな問題が隠されていることも知らずに。


標準的な原発では1秒間に70トンの海水を7度温めて海に流しているという。

原発のエネルギーの三分の二を使ってだ。これは発電所ではなく、湯沸かし所だ。

これが日本だけで54基あるという。


温暖化防止というが、これこそが温暖化の根源にある問題だろうと素人ながらに思う。

これで海水が温まらないと考える人がいたら科学的根拠を示すべきだ。


こんな事を世界中で行なっていれば気象に影響も出るだろう。

放射能の問題がクリアされたとしても、

津波対策がなされたとしても「湯沸かし器」の本質は何も変わらない。


私たちはしっかりと現実に目を向けるべきだ。

「部分」の議論でよしとする雰囲気に引きずり込まれてはならない。



ご多分に漏れず、原発もまた後のことを何も考えないで突っ走った。

子孫にツケを残さないために今、財政再建が必要だと主張していた与謝野氏は「日本原子力発電」出身として、

核廃棄物の処理をどう考えていたのか。


処理を子孫に託して毎日毎日せっせと核廃棄物を作り続ける現状をどう言い訳するのか。

まずは足下の問題を片付けてからにして欲しいものだ。


放射能を撒き散らさないエネルギーが求められている。

識者も風力だ、太陽光だ、地熱だと言っている。

その方向が正しいのか、別の選択肢があるのか、門外漢の私にはわからない。


私の視点は別の所にある。

どんなエネルギーであれ、人類が無制限に消費してよいエネルギーが存在するのかということだ。


人間のエゴを優先し、自然界の調和を乱せば、やがて動的平衡を保とうとする自然界から

それに見合った様々な反動を受けることになる。



私たちの体は分子から成り立っている。

しかも、絶え間なく外界の分子と入れ替わっている。


私たちの体は単に分子の「よどみ」のようなものでしかない。

外界の変化はすぐさま生命の危機に直結する。

いや、外界という概念そのものが意味をなさない。

内も外もない。私たちは自然界の働きの中に浮かんでいるに過ぎない。


「自然を征服する」というのはあまりに人間中心的な発想であり、

意のままにされているのはむしろ私たちであると認識しなくてはならない。


「自然を愛する」という言い方自体、私たち自身が「自然」そのものであることを忘れている事を意味する。


私たちは「我--汝」「我--それ」と言う概念などない「ひとつ」の世界に生きている。

長い時間をかけて互いに折り合いをつけて保たれている精妙な均衡の世界に私たちは息づいている。

自然界全体の調和が崩れることは死を意味する。


部分的な視野しかない人々は、自分の関心事にのみ反応する。

風邪で発熱するとすぐに熱を下げようとする人がいる。医師であってもだ。

すぐに座薬を処方する外科医の如何に多いことか。


しかし、熱を下げれば白血球の働きが弱まり、かえって症状をやっかいなものにする。

ちゃんとした医師なら安易に解熱剤を処方せず、経過を観察する。


西洋に発した近代文明というのは効率を求める故か、民族性の故か、部分的な思考が好きなようだ。

薬草から自分の好きな成分だけを抽出して薬とする。注目しない成分は無いことにしてしまう。

しかし、その成分に大変重要な働きがあることを後になって知る。


部分的な思考で生命をとらえ、宇宙を語るのは真理探究の妨げになるだけでなく、

私たちの生命を危険にさらすことになりかねない。


デカルト以降特に顕著になってきた機械論的生命観・宇宙観が私たちの存亡に大きく影を落としている。

「インフルエンザワクチンや多くの抗生物質」「移植医療」「遺伝子操作」「生殖医療」「農薬農業」・・・・


どれも「自然を征服する」と言うような発想から始まっていると思われるが、

問題点続出で隘路にはまり込んでいる。


人体でどのように電気が発生するかも満足に説明できない連中が「移植医療」とは・・・

何とも恐ろしい事である。


分子生物学者福岡伸一氏は人間の体に部品というものなど無いという。

仮に人の顔から嗅覚のパーツである鼻を体から切り離し、別の体に移植しようしても

すべてがつながっていて、結局は体全体を取ってこないと機能の移植は出来ないという。
           



これは人体に限ったことではない。自然界に孤立した箇所、部分など無い。

一部分の問題と言うことはあり得ない。必ず全体の問題となってくる。

一方の効率の良さは全体を非効率なものにし、平衡状態を乱してしまう。



私たちは先ず自然界のしくみ、関わり合いかたを学び、仲間に入れてもらう謙虚さが必要だ。

この地球はガラス細工のようにもろい。






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カタログの読み方



研がずに使える包丁があったらどんなに楽だろうと思った。

果たしてそういうものがあった。


広告には


「研がずに使える」


「切れ味は、メーカーによって20年間保証されています。

 その間に、正当な理由によって切れなくなる事があれば、無料で交換します」とある。


値段は安いとは言えないが、研がなくて良いというのは魅力だ。

いつでも交換に応じるのもメーカーの自信だろう。

早速、購入した。


が、そのあと私はカタログの読み方を勉強し直すことになった。

よく見ると、広告には「切れ味がいい」とは一言も書いていない。


「切れ味は20年間保証」を「切れ味がいい」と解釈したのは私の思い込みだ。勝手な早とちりだ。

「切れなくなる事があれば・・」は「購入時よりも切れ味が落ちたら・・」の意味だ。


購入時と同じ切れ味であれば、消費者が「切れない」と感じても交換に応じる必要はないと言うわけだ。

広告文にはひとを錯誤に陥れる悪意の痕跡はない。

せいぜい、こういう広告には気をつけなさいと言うことだ。


そんなわけで、今は打刃物の包丁をせっせと砥石で研いでいる。




私のオーディオ歴も20年を越えた。

オーディオの世界でも上記の包丁と同じような事が多々ある。


オーディオ雑誌やカタログにはいわゆる評論家と言われる人々の論評が掲載されている。

機種選びをするときの参考になる・・はずなのだが、

どうもこれを鵜呑みにすると「印象が違う」ということがよくある。


専門家のプライドもあり、決して間違ったことは書いていない。

しかし、慣れてくると書かれていない項目があることに気付くようになる。


評論家もメーカーあってこその立場であるわけで、

メーカーの「売り」の部分にはスペースを割くが「もうひとつ」という箇所については語ろうとしない。


後年になって、


「今度の新製品はあのときの弱点を克服した 素晴らしい」と、なるのだ。


だからといって、評論家を責める人はいない。

オーディオが趣味と公言したからには「眼力」の無いことは恥ずかしいことだからだ。

安い買い物ではない、「眼力」の無い人は立ち入るべきでないのだ。十分に耳を養ってからにすべきだ。




エネルギーの選択についても市民は賢くなければならない。

専門家、政治家が推奨しようが、問題点を検証できる「眼力」が無ければ騙されることになる。

見せかけだけのコストを見せられ、背後にある膨大なコストを見逃しては、

そのツケで自分たちが苦しむ羽目になる。


「CO2は出さない」からといって、温暖化防止になるとは限らない。

原発は紛れもなく、巨大な「湯沸かし器」であって、海水を温め続けている。


太陽光や風力も同じように検証していかないと原発の轍を踏むことになる。


詐欺の被害に遭った人はその後何度でも被害に遭うものだ。

資本家は自分たちの利益のためには他人を言葉巧みに騙し続ける。




育ちの悪い、ひねくれ者からの言葉です。


    騙されないためにこそ勉強しよう。 知識がない者は他人に利用されるだけだ。








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騙されてはならない




似非資本家は市民を欺き、食い物にするという構図は昔も今も変わりはしない。

この図式が人々を戦争にまで引き込んでいくことを忘れてはならない。


原子力マフィアという犯罪者集団が呼びかける「絆を大切に」の言葉に騙され、

根本原因の排除を疎かにすることがあってはならない。


「痛みを分かち合おう」と呼びかけられて何故、健康な人が新たに被曝させられなくてはならないのだ。

「福島を応援しよう」と言って福島産の食物を食べていた女性が

異常に進行の早い脳軟化症(痴呆症)になったことが紹介されていた。


痛みを分かち合うという言葉に酔いしれて自らを危険にさらすことは

単なる殉死でしかなく、何の解決にもならない。

B29に対して竹槍で立ち向かおうとした国防婦人会の発想に通じるもので、

自虐的かつ非論理的な精神主義でしかない。


騙されてはならない。

自分と愛するひとを護らなくてはならない。






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パロディーが通じない____非常に危険な時代



" 朋よ --- We shall overcome " をアップロードした直後に予感のようなものはあった。


何時間か経って、案の定というようなメールが届きだした。



     剱さんって詩人ですね


     表現が古風ですね


     ええ 人間が古いものでして



とお返事しておいた。


辞書などでは「パロディ」は、他の芸術作品を揶揄や風刺、批判する目的を持って模倣した作品、

あるいはその手法のことを指すとある。


しかし、実際は元の作品を対象とするよりは元の作品を借りて社会を風刺する技法として使われることが多い。

ひねくれ者の私には欠かせない技法ではあるのだが、、、、、、


「しゃれ」、「パロディー」、「オマージュ」が成り立つ前提として

「元の言葉」、「元の作品」が双方の共通認識である必要がある。


携帯でメールやゲームを楽しむ世代に文学作品や大衆芸能はどこまで受け継がれているのだろうか。


山田洋次は「男はつらいよ」の中に名画へのオマージュと見てとれる場面を数多く散りばめている。

落語、おとぎ話など語り継いでほしい作品もうまく挿入している。


殺伐とした社会、無機質な作品に対する風刺や抵抗と言えるわけだが、

これを受けとめるにはかなりの素養がこちら側にも必要となる。


私自身、どこまで理解できているかいささか心許ない。


しかし、「しゃれ」、「パロディー」、「オマージュ」を素通りすることだけは避けたい。

教科書に載っていたり、試験問題に頻繁に用いられるものぐらいはついていきたいものと思っている。


浸透していないからつかわないということになれば文化の継承などあり得ず、人は限りなく幼児化してしまう。

つかっている間に理解できていく、我々はそうやって言葉を覚えてきたのではなかったか。


カタルを心配しなければならないほど先人たちの遺したものを吸収したからといって、

精神科を受診しなければならなくなった人など聞いたこともない。


むしろ、先人たちの遺したものに対する無知や無関心こそが現代を生きるうえでの障害となる。


生活様式は時代とともに変化してきてはいるが、社会の基本構図はそれほど変わってなどいない。

持っている者はさらに持とうとし、持たざる者から搾取する。

権力者は自分に都合のよい「真実」しか語らず、大衆を利用することしか考えない。


先人たちはその思いや叫びを作品の中に多く遺している。

粗略にすれば我々は道しるべを失うこととなる。


初出1951年の清沢哲夫の詩が室町時代の一休の作とされたり、

吉川英治の小説が史実として名刹の観光案内に平然と利用される時代にあっては

大衆を騙すのはいとも簡単ということだ。



     清沢哲夫の詩

     http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week19/index.html#entry-76444792

     http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000028008 
                     


     某名刹

     http://www.b-model.net/daisen-in/ikinodojyo.htm



                 「沢庵漬けで広く知られた七世沢庵宗彭和尚は、

                  紫衣事件で徳川幕府に抗弁した人であり、

                  また書院「拾雲軒」で宮本武蔵に剣の極意を授けたともいわれています」


                     とあるが、沢庵と宮本武蔵が出会ったというのはあくまで吉川英治の小説

                   「宮本武蔵」の中の話であり、吉川は自身の創作であると語っている。


無知や無関心こそが我々を犠牲者、被害者にしてしまう。


為政者や資本家は自分たちに都合のよいロジックを作り出す。

いつの時代もこれは変わらない。


周りの国は戦の準備をする国であり、そして、いつの戦争も被害者となるところから始まる。

大衆はそのように信じ込まされる。


大きなまなこを見開けば騙しの兆候は至る所に散見できる。

先人たちはその手がかりを数多く遺してくれている。


     検察は正義である


     政府は我々の暮らしをよくしてくれる


     メディアは中立である


などという幻想から人々は解き放たれなくてはならない。


パロディー や オマージュ が通じなくなっている時代、これは「不勉強の時代」であり非常に危険な時代である。






※  高村光太郎
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%91%E5%85%89%E5%A4%AA%E9%83%8E






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文字の關


狩谷えき斎(※木偏に夜)の歌


「文字の關まだ越えやらぬ旅人は道の奧をばいかで知るべき」

                              (簡野道明著「字源」より)

                                                                  ※木偏に夜 = 因みに ねむの木 のこと


                              ※關=関


*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*



[官]
   字源

  「大勢の人が集まった家屋」の意で「館」の原字。

   春秋時代に、諸侯などが、家柄によらず「食客」を自分の館に集めたことが官のルーツとなる。


   意義

   支配者につかえて、その指示の下、民衆への支配を補完する人。役人、官僚、官吏。

   おおやけ。


どの辞書を引いても「官」は「役人」である。

最近、多くのメディアで「試験官」「面接官」なる言葉が乱用・誤用されている。


国立機関の試験であれば、その立会人は「試験官」である。そこで面接をするのは「面接官」である。

国立機関の職員は国家公務員であるわけで、間違いなく「官」である。


問題は私学の場合や民間企業での試験、面接の場合だ。

多くのメディアではさかんに「試験官」「面接官」といっている。


先だって、食品衛生月間のニュースが流れた。

アナウンサーによると「民間検査会社の検査官がある企業を訪れた」そうだ。


民間の検査会社に「検査官」はいないはずだ。指摘をしたのだが指摘の意味すら理解出来ないようだった。

日本人の日本語力は外国からの留学生たちよりはるかに劣っている。


何故役人でもない人物を「官」と表現するのか。私にはまったく理解できない。


辞書を引く習慣の無いひとたちか、あるいはよほど語彙の貧しいひとたちと思う。

メディアの入社試験には「日本語」はなかったのだろうか。こういう放送局には辞書すらないのだろう。


小学校で英語もよいが、まずは母国語をしっかり身につけてほしいものである。


私の高校の恩師、「八田有親」は帝大・広島文理大学哲学科をでられたかたで、

言葉にはとりわけ厳しい先生だった。

上記のような間違いをすればまず1時間は絞られた。


狩谷えき斎の歌にあるように言葉の意味を押さえないではものの本質に迫れるはずはないからだ。

おおよそ言いたいことが伝わればよい、という安易な考えでは大目玉を食らうだけだ。


100点満点の書き取りでマイナス100点という男がいた。

すべて空欄のままであれば0点で済んだのだが、

間違った字を書いたがために両方の字を知らないと評価されたのだ。

それほどに厳しかった。


先生の発問にちゃんと答えられないと言って叱られ、質問しないと言って叱られた。

50分の授業で10くらいの質問を準備しておかないと安心できない毎日だった。

徹底的にシゴカレタ。そんな思い出しかない。


          「発問」:「問いを発すること」言う側は分かっていて相手に問うこと

                 教師から児童・生徒への行為

                 先生は質問しない


          「質問」:「疑問点を問うこと」分からないことを分かっている側に問うこと

                 児童・生徒から教師への行為


卒業間際の私の作文の点数は何とも屈辱的な8点だった。そのショックはいまだに引きずっている。

後年、「10点満点だったのでは?」と慰めてくれる人もあったが、

作文の試験は満点でなければ0点も同じことだ。

八田教室では言わずもがなである。


法務省はさすがに文言に関してはきちんとしている。

「裁判員制度」の裁判では「裁判官」と「裁判員」が裁判を行なうとなっている。

言葉遣いとしては至極当然だろう。


法律や外交文書が「だいたい」では済まされないことは誰が考えてもわかることだ。

文言のひとつひとつに深い意味がある。それが文化というもので、決して粗略に扱うべきではない。


そもそも学問をするということは「言葉・文言」の定義をする事だと言い切ってもよい。


「生物」とは何か、「無生物」とは何か、「有る」とはどういうことか、「無い」とはどういうことか、

これらをひとつひとつ押さえていくことが学問のはずである。


物事をしっかり見極めるひとが少なくなっている。


言葉・文言に対して非常にラフになっていることを思えばうなづけることだ。

これでは他人にいいようにされてしまう。


「詐欺の被害は騙される方が悪い」という言い方も確かに事の本質を言い当てている。


いいかげんさにつけ込まれるわけで、

本質を見極めようとすることがクセになっているひとには詐欺も容易には近づけない。


政府もメディアも怪しげな情報ばかりの昨今である。

言葉・文言の定義をあらためて勉強しておかないととんでもない世界へ連れて行かれることになる。





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最も危険な日々を私たちは迎えています


社会が特定の勢力で歪められています。

原子力マフィアはその資金力で政治家を買収し、学者を飼い慣らし、メディアを乗っ取っています。

事故は収束していません。「福島」は終わってなどいません。現在進行中です。危機も去っていません。


様々なエネルギーが語られてよいとは思います。

が、利用する面だけではなく、環境負荷も同時に論じて欲しいものです。


核エネルギーを語るなら事故をきれいさっぱり解決し、

廃棄物の問題もすべてクリアーしてからにして欲しいものです。


福島はいうまでもなく、チェルノブイリも終わってなどいません。

核の傘理論も破綻しています。福島もチェルノブイリも核戦争と同じ結果が起きています。

政治家は机上の空論をもてあそぶべきではありません。

現状に目を向けず核を議論のテーブルにのせること自体、あってはならないことです。




活断層再調査、一見すると安全の確認であり廃炉させるためのステップとも見えます。

はたしてそうでしょうか。そういう思惑通りに事は運ぶでしょうか。


再調査を求めることはある意味、原発存続を前提とした動きととられてしまいます。

あらゆる戦術で、、、の気持ちはわかりますが、「活断層ではない」と結論されたときどうするのでしょうか。

原子力マフィアは必死になって活断層ではないと言い続け、原発存続を画策するでしょう。

大飯をめぐる発言を見ればよくわかることです。


「活断層があるから危険」それはその通りですが、原発反対の根拠をそこにおいていると

「活断層ではない」と結論されたとき反対の根拠を失います。

やはり正攻法でいくべきと考えます。核のゴミ、温排水の環境破壊等をこそ取り上げるべきです。

それに活断層再調査の費用は消費者にまわってくるわけでこれも困ったものです。


「即刻、廃炉に!!」これでよいはずです。


安全ならばいいでしょ・・・という敵の用意する土俵に引きずり込まれてはなりません。

活断層再調査は原発存続のための世論対策に過ぎません。


活断層であるか否か学者の最終確認を待つ必要もありません。

学者同士の論争は将来にわたって好きなだけやっていただけばいいことです。


大切なことはいのちと暮らしを預かっている「政とは何ぞや」ということです。

誰のための何のための政かをわきまえているかどうかです。


政にグレーゾーンはありません。政に携わる者が心しておかねばならないことです。

白でなければ黒と判断すべきなのが政です。学問的探求の世界ではありません。


原子力マフィアを一掃しなければ何も変わらないと思います。

彼らはモグラたたきのモグラです。

すでに「活断層であっても・・・」などと予防線をはっています。

手を替え品を替え原発の存続を図り続けるでしょう。




原子力利権は言葉を換えればアメリカ利権です。

脱原発を叫んではいても一方でTPPを推進しようなどという。まやかしの極みです。


原発、TPP、消費税増税、郵政民営化・・・根っこにあるのは対米隷従です。

アメリカというよりユダヤ金融資本というべきですか。

さらに対米隷従の象徴、オスプレイの問題さえあります。


私は政治家はじめ多くの人の認識が低いことを思えばTPPの方が原発以上に怖ろしいと見ます。

市場を開放するのはよいことだという論調があるのには危険なものを感じます。

全世界が相手の話ではないことが議論から欠落しています。


これはブロック経済であり、アメリカの植民地政治の最たるものです。

同時に軍事ブロック化でもあります。


原発を押しつけ、郵政民営化で国民の富を奪い、最後はTPPで国ごと乗っ取る、

こんな図式が見えないような人間を政治の場に送り込んではならないと思っています。


しかし、敵は自民党や菅・野田民主党ではありません。

財界、官僚、メディアであり、それを操っている赤坂の勢力です。

さらに言えばいいようにされている人々の無知、無関心です。

愚民政治の集大成ともいうべき最も危険な日々を私たちは迎えています。


さいわい現代はネットで情報や意見を発信できます。フルに活用しメディアに対抗していきましょう。








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原発に手を出すな

東芝がモンゴル核燃料処分場構想を進めているという。



この連中はまだ懲りないらしい。

日本国内、いや、世界各地で行き場を失っている核のゴミ。

学者や産業界は最終処分について何の答えももたぬまま、

核エネルギーに依存してきたし、今後も依存するという。

まともな精神状態ではない。「狂気」としか思えない。



「処分場」というのは「処理」をするところではない。

放射能を除き、無害化すろところではない。

最先端技術のいきつく果てが、ただ置きっぱなしにするだけとは、いやはや大変な科学技術である。



ある友人が、痴呆状態となった姑が "汚れた下着" をあちこちに隠して困っているとこぼしていた。

本人は忘れてしまって表面上は今までと何も変わらないそうだ。



     病気なんやから せめることもできんし



友人は作り笑顔を見せていた。



科学技術の粋を集めた「原子力事業」の関係者がゴミをあちこちに隠してまわっちゃいかん。



     せめることもできんし



とは誰も言ってはくれない。



遠いところに棄てて、後ろも見ずに逃げ帰ってくる姿は、



     うちじゃ 飼えないからね !!



と叱られて、捨て犬をまた原っぱにもどしてくる少年のようだ。

少年のほうは何処か哀愁も漂うが、核廃棄物となると哀愁などと言ってはいられない。



恩恵を享受した人間たちが責任を持って、無害化し、自然をもとどおりにしなければならない。

猫だってトイレの砂の後始末はちゃんとしている。

できないのであれば端から危ないものに手を出さないことだ。即刻やめるべきだ。



東京よりも人の少ない福島なら交付金ひとつで黙らせてみせるさ・・・そういって始まったはずだ。

その手もだんだん効かなくなってきたら、こんどは草原の国モンゴルに押しつけるという。

ひとをいったい何だと思っているのだ。

     貧乏人は金さえ見せればいうことをきくさ



そんな卑しい発想しかできない後輩を田中久重氏や土光敏夫氏は今頃どう見ているだろうか。



                   
                  ※

                  田中久重(からくり儀右衛門)  東芝創業者


                  土光敏夫 IHI社長、東芝社長、経団連会長を務めた








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博打(ばくち)___背広を着た博徒が仕切る社会



     だんさん わしゃあ こんどという こんどは こりやした


     だんさん にも えろう しんぱい おかけして しもうてからに・・・


     にょうぼ こども にも にげられてもうて もう なぁんにも のうなりやした


     きょうかぎり ばくちとは すっぱり えんを きりやす


     いやぁ そないいわれると かえす ことばも あらへんけど・・・・・・こんどは ほんまです


     だんさん こんどこそ こんどこそ ほんまですて


     だんさん うそや あらしまへん なんなら かけても ようござんすよ


     &%#$&??%%?&&#$




     いつまでも こんなもん もってるさかい あかんのやな


     この さいころが わいを だめにすんねん


     よっしゃ ここの ながれに ほかしたろ   えいっ こんなもん


     これで さっぱりしたわ


     ああ ながれて いきよる・・・ んっ? ありゃあ ちょうやろか? はんやろか?




それほどに博打というものは、一度味をしめると容易には抜け出せない。耽溺性の強いものだ。


          ※ 刑法 第2編第23章 賭博及び富くじに関する罪

            第186条

            常習として賭博をした者は、3年以下の懲役に処する。

            賭博場を開張し、又は博徒を結合して利益を図った者は、

            3月以上5年以下の懲役に処する。




よく Paternalism を語るときに刑法第186条がいわれることがある。

成人した大人が博打するのはそのひとの自由であろうという考え方だ。


しかし、 Paternalism にあたるかは、

その行為が本人の自由意志によるものであることが大前提となる。


制限行為能力者(昔は禁治産者という言い方もあった)のように判断能力のないひと、

心神喪失や心神耗弱の状態にあるひと、

耽溺状態から抜け出せないひと

etc は自由意志があるとはいいがたい。


Paternalism の指摘はあたらない。


                   ※ Paternalism(パターナリズム)


                     強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、

                     本人の意志とは関係なく、行動に介入・干渉することをいう。

                     日本語では家父長主義、父権主義、温情主義などと訳される。




ひとには「死」を選ぶ権利はないのか? 

延命治療の是非を問うときに必ずいわれることである。

医師をはじめ、誰ひとり簡単に「答え」を出せる人などいない。難しいことだ。


しかし、「治癒する見込みがまったくなく、激しい苦痛しかない」という状況でなければ

安易に「死を選ぶ権利」などと言われてはならない。


自死を選ぶひとの多くは精神面や経済面で「追い込まれた」状況にあると考えられるからだ。

自由意志とはいいがたい行動であれば Paternalism を論ずることに意味はない。


精神的にも経済的にも弱い人々を追い込んでいく賭博専門集団にPaternalism を論ずる資格はない。


市民が生産的な業務に就かず、賭博に浸ることがあれば社会は成り立たない。

その意味で国家権力が個人生活に介入するのには正当性がある。




しかし、だからといって何から何まで制限される社会は窮屈だ。

生活に支障を及ぼさない、

社会通念上許されるようなささやかな「賭け麻雀」にまで国家権力が介入すべきとは思わない。


ただし、同じ事であってもその場所を提供することを業務としている場合は話は別である。

あくまで個人の趣味の世界であるべきだ。


賭博の定義からすれば「ジャンボ宝くじ」もそれにあたるわけだが、

その時のみに大勢の人が行列を作ることを考えれば所得再分配の問題や税制の不合理を反映しているともいえ、

賭博の問題とは切り離して議論すべきだろう。


所得が適正に再分配され、税制を含む社会制度が市民の納得のいくものに是正されれば

ジャンボ宝くじに夢をたくす必要もなくなる。政治の貧困、混乱が生み出している社会現象と見てよい。


ただ、年中行なわれるロトくじと呼ばれているものは市民を耽溺状況に引き込むものであって

非難されるべきであろう。


                  ※ 賭博

                     金銭や品物などの財物を賭けて偶然性の要素が含まれる勝負を行ない、

                     その勝負の結果によって賭けた財物のやりとりをおこなう行為。


常時開催されている公営ギャンブル、パチンコなどは市民を耽溺状態に引き込むもの

であり社会の存立を脅かす。

耽溺状況に陥れ、生活を混乱させた博打の "あがり" で社会基盤を整備しようなどとは本末転倒も甚だしい。


野球賭博で大相撲界が揺れた。バカラ賭博で盛り場のクラブが摘発された。

その一方で競輪、競艇、競馬、オートレースが行なわれている。公営カジノまで検討される昨今である。

国家は相当苦しい言い訳を用意しなければならない。




60年安保の時に時の政府は治安維持のためと称してやくざ・博徒の組織にすり寄った。

いざというときに「暴力装置」としての役割を期待してのことだ。


「法」は本質的には暴力である。違反する者には警察権力が市民を拘束する。


治安が乱れたとき警官だけでは対処が難しいと考えた政府が頼ったのは右翼、暴力団、やくざ、博徒である。


また、権力者は憲法で保障された「集会の自由」を右翼団体を使って市民から奪っている。

警察までがそれに荷担している。


そんなこともあって表向き賭博は規制をし、ときには処罰もするが半ば黙認状態にあるのが社会の実態だ。

博徒・笹川一家は看板を替えて今日に至っている。現在では「公益法人」だそうな。

ずいぶんと出世したものである。


市民を働かすだけ働かせ、わずかな収入をも賭博に引きずり込んで奪ってしまう手口は

ならず者のやり方である。

堅気の衆にはいっさい手出しはしなかった昔の任侠道のほうが紳士にみえるのも皮肉な話だ。


こういう背広を着た博徒たちが日本の政治を握っている。

日本1,2の大都市の首長がともにカジノ構想を打ち出す背景もそんなところにあるのだろう。

奇しくも二人とも教職員に日の丸・君が代を強制している国粋主義者である。


背景にいる今日の博徒は昔の仁義に篤い「任侠道」とは似て非なる者で、金のためなら右も左もない。

一応は社会主義を標榜する国にさえ、その資金が流れているともささやかれている。


何が何だかわからない。

鶴田浩二ではないが、何から何まで真っ暗闇。すじの通らぬことばかりである。 








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Paternalism社会


     「住宅用火災警報器の設置が義務付けられます。

      改正消防法が交付され、 2006年6月から、

      すべての住宅、アパート、共同住宅に火災報知器の設置が義務付けられます」




こんな大げさなPRがなされ、消防法が改正された。

しかし、これはいったい何のための法律なのか、誰のための法律なのか、まったくわからない。

何も考えようとしない従順な市民は率先して従い、達成化率を競っていたりもしている。


     「国が決めたことだから(お上の言うことだから)」

     「アメリカでは、1970年代から、住宅に火災警報器の設置を法律で義務付けており、

      火災による犠牲者を半減することに成功している、そうだから」




んっ? 本当にそうか? 何かおかしくないか。

私は単なる景気刺激策にしか思えない。

業者の利益を図ることが先にあり、市民はだしにされているのではないか?

アメリカでは・・・といわれるとすぐに従順になってしまう議員や市民がいかに多いことか。


そもそも火災警報器とは火災を防ぐためのものではない。ここは大事なポイントだ。

防災の基本から言えば、火災を起こさないことが先に語られなければならない。


消火器の設置を論ずることが無く、いきなり起きてしまった火災についていうのは

消火器業界よりも家電、防災機器業界の陳情が功を奏したと言うことか。

まことに不可解な法改正である。

へそまがりはここでも産業界と霞ヶ関の癒着を疑ってしまう。


確かに無いよりはあったほうがいいとも言える。

しかし、消防署に直結していないシステムにいったい何を期待できるのか。


気密のよい住宅が増えてきている昨今である。

隣家にすら聞こえないものを火災警報器と認めることには強い違和感がある。

こんな中途半端なものが法令の対象になるとは審議をした議員たちの見識を疑う。


「シートベルト装着義務」と「住宅用火災警報器の設置義務」の背景に保険会社の影を

感ずるのは私だけだろうか。ともに Paternalism ※の典型であると思う。



               ※ 余計なお節介、父親的干渉(語源はラテン語 pater[パテル]父の意 から)




車に乗る場合、同乗者の安全を図ることは運転者の義務であろう。

法律以前の問題だ。


だが、自らの意志でシートベルトをしないからといって誰に迷惑がかかるのか。

事故は起こして欲しくはないし、いのちを大切にして欲しいとは願う。


ただ、法で強制すべき事なのかということだ。

意に反して損害をこうむるのは保険会社である。

ここの被害を少なくしたいのが本音ではないのか。


火災警報器についても同じ事がいえる。有害なものなら全員が否定しよう。そうでないだけに意見は分かれる。

しかし、「法」という規制をかけるにしてはあまりに中途半端な代物だし、

ましてひとり暮らしの住まいにまで適用するともなれば Paternalism のそしりは免れないだろう。


社会の構成員が減少するということについて国家が無関心でいられない、

ということについてはわからぬでもない。


が、それで Paternalism を認めていたら、この国はファシズム国家になってしまう。

何から何まで将軍様が決めてくださる国と何も変わらないことになってしまう。


消防署に直結しなければ、違反であれ、我が家には設置の計画はまったくない。

台所をIHにしたばかりでなく、暖房も深夜電力の蓄熱暖房機だ。

火災を防止することが目的であることはいうまでもない。


加えて狭小住宅であるにもかかわらず、10キロの消火器を1Fと2Fにそれぞれ1本設置してある。

火災を起こさないことを最大の安全と考えている。

またすべての方向に避難が可能な造りとした。


あらゆる火災対策をとろうともせず、火災警報器だけを義務づけるとはあまりに露骨な産業育成策ではないか。

消火器の無い家にも火災警報器が設置されている。これは立派な「珍百景」である。



     ※ 消防法第九条の二  

      住宅の用途に供される防火対象物


     (その一部が住宅の用途以外の用途に供される防火対象物にあつては、

      住宅の用途以外の用途に供される部分を除く。以下この条において「住宅」という。)


      の関係者は、

      次項の規定による住宅用防災機器


     (住宅における火災の予防に資する機械器具又は設備であつて政令で定めるものをいう。

      以下この条において同じ。)


      の設置及び維持に関する基準に従つて、住宅用防災機器を設置し、及び維持しなければならない。


      ○2

      住宅用防災機器の設置及び維持に関する基準その他住宅における火災の予防のために

                     必要な事項は、政令で定める基準に従い市町村条例で定める。






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手袋をしていませんか




    おやくにんさまぁ  お おねげぃで ごぜいやす おねげぃで ごぜいやす


    えぇぃ はなせ!


    そんでは おらたち ひゃくしょうは いきていけねえだ おねげぃで ごぜいやす


しかし、役人は稗や粟も満足に食っていないというその百姓の言葉を嘘と見破った。


    た たわけ!  


(あれ! 台詞が違う アドリブ?)


    カット! カット!



監督も役人も吹き出して止まらない。

百姓は昼ご飯をかき込み、急いで出番に駆けつけたのだ。

稗や粟も食っていないという水呑み百姓の口から弁当のご飯粒がこぼれてはまずい。

実際の役人でなくとも嘘は見破れる。


が、簡単な事を見破れないひとも多い。

浜岡原発を止めた菅某の言葉は実に老獪だ。


まず、これは命令ではなく要請である点だ。

結果について政府として責任はとりませんよ、と断っているのだ。

その及ぼす効果たるや重大なものがある。

にもかかわらず、「最終決断は電力会社でなさったんでしょ」ということだ。


廃炉を政府として命令したなら評価されてよい。

しかし、言ったのは防波堤の工事が完了するまでの一時停止に過ぎない。

これは原発政策継続を宣言したと解釈すべきで、反原発市民運動の人々が喜んではならないことである。


反対派を黙らせるために力でねじ伏せる手法をとる人間は最近ではあまりいない。

たいていの場合は軌道修正を装う。商売でいうなら「負けてくれる」わけだ。

値引きされて喜んでいる愚かな消費者はそれでも十分すぎるほどの利益を上げている

ことなど疑ってもみない。


もっと賢くならなきゃ!! 周りには悪い人がいっぱいいるんですよ。


これだけの事故が起きたのだ。再生可能エネルギーについて異論のある政治家などいるわけがない。

「脱原発」を掲げて政界再編を・・・と反原発のジャンヌダルクを装っても馬脚が現れているのだ。


ついこの間まで、我が国は原発推進で行くのだと言い、輸出に前向きだったのは彼自身ではないか。

「脱原発」が選挙の争点になどなるわけがない。正面から原発推進と言い出す政党などあり得ない。

あり得ないことを承知で大見得をきってみせる。まさにペテン師の真骨頂と言うべきだろう。


原発政策は自民党時代に始まったわけで、菅内閣だけに責任があるわけではない。

しかし、事故対応については明らかに菅政権の失態である。

真相の隠蔽、国民を騙す会見は憲政史上例を見ないほど悪質な政府である。


とりわけ住民の避難を確認しないまま行なったベントは「未必の故意」にあたり、

刑事罰をもって糾弾されなければならない。住民被害は甚大だ。


浜岡原発は目くらましに使われた。

ひとびとは浜岡を止めた菅某を何故評価したのか。


地震の被害が想定されるからだという。 ???  そんなんで納得してていいのか。

福島原発事故が地震の確率0.1%の所で起きたことを忘れていないか。


これは日本中すべてが危険地帯であるということだ。

浜岡より先に地震に見舞われる所も無いとはいえない。現にあった。


大きなものに注意を向けさせ、それに対応してみせる。いかにも脱原発を演出してみせる。

これは典型的な政治パフォーマンスでしかない。他の原発はお構いなしではないか。

そんなことで政治家を評価していたら気づいたときはこっちの首が切り落とされているだろう。


しっぽが出ていないか、毛むくじゃらな手を隠す手袋をしていないか、眉につばをつけて見極めねばならない。

もう一回いう。もっと賢くならなきゃ!! 周りには悪い人がいっぱいいるんですよ。


大阪の商人T氏がよく口癖のようにいっていた。


「あんたらみたいに ひとのいいこと ゆうてたら しまいに しりの 毛まで ぬかれまっせ」


都会にあるメディアはさかんに「絆」、「絆」と叫んでいる。

ひとを馬鹿にするのもいい加減にしろと言いたい。

さんざん危険なものを押しつけておいて、いまさら絆とはよく言えたもんだ。

原発企業の資金でたらふく肥えたメディアどもがいい子ぶるのは止めてもらいたい。


日本の民主主義もメルトダウン状態にあるようだ。


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Wink










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外国人労働者




家から2㎞ほどのところに深夜までやっているスーパーがある。

たまに、すれ違った若い人たちの言葉がわからないことがある。

耳が衰えたかと思ったがそうでもないようだ。


んっ、日本語じゃない?アジアの顔は区別がつきにくい。

時間帯によっては、すれ違う人の1割ほどが非日本語だ。

中国語、韓国語はなんとなくそれとわかるが、それ以外はまったく???だ。それにしても多くなったものだ。


義兄の会社にも中国からの研修生がひとりいた。

この若者は文字通りの研修で、建設業のノウハウを学ぶのが目的だった。


3年ほど在籍し、帰国してからは自分で会社をおこし、義兄の会社とは今も交流があるという。

しかし、これはまれなケースで、よくいう「外国人労働者問題」というときの外国人労働者ではない。


少子化が進む中、社会は外国人を雇用しようと躍起になっている。私は反対だ。大反対だ。


誤解のないようにいっておくが、外国の人が嫌だとかいうのではない。

むしろ、おおいに交流すべきと考えている。いや、もっと過激かもしれない。

いつの日か、国境などというものはなくなって欲しいとさえ思っている。


だからこそ、短兵急な、しかも身勝手な雇用に走って欲しくない。

いま進められようとしていることは国際交流、文化交流などと言えるものなのだろうか。


政府は建前として高度な技術を持った人材をという。

しかし、社会の高度な人材に対する要求は低く、単純な労働力に対する要求が多い。

それがこの国の実態だ。要するに奴隷が欲しいということだ。


利益の追求しか眼中にない人々は外国人労働者を雇用することの問題点など考えようともしない。

社会にどんな状況が生まれるのか考えようともしない。まして、外国人を知ろうともしない。

ただ、安い労働力としか見ていない。奴隷売買と何ら変わらない。


食べ物、宗教、その他何もかも異なる価値観をもった人々が、いきなり隣に現れるということだ。

彼らは日本の社会に溶け込まない。溶け込んで欲しいと思うのは日本人の傲慢だ。逆の立場で考えるべきだ。


私も外国で暮らすことになれば、その国を理解しようとはする。

が、自分の生活様式、価値観まで棄てるつもりはない。


しかし、島国根性の日本人が異なる文化をもった人々と摩擦無しに暮らせるとは思えない。


「受け入れてみなければ始まらない。何事もやってみないと・・・」と、いう人もいる。

確かに、それはその通りだ。

しかし、やってみました。駄目でした。元へ戻しましょう、というのだろうか。

日本で生活基盤ができ、子どもも生まれ、そんな人々にいったい、何処へ戻れというつもりなのか。

軽い考えで進めて良い話ではない。


私が懸念することを以下に挙げてみる。



    日本の社会であたりまえのようにされている行政サービスについて彼らをどう位置づけるのか。

    低賃金の彼らにとっての高いコスト負担は家族が適正な教育、医療を受けられない状況を生む。

    行政コストの未払い問題は社会保障の問題を今以上に難しいものとする。


    滞在者が就労斡旋事業の組織を作り、滞在者を支配する。

    なかには怪しげなものもできる。被搾取の被害も出てくるだろう。

    すでに「蛇頭」というのも報告されている。そこには行政のチェックが及ばない。

    社会が二重構造化する。 


    
    生活基盤ができたら彼らは帰国しない。

    やがて必ず、その家族をも受け入れることになる。


    日本で結婚して家庭をもつ。日本で生まれ育った子どもをどう扱うのか。

    失業した場合、母国語を話せない子どもが日本に残る可能性がある。その対応は?


    
    日本で生まれた子どもの就学について社会はどう対応するか。

    非就学児ができてしまうことは格差社会を作ることにつながるだけでなく、

    全体の労働環境悪化や地域の安全にも悪い影響を与える。


    社会の2層化が進む。


    低賃金労働への就労は日本人との生活レベルの格差が大きく、それが起因して地域への融合を妨げる。


    会話能力不足から日本人との意思疎通がうまくできず、双方の不信感がさらに融合を困難にする。


    劣悪な職場環境が温存されてしまう。


    低賃金では、やがて日本の生活を維持できなくなる。

    仕送りもさることながら、日本で稼げると信じて莫大な費用を捻出してきている人々が

    暮らしに行き詰まることがあれば、社会の不安定要因になる。



思いついただけでも、様々な問題がある。

社会は受けとめる覚悟と、準備ができているのだろうか。

自分たちも変わらなくてはいけない。「嫌なら出て行け」とはいえないのだ。


あらゆる問題点を検証し、想定外のことがおきても、

自分たちの問題と捉えられる覚悟があればよいのだが・・・・

拙速に進めれば、不幸な人々を作ることになる。

その時、誰が責任をとるのか。誰もとらないだろう。この国はそんな国だ。


外国人を犯罪者のように考えるのはやめろ、と言われるかもしれない。

しかし、貧困が犯罪を生む厳然たる事実を認識すべきだ。

人が悪いのではない。貧困が悪いのだ。格差社会をつくってはならない。


私は外国人排斥運動が起きて欲しくないのだ。

問題が起きてから対応するのではなく、問題が起きないようにするのも政だ。

政に「想定外」は絶対に許されない。


外国人労働者は、日本で生活する「生活者」であって、単なる「労働力」ではない。

日本人と同等に扱われるべきだ。

日本人と同じ基準で、その能力・識見を評価され、能力に見合った報酬・処遇が保証されなければならない。


経営者はそんなことは認められないというだろう。

利益追求の亡者どもは単に奴隷が欲しいということだ。


いま、少しだけ「在日」のかたがたも認められるようになった。母国語の名前を名乗るかたも出てきた。

まだ十分とは思えないが、ここまで来るのに何年の歳月が必要だったことか。

どれだけの苦しみを乗り越えられてきたことか。


叔父のおかげもあって、私は「在日」のかたがたの暮らしを傍で見てきた。

異国で生きるということがどれほどのことか、とても言葉で表現できるものではない。

そんな暮らしを知るだけに、安易に「安い労働力」などと語る人々には強い憤りをおぼえる。


外国人労働者が必要なら三顧の礼をもって迎えるべきだろう。

対等に付き合う覚悟と度量があるのか、私たちは試されている。






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耳をすましてごらん


古い小咄


耳の遠い親子の話。

親父さんが奧にいて店先の息子に声をかける。



   おぉい おおい


   んまにもう わるいとこだけ よう にてからに


   おぉい  あ やっと わかったか


   あのなぁ いま おもて とおったん あらぁ うらの げんさん ちごうたかな


   あの なあ い ま  お も て  とおっ た ん  

   あ ら あ  う ら の  げん さん ちごうたかな


   あぁあ なに ゆうてんねん いま おもて とおったん あらぁ うらの げんさん でっせ


   ああ そうかぁ わし また うらの げんさん かと おもうたわ


 $%&#&%%&#$%$??




鶴来町に住む私の姉も幼いときに中耳炎を患ったことで片方が聞こえづらいようだ。

向こうを向いているときに話しかけてもいっこうに気付かない。


「ほら、叔父ちゃんなんか言うとるよ」


と姪や甥たちがサポートするということはよくある。


こういう私も何年も前から耳の中に蝉を飼っている。一日中、「ジ--- 」と鳴り続けている。


ドクターの話では聴力には関係なく加齢によるものとのこと。

気にしだすと余計に大きくなるようで今はあきらめている。

音楽を聴くときの障りになるかと心配していたが、

実際はそんなものでもないことがわかってホッとしてもいる。


それにしても音楽を聴くときの耳は実に不思議なものだ。


同じCDであるのに聴き込んでいくと今まで気付かなかった音が聴こえるようになってくるから不思議だ。

ひとの声にも楽器にもそれは言える。

「まさかぁ・・」と思われるだろうが、これがあるので息の長い趣味になる。


もっとも、2度や3度 "通し" で聴いたくらいでは違いはわかるものではない。

ポイントは同じ箇所を繰り返し聴くということだ。それも別の演奏者を聴くことが大切だ。


この演奏者ならどう表現するだろう・・そんな思いで聴いていると、演奏者の息遣い、

指の動きまで見えてくるようになる。

やがて使用している楽器独特の音まで認識できるようになる。


私が特別に耳がいいわけではない。絶対音感があるわけでもなく、至ってどこにでもいる平凡な人間だ。

どうしてそんなことになるのか。一言で言えば音楽が好きだからだ。

音楽を聴くときの集中力が半端ではないからだ。


「火事場の馬鹿力」という言葉がある。

日頃は持てるはずもないような重たい箪笥でも必死になると一人で運べるというあれだ。


学者によると、人間は日頃、能力のすべてを使っているわけではないそうだ。

そんなことをしたら体が壊れる、それで無意識に制御しているとのことだそうだ。

体験的に言えることだが、聴力にも似たようなことがあるのではないかと思う。


日頃は耳に入ってくる音を聞いている。必ずしも聞きたい音というわけではないので、

状況さえ理解できればいい。潜在意識でそう判断している。


しかし、空気の超微細な振動をもキャッチしたいと願うとき、

耳は鋭敏になり楽器の善し悪しまで峻別できるようになる。

要は聴きたい気持ちが強いとき、はじめて演奏会場の空気が伝わってくるということのように思う。


ピアノフォルテの音はハンマーで叩かれた弦だけの音ではない。

共振している他の弦の音でもあり、共鳴している胴体の音であり、さらに床や会場の音でもある。

聴き込んでいくとその音がわかるようになる。


眼というのはしっかり見ているようでも実はかなり怪しげである。

映画のフィルムは1秒間に24コマしかない。それでも自然な動きと認識してしまう。


1秒間に48コマ流し、そこへ1コマだけ無関係な映像を入れても人間はそのことを認識できない。

潜在意識下には刺激はちゃんとあるわけだが・・・それほどに眼は怪しい。


               "サブリミナル効果" の危険性もここにあるわけで、

              言論統制の時代にあっては最も警戒すべきことである。

                      (テレビは見ない方がいい。「原発は安全」「原発は必要」

                       というテロップが入れられている可能性も考えておかねば・・) 


それに比べると耳の情報分解能は奥が深い。

そうでなければ人類は外敵から身を守ることは出来なかったろう。

ただ、その能力が発揮されればということだ。


言いたいのは、見えているもの、聞こえているものが本当にすべてなのか、ということだ。


私たちの感覚は結構いい加減だ。自分の要求する姿勢で鈍感になったり、鋭敏になったりする。

聞きたくないものは耳に入っていても聞こえないのだ。


もしかすると私たちは人生の半分も実は見えていないのではないだろうか。

聞こえていないのではないだろうか。


ものがそこに「有る」あるいは「無い」という基本的なことも

実はこちらのあり様で決まっていくとしたら、

哲学する心もかなり怪しくなってくる。


今一度、全感覚を全開にして見、聞き、しないとまったく違った "真実" を見ていたことになる。


ひとが発する声、叫びは聞こうとしないひとには聞こえない。

聞きたくないひとには聞こえない。聞こえるひとでありたい。









      ♪ 耳をすましてごらん

     

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厚労省は自由診療体制に誘導か?




母の命日の食事会に姉のひとりが欠席した。

体調に自信がないからとのことだった。


聞けば1週間前に救急車で運ばれたという。

町内会の会合の席上で突然意識がなくなったらしい。

2分ほどで回復したのだが、周囲の人たちが心配して救急車に乗せたという。


救急病院では心電図と脳のCTをとったが特に異常は認められず、

直前の行動を尋ねられ、「花粉症の薬を呑んだ」というと、医師は


    おそらくそれでしょう


    かかりつけの耳鼻科に今日のこと言っておいてください


とのことで、そのまま帰されたという。


私は自分のホームドクターに尋ねてみた。


    花粉症の薬でそんなことになるものですか


    担当医が言ったのは "迷走神経反射" のことです

  
    まれに注射すると聞いただけでお腹が痛くなるかたがいますが

    あれも "迷走神経反射" です


    花粉症の薬でおこらないとはいえませんが・・・・


    僕は "TIA" だと思います  すぐに循環器科で診てもらってください


    先生、 "TIA" って何ですか


    一過性脳虚血発作のことです  つまり 脳梗塞の前兆です


    すぐに症状が消えてしまうのでCTをとっても 異常は認められません


    しかし 放っておくと今度起こるときは脳梗塞です


    かなり高い確率で脳梗塞が起きています  けっして軽視しないでください


私の言葉なら無視するところだが、元金沢医科大高齢医学科講師の言葉には姉もこたえたようだ。

翌日から循環器科の治療を開始した。

血液サラサラになる薬とコレステロールを下げる薬を処方され、定期的に血液検査をすることになったとか。


"TIA" は医師の共通認識とホームドクターは言うが、現実には医師によって温度差はある。

救急外来もかなりいい加減だ。日本の医療は大丈夫か。

帰宅させるときに循環器科にいくよう指導するとか、 "TIA" の可能性に言及すべきではなかったか。


ホームドクターの言葉がなければ姉は脳梗塞の道を歩んでいたはずだ。

こんな医療体制でよいのだろうか。


"TIA" は原則的に入院させて治療する、と多くの医師がホームページで書いている。

が、現在はまず入院させることはないという。  何故か。

医療費削減を使命とするどこかの小役人が目を光らせているためらしい。


私は糖尿病その他で2週間に一度診てもらっている。

先生としては2週間に一度は血液検査をしたいようだが小役人が認めないという。

尿検査にも回数制限があるとのことだ。


これで責任ある医療ができるのだろうか。厚労省はその環境を担保しているのだろうか。

医師によっては持ち出し覚悟で治療するとも聞く。まさに赤ひげ先生である。


国民の医療費総額を考えるとき、

姉のケースでいえば循環器科にいった方が高くつくのか、いかない方が高くつくのか、

政に携わるかたがたは答えを持っているのだろうか。


膨れあがる医療費。対応は考えなければならない。

小役人の存在もあながち否定はできない。 しかし、方法論が間違っていないか。


例えば犯罪捜査の場合で考えてみる。

稚拙な初動捜査や不十分な鑑識活動をそのままにしておいて

その後多くの経費をかけ、捜査員を動かしても何の成果も上げられない。


虚しく時が流れるだけで、時効廃止などいっても事件は解決できはしない。

タイミングを逸してしまえば解決できるものも解決できなくなるということだ。


現在の厚労省のやり方は小規模の火災は放っておいて、大規模火災になって初めて出動する消防署だ。

費用負担が大きくなるのを待っているかのようだ。


どんな病気でもいきなり重篤な状態になるわけではない。

前兆を見逃さずに対応すれば、患者もひどい思いもせず、様々な面で負担の大きい入院を回避できる。


結果的に医療費も大きくはならない。


現在だとまったく個人的に血液検査を希望しても病気でない人は認められそうもない。

そして多くの人が重篤な患者になる道を歩んでしまう。


特に中高年の場合、ひとりひとりに合った生活指導が必要だ。

年に一回の通り一遍の健康診断では多くの前兆は見逃されてしまう。


マクロ経済の何たるかも知らない財務省の経済運営はよく批判されるが、

厚労省もまたマクロなものの見方ができていない。

市民に最も身近な末端医療の充実こそが医療費抑制になるという発想ができていない。


「十分な治療は『自由診療』でどうぞ」

というつもりだろうが、それは保険会社の「医療保険」へと誘導することに他ならない。


以前、アメリカの医療現場をレポートする番組があった。

救急車で運ばれた人に先ず病院が尋ねることは「カードは持っているか?」だそうだ。

支払い能力の無い人間を治療することは経営者に対する背任行為になるからだ。


この国の治安がよい理由に「格差のない社会」があげられる。(最近はかなり怪しいが・・・)

「国民皆保険制度」の果たしている役割は大きい。


TPPは医療現場を「アメリカ化」する。そして、保険会社は「医療保険」で大もうけだ。 

この国はそんな愚かな道を歩むつもりなのだろうか。


医療現場の問題点を指摘すると医師会は既得権益を守ろうとする圧力団体のようにいわれてしまう。

メディアや評論家はここぞとばかりに医師会を叩く。

一連の流れを見れば誰がそう言わせているのかがおぼろげに見えてくる。


悪徳な医師がいることも事実だ。

しかし、ほとんどの医師は真摯に患者と向き合っている。そして医療の改悪化と闘っている。

「いのちの既得権」を守ることが何故非難されなければならないのだ。


医療現場を「アメリカ化」することは営利優先主義であり、医療の放棄である。

この社会を「自由な国アメリカ」のレベルにまで引き下げるようなことがあってはならない。


処方された医薬品が売買されていることを政治家の皆さんはご存じなのだろうか。

かなり以前からひそかに行なわれている。

知らないとすれば社会の底辺を知らぬ「しあわせな人々」だ。


何故、売るのか。

「生活保護」だけでは生きていけないからだ。


何故、買うのか。

医療機関にいけないからだ。


職がない、金がない、いや、それ以前に住民票がないということさえある。

驚くかも知れないが戸籍のない人々さえ紛れもなく存在する。


そして、そんな人々を無報酬で診ている「赤ひげ先生」たちもいる。


「赤ひげ先生」たちは相手がどんな人間かを詮索したりはしない。

保険証を持たない人であれば相手を選ばない。

逃亡者であれ、暴力団員であれ、密入国者や不法滞在者であれ、

目の前にいる医療の必要な人を手当てするだけだ。


官僚も政治家も社会の現状を知らぬまま「改革」なるものを推し進めようとする。

最底辺の人々はおきざりにされたままだ。


その叫びはどなたかの耳に「音」としてすら届くことはない。








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おなじニッポンジン___???___全体主義体制の臭い




     おなじニッポンジン として 当然でしょう



2011年、津幡町のある地区で予定されていた「桜まつり」が中止された。

責任者に理由を尋ねたところ、そんな答えが返ってきた。

東北・東日本の災害をうけて、急きょ中止するのだという。


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世界はいま・・・・・



[貧困]


毎年1100万人もの子どもが5歳の誕生日を迎えることなく命を落としている。

1時間に1200人(3秒に1人)ということになる。その主な原因が貧困だ。


1日100円前後での生活を強いられている人々の3分の2が農村地域で働き、

収入と食料の両面で天然産品に依存した生活を送っている。


彼らが生計を立てるための市場や生産手段、そして貧困からの脱出の見通しも、

農産品取引を管理している貿易規制の影響を直接受けることとなる。


貿易は構造的な不平等が根深く、拡大さえしている状況という。


富裕国に農産物を輸出している開発途上国が直面する貿易障壁は、

富裕国同士が貿易する場合に比べ3~4倍に達すると言われている。


先進国は貧困国の農業に対し援助を行なってはいるが、

一方で、自国の農業に対して補助金を出して農産物を過剰生産させている。


こうした不平等によって貧困国が生産する農産物は国際市場での価格競争に敗れ、

貧しい農家の人々が得るべき富を奪い、雇用機会まで失わせてしまっている。


貿易の問題は関税をはじめとした国による障壁だけではない。

世界的な大企業による国際市場の寡占化こそ問題とされるべきだ。


我々のこの豊かな生活がどういった人々の犠牲によって成り立っているか、知らなければならない。


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[飢餓]


1日のエネルギー必要量を摂取できていない人々は8億人を超え、

開発途上国では5歳未満の子どもの4分の1が栄養不良に陥っている。


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[水不足]


毎年170万人以上が質の悪い水と粗末な衛生設備が原因で病気になり、命を落としている。


子供への影響も深刻で、

毎日4000人が清潔な水と適切な衛生設備があれば予防できる病気によって亡くなっている。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



[HIV]


HIVに感染してもすぐにエイズが発病するわけではない。

発病を遅らせる薬や症状を軽くする薬などが実用化されている。


低・中所得国で抗HIV治療を受けている人々の数は2001年末から3倍に増加した。

しかし、必要な治療を受けられているのはアフリカで10人に1人、アジアで7人に1人にすぎない。


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[戦争による惨禍]


戦闘に巻き込まれたり、戦争が終わってからもクラスター爆弾の不発弾や地雷で多くの人々が亡くなっている。

劣化ウラン弾による放射能被害は敵味方を問わず、長期にわたる苦しみを強いている。


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上にあげたものばかりではない。

チェルノブイリは25年経っても、まだ終わってはいない。


世界には問題が山積している。


日本人のどれだけが地球全体の問題を認識していることか。

自分たちの生活の足下にある難問を知っているか。


我々の日常は世界のひとびとの犠牲の上に成り立っている。

まず、それを知ることから始めなければならない。


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「桜祭り」の主催者は、東北・東日本のかたがたと「自分たち」が「おなじニッポンジン」との認識を示した。

「おなじニッポンジン」とは実にあいまいな言葉だ。


もしかすると、言ったご本人も「おなじ」の意味がわかっていないかもしれない。

確かに、ひとつの政府の下、生活をしているということはある。


しかし、いままでも、そして、これからもまったくの他人として、意識の外にしかない存在を、

「ニッポンジン」というくくりで結合させる「ニッポン」とは何なのか。

考えると不気味である。

あまりに情緒的で、全体主義体制の匂いを感じてしまう。


困っているかたがたに手をさしのべる。

それだけのことだ。


「おなじニッポンジン」と、思いたがるのは擬似的な連帯感にすぎない。

格差が広がりつづける社会にあって、ひとは「共同感」「帰属感」を求めている。

孤立感を麻痺させるために。


そして、権力者が演出、用意する「連帯感」の世界で、すべてが解決していくという、幻想を見てしまう。

ACジャパンはまさにそのプロパガンダだ。


「まつり」の予算を義捐金にするならわからないではない。


「おなじニッポンジン」として、浮かれている場合ではないというのは、あまりに精神主義的である。

戦前の思考回路をもった人々は健在のようだ。

「まつり」を実施すれば「非国民」と罵るに違いない。


「おなじニッポンジン」として、風評被害にあっている農家を救済するのは

「国民の義務」のような取り上げかたをされる。


しかし、何故、一般市民が放射能汚染のリスクのある野菜を買うように誘導されなければならないのか。

市民は被害者であるはずだ。


東電や政府がその農産物を買い取るべきであって、

被害者に被害者の救済をさせることがあっていいはずはない。

これでは加害者が誰であるかわからなくなってしまう。

市民は騙されている。


市民には放射能汚染の疑いのある食品を拒否する権利がある。

市民はその子どもをまもらなくてはならない。


これまで十分すぎる恩恵にあずかってきた、東電の株主、経営者、従業員は私財を提供し、弁償とすべきだ。

加害責任は明確にすべきだ。


愚かで人の良い市民は、加害責任をうやむやにしたい連中に巧みに誘導され、

危険な食品を食べさせられている。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



「おなじニッポンジン」とは言っても「おなじ地球人」と言わない。

「おなじ人間」とは言わない。


狭い世界しか見ていないひとは、やがて、多くの国から見捨てられることを覚悟しておいた方がよい。


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あらゆる人とおなじ眼差しで生きている人がいた。


黒沢明作品「どですかでん」にでてくる「たんばさん」だ。

黒沢自身が「このように生きたい」と願っていたに違いない。



たんばさんの家に夜、泥棒が入ってきた。

枕元の雨戸から侵入した泥棒に対し、


 

 
    きみ それはちがうよ それは仕事の道具だ

    金なら こっちにある

    いま出してやるよ


    
    いまは これで全部だがね

    こまったら また おいで

    すこしなら ためておくから んっ?


    ああ 雨戸は 閉めてっておくれ

    それから こんどくるときは おもてから おいで

    

    
    

むしゃくしゃして刀を振り回す男がいた

小さな街はパニックに・・・


傘をさした たんばさんが男に近づく

手をさしのべて なにか 話している

男は 青菜が塩でもかけられたように おとなしく 家へはいる


後日 街のひとりが 男にたずねる



     あのとき たんばさんに なんて いわれたんだい



     どうもこうもねえや あのひとときたら

     かわろうか ひとりじゃ 骨が折れるだろうからな 

     っていうんだぜ

     おりゃあ なにも 工事やってるわけじゃ ねえんだ


     はい それじゃ おねがいします なんて いえるかい

     おりゃあ きまりがわるくなって  やめちまったのよ





「おなじ」というときは このようなまなざしで ありたいものだ








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拝啓 東京電力さま



                      南相馬市

                      青田 恵子



エアコン停めで 耳の穴かっぽじって よーぐ聞け!

福島には「までい」・つう言葉が あるんだ。

「までい」、つうのは 丁寧で大事にする

大切にする、ちゅう意味が あるんだ。

そりゃぁ おいらどこ 東北の暮らしは 厳しがった。

米も あんまし 獲れにぇがったし

べこを飼い おかいこ様を飼い

自然の恵みで 「までいに までいに」 今まで暮らしてきた。


原発は 一度に何もかもを 奪っちまった。

『原発さえ なかったら』と

壁さ チョークで遺書を のこして
   
    

べこ飼いは 首を吊って 死んだ!

「一時帰宅者」は

水仙の花咲く 自宅の庭で

自分さ 火 つけて 死んだ!

「放射能で ひとりも死んでない・・・」だと?

この嘘こき野郎! 人殺し!

オッカァ と 子と孫 つれて

住んでみたら よかっぺ。

放射能を たっぷり浴びた べこは

そこらじゅう ウロウロ いるし

セシゥムで肥え太った 魚は

腹 くっちくなるほど 太平洋さ いる。

いん の めえには(家の前には)

梨も 林檎も 柿も 取り放題だ


ごんのさらえば (瓦礫を掃除すれば)

マスクなんど うっつぁしくて かからしぐで

するもんでねぇ。

そして 一年もしたら

原発は 田んぼも 畑も 海も

ぜーんぶ かっぱらったんだ。

このォ盗っ人! ドロボー!


「原発停めたら 電気料金を二倍にする・・・・」だと?

この欲たかりの 欲深かども!!

ヒトラー は 毒ガスで 人を殺した。       

原発は 放射能で 人を殺す。

おめぇらの やっでることは

ヒトラーと なんも変わんねぇ!

ヒトラーは自殺した。

おめぃらは 誰 ひとり

責任 とって 詫びて 死んだ者は いねぇ。

んだけんちょもな おめぃらのような

人間に つける薬が 一っだけ あんだ。


福島には 人が 住まんにゃくなった家が

なんぼでも たんとたんと ある。

そこを タダで 貸しやっからよ。

少しは 薬が 効いて くっかも しんにぇな。

ほしたら フクシマの 子どもらぁと おんなじく

鼻血が どどうっ と出て

喉さ ぐりぐり 出来っかも しんにぇな。


ほうれ 言ったとおりだべよ!

おめぇらの言った「安全で 安心はところ」だ。

さぁ 急げ!

荷物 まどめで フクシマさ引越しだ!

これが おめぃら さに つける

たった 一つの『薬』かも しんにぇな。        



                       

                     
                     師走20日、とある九条の会で出合った詩

      
                     すでに高齢者の一人が 朗読してくれました。


                                 
                                           都 鹿 斎



                     都 鹿 斎ブログ より転載

                     http://blogs.yahoo.co.jp/sakuram203








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魔力を失ったテレビ




私は6年前、母が亡くなったのをきっかけにテレビの契約を解除した。

観たいと思えるものがなくなったからだ。

テレビが嫌いなわけではない。叔父の肩車で街頭テレビをみて以来テレビっ子であったともいえる。


しかし、幼い日に電気屋の店先でみていた「テストパターン」や「番組のお知らせ」ほどに

私を引きつけるものを探そうとしても、現在のテレビ界にはそんな怪しいまでの魔力を秘めた

番組などどこにもない。


視聴率の呪縛から抜け出せないテレビは魔力を失い、スポンサーが魔力をもちだした。

作品をサポートするスポンサーではなく、スポンサーをサポートするテレビになってしまった。



近年、といってもハイビジョンの試験放送の時だからかなりたつが、

私を小学生の頃にタイムスリップさせてくれる放送があった。


ひとつは東南アジアとおもわれるが、幼い女の子が学校から家まで帰るという、ただそれだけの映像だった。

ナレーションもない、音楽や効果音もない、実にシンプルな映像だ。


ところが、これが実にいい。からだに似合わぬ大きなかばんをかついで、あちこちで道草をしている。

女の子の目に映るものはすべてが新鮮だ。道すがら出あう家畜や小川の生き物たち。

いつしか私も女の子になっていた。


もうひとつは東京近郊の鉄道の映像だった。これもナレーション、音楽等いっさいなし。

列車の先頭にカメラを置いただけという、これ以上のシンプルさもないだろうと思える映像だ。


今どきの鉄道ファンにとっては物足りないかもしれない。車両全体の姿は映らないのだから。

ただひたすら前方に流れる線路が映るのみだ。観ているほうはすっかり運転士である。


手元にあったお茶がすっかり冷たくなっていることも忘れて見入っていた。

"見る楽しさ" "映像文化の本質" をしっかり捉えた内容だった。


今のテレビが演出が過ぎて、例にあげた放送に演出がないのか。

そうではない。女の子も鉄道もしっかりとした演出がつくりだした映像だ。

では、何が違うのか。



私は "人間をみるまなざし" であるように思えてならない。

最近のテレビに物足りなさを感じるのはこの "まなざし" のなさである。


ストーリーだけを追っかけているような作品では登場人物の行為のみが大切なわけで、

屈折したこころの有り様やその原点がどこにあるか考える必要はない。

表面的な謎解きにのみ視聴者の関心が集まってくれればそれでよいのだ。


人間の上っ面しかとらえようとしなければ作品は淡泊なものとなり、味わい深いものになどなるわけがない。

これでは作り手のメッセージがまるで伝わってこない。

いや、そもそもメッセージなるものが込められているのかさえ観る側にはわからない。

見終わった後に何も残らない。


こういう人間の描き方は観る側の "人間観" "人生観" に強い影響をあたえる。

いつしかひとは他人の行為のみにしか関心を寄せない無機質な生き方をしてしまう。


そして、自分はドラマのヒーローであり、

妨げになる存在に対してはドラマの悪役を見るような、そんな目つきでしか人を見れなくなる。

こちらも、あいてもおなじ "ひと" であることを忘れて。



端役や通行人にまで神経を使っていたら今のテレビはつくれない、というのが現場の声かもしれない。

端役や通行人をどうとらえるか、どう位置づけているかは演出家の理念にとどまらず、

発信されるメッセージにも現れる。


作品は主人公だけで作れるものではない。台詞などない通行人もいなければ情景描写などできない。

実はこの風景としての大部屋役者たちの出来不出来が作品を左右する。


ピアノもハンマーで叩かれる弦だけで音が出ているわけではない。

叩かれていない弦も間違いなくピアノとしての音を出している。あれとおなじだ。


だからこそ黒沢は無名の役者の卵の歩き方にほぼ一日をかけた。

「七人の侍」の撮影現場での話だ。

そして、数秒のカットに一日中歩かされた役者の卵こそ、名優仲代達矢である。


台詞のある役者は台詞で表現できる。

しかし、端役や仕出しはそこにいるだけで風景にならねばならない。

売春宿の女将が御店のお内儀に見えては困るのだ。バーテンダーが銀行の頭取では酒場にならないのだ。


そんなクレジットにさえ出てこない大勢のひとびとの熱い思いが作品を作っている。

この思いを大切にしていれば観ている側にも伝わる。

逆に、粗略すれば小学生の学芸会になってしまう。



よく人生はドラマだといわれる。波瀾万丈の日々や思いがけない出逢いをいうのだろうが、

私はそれぞれの持ち場でそれぞれが主人公である撮影現場をイメージしてしまう。


誰が偉いとかそんなことは誰も言わない。

違って見えるのは脚本がそうさせているだけであることは皆がわかっている。

善人悪人は作品であって、カットを撮り終えればみなよき仲間である。

撮影所にいる全員が大切な仲間で、いらない人など一人もいない。


短い大学生活の中で京都ならではのアルバイトをした。映画のエキストラだ。

私が映画づくりの現場を知るのはそのせいである。


大映で「兵隊やくざ」「大魔神」がシリーズで作られていた頃だ。

マイクロバスで送迎され弁当付きで確か700円だった。

名の売れた人も大部屋の役者もない、皆が対等、大映撮影所はそんなところだった。



          ※[仕出し]

           映画に主役や脇役以外のその他大勢、つまりエキストラはつきもの。

           その中にあって若干の台詞もあるキャラクターが必要なわけで、これを仕出しという。

           大部屋の役者さんたちの仕事。







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上意下達(じょういかたつ)




私の周囲で "質問しない議員" が話題になった。

町会議員になって3年間一度も議会で質問しないという。

あららら・・・もったいない。自分などはすぐにも行って交代したいくらいだ。


しかし、不思議でもないような気もする。


何年も前になるが、知り合いに引っ張られて或る議員候補の集会に顔を出したことがある。

私には無縁の世界で、どこに座っていいのかもわからずウロウロしていた。


選挙前ということなのだろうが、会場には政党のポスターが貼ってあり異様な雰囲気だ。


やがて候補なるひとの演説が始まった。参議院選に出馬するだけあって弁舌さわやかという感じだ。

国会では名うての論客が揃う政党であってみればうなずける。


やがて演説も終わり司会者が質問はないかと会場に声をかけた。



      "沖縄に外国の軍隊は要らない" というポスターがありますが、この言葉の意味を説明してください。


      "軍隊は要らない" なら解るのですが、日本の軍隊ならOKということですか? お答えください。



私の質問に会場は静まりかえった。

司会者も候補もそんな質問は想定していなかったようだ。

「質問ありませんか」はお約束ごとなのか? 

雰囲気からして質問そのものを想定していなかったように感じた。


基本方針を追求するかのような質問は御法度なのか?

空気を読まないで感じたまま発言したことがよくなかったのかもしれない。


さっきまで弁舌さわやかだった候補もとたんに歯切れが悪くなった。

しどろもどろだ。準備不足なのだろう。

想定外の質問には答えられないひとと見た。


(オイオイこんなんで参議院へいく気かよ)

(民主的に見える政党も実態がこれじゃ政権は遠いぞ)


無論、政党全体がそんなふうだとは思わない。  が、その晩の雰囲気には失望した。



企業の中でも町内会でもすべて幹部が仕切り、末端はこれに従う。

「異論があったら前に出ろ」という空気の中では異なる見解を述べようもない。


最初から議論する空気ができていないのだ。

本当に議論する気があるなら環境を整えることだ。

この日本という "無口な社会" にあってはそれが大切だ。


もっとも私などは零細企業の中ということもあって、言いたい放題に意見を述べてきた。

多分に高校の国語の授業の影響だろう。

毎日10の質問を用意して臨まないと怖い時間だったから。

その習慣が残っている。


幹部で決めたことに従う、それが "革命" と信じてきたソ連は社会改革を成就できないで終わった。

原因はさまざまいわれるが、私は上意下達の空気にあったと思っている。


幹部も末端もない、そんな車座の中で政治が語られないでは民主主義も社会主義も成功するはずはない。

現在の日本もまったく同じ課題を抱えている。気づいていないならこの国もやがて無くなる。


古代ギリシアの都市国家のような直接民主制にでもしない限り上意下達の空気は一掃されないようにも思える。

ハンガリーの "インターネット民主党(IDE)" のあり方に注目していきたい。
                 


        ※ インターネット民主党(IDE)

          間接民主的に獲得した議席を直接民主的に運用し、

          有権者による代表達の常時直接的なコントロールを実現することを目標としている。


          国会における議論を常時中継し、市民はIDEのホームページで、

          国会で議論されている議題について投票を行なう。


          代表議員は市民によるインターネットを通した直接民主的議決を反映させる。



某陣営で固めた津幡町議会であってみれば上下関係もあって、抜きんでることなどできるはずもない。

質問しない議員がいることも不思議ではない。

所詮は数あわせの要員に過ぎない。

期待することが間違っている。


質問しない議員、もしかすると根回しして議案を作った張本人だったりして・・・・ (そりゃ ないか)








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約束をまもる敵を信ぜよ




わたしは嘘つきだ


わたしは嘘をついたことなどない


どちらも嘘つきだが たちの悪い 油断できぬ 嘘つきが 社会のリーダーであってはならない

 

  
    嘘をつく味方より 約束をまもる 敵を 信ぜよ 


わが家の家訓である





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オタマジャクシが降ってくる




私の住む石川県ではよくオタマジャクシが降ってくる。

2011年6月には加賀市で2009年には七尾市で多くのオタマジャクシがみつかった。

近頃では天気予報の時間に「オタマジャクシ予報」をしていて観光客を驚かせている。


「オタマジャクシ予報」のことは冗談だが初めての時より反応も落ち着いてきているのは事実だ。

サギの落とし物説が有力だがつむじ風説を言う人もいて最終結論には至っていないようだ。

豊かな自然ってことよ、と涼しげにこたえる友人もいる。

オタマジャクシ騒動をどう見ますか。何人かに尋ねてみた。


   「いやぁ~ オタマジャクシのことはわからんわ」


   「自分 理科系弱いし・・・」


の返事がほとんどだ。

私が問題と感ずるのはオタマジャクシそのものではなくこの「騒動」から私たちは何を学ぶかだ。

一つの事象に対して分析することもできず、

異常を異常のまま見過ごしているとその陰に隠れた重大な警告を見のがしてしまう。

工場での安全管理、危険回避の底にある考え方は社会現象に対しても同じだろう。


私たちの周りでは日々、さまざまなことが起き、俊敏な対応を求められる。

何度も体験していること、滅多に起きないこと、初めて体験すること、いろいろであっても、

暮らしを守るためには「想定外」などとは言っていられない。

学識や技術を総動員して対処しなければならない。


しかし、昨今の財源不足とやらで、予算がつくのはすぐさま利益になりそうな部門ばかりだ。

産官学共同研究にはスポットライトはあたるが、地味な基礎研究部門は資金難にあえいでいる。

すぐさま成果の出ないものは疎んじられている。

確かに、理論物理学や分子生物学で画期的成果があったからといって、どこかの株価が上がるものでもない。


しかし、fundamentalな研究あってこその応用科学だろう。

「異常」は「変わりばえのしない日常」の観察があってこそ見えてくるものだ。

オタマジャクシ騒動はfundamentalな研究がないがしろにされている証左といえる。


近視眼的な応用科学偏重の社会は薄っぺらな未来しか見ることはできない。

短兵急に日々の利益を貪る似非資本家たちに地球の諸問題の解決はできない。

一見、箸にも棒にもかからないようなものでも思わぬ利益を生むということはよく聞く。

コーディネート次第で社会はいくらでも変化する。

基礎科学の充実とコーディネーターの養成が求められている。


「つまらないもの」「取るに足らないもの」が大事にされる社会はあらゆる変化に適応できる

潜在力を有する豊かな社会といえる。









参考までに・・・

@nifty:デイリーポータルZ:オタマジャクシは降っているのか in 加賀
http://portal.nifty.com/kiji/110629145386_1.htm









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その『神様』とは 世間の私たちのことです



   
    子どもは誰からも守られていなくてはならないのに 実際はそうではない


       神様に背を向けられている子どもたちがいる


       その『神様』とは 世間の私たちのことです



                                     さいきまこ









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まなざし___あなたは人間として見ているか




刑務所がどんな構造か殆どの人は知らない。

違法行為を行なった人たちを収容していることは知っていても、

中でどんな生活をしているかとなると答えられる人はさらに少ない。

出所後の生活となると関心すらない。


そんな人々が裁判員として裁く対象とはいったい何なのだろう。

被告と相対してはいるが、人間として見ているのだろうか。


単に方程式に当てはめて、


     ハイ、懲役3年です


     まあ、執行猶予2年です


とやっているのではなかろうか。

職業裁判官も同じである。単なる「業務」でしかないのではないか。


何故、その人が犯罪を犯すことになったのか。

その人にとって刑務所とはどういう意味があるのか。

その人の再出発のためにできる支援とは何なのか。


すべてが相手の人格を尊重した所から出てこなければならないと考えるが、

今の時代、共に悲しむ眼差しで相手を見ようとする人がどれだけいるのだろうか。


社会全体にすさんだ空気を感じる昨今、犯罪者は人間のクズ、刑務所に放り込んでおけ、

という気持ちが前面に出るのではないかが懸念される。

裁判員裁判が厳罰化している状況はその事を物語っている。


死刑制度について法務大臣鳩山邦夫氏は「機械的に執行すればいい」と発言した。

これは自己否定であり、自殺行為的発言に他ならない。。

機械的にということであれば大臣は要らないということであろう。


また、大臣のというよりは自身の人格を否定したことに彼は気がついていない。


凶悪な犯罪者を許せない、というのは「こちら」側の問題であって、

心境の変化で許せるようになったとき、執行したあとでは取り返しがつかない。生き返らない。


その人が犯罪を行なったという事実が、

後ろめたさを麻痺させているだけで「こちら」が殺人を犯したことに変わりはない。


人間を物のように捉え、善悪という価値判断でしか見ない生き方は

そのまま自分に返ってくることに気づいて欲しいと切に願う。






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桜の季節___勉強するということは

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町内に住む友人が「いただきものですけど」と言って羊羹を持って遊びに来た。

あれこれ話すうちに「一休の詩」の話になった。


http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week19/index.html#entry-76444792


「ああ そうなんや 全然知らんかった」


「けど やっぱり清沢哲夫の方が落ち着きがいいね 文章として素直だし お子さんへの愛情が伝わってくるわ」


「それはそうと剱さん」


「うん?」


「これってどうして書いたがぁ? 

 パソコンって横書きばっかしやろ 縦書きの文章があってもいいと思うとったけど・・・どんなソフトや」


「いやぁ これは横書きなんや」


「横書き? 縦書きやがいね」


「うん 縦書きに見えるけど これは横書きなんや 禅問答みたいかも知れんけどね」


しばらくけげんそうな表情の彼女だったが、


「あぁ そういうこと?」


「うん そういうこと」


「あぁあ わたしも頭が固くなったわ」




私の住む井上の荘という住宅団地もご多分に漏れず、

各種の営業や宗教の勧誘のターゲットにされている感がある。

いつもはインターホン越しに断っているのだが、仕事に区切りがつき休憩中だったこともあり、

頻繁に訪れる、ある新興宗教のメンバー二人を中へ招き入れた。


「私は宗教を語るとき 専門用語を一切使わないことをモットーにしています

 お二人もそのおつもりでお話しください さあどうぞ」


まったく想定していない発言だったと見えて、とたんに言葉数が少なくなった。

「さあどうぞ」と、一応は聞く姿勢を見せている私へのアプローチに戸惑っているようだった。


それでも社会で起きている事への感想やなんかを話しだした。

やがて年上の女性が自分の子供について語り出した。


幼児期と違って、親の言うことを聞かない。口答えばかりして反抗的になる・・・ということだった。

子育てにほとほと手を焼いているという表情だ。


「唐突に思われるかも知れませんが・・・お二人は『桜の季節』っていうと いつとお考えですか」


女性たちは口をそろえて即座に


「そりゃあ3月下旬から4月上旬でしょう  年によって若干ずれるでしょうけど・・」  


「あなた、そりゃ『花見の季節』でしょ  私は『桜の季節』と言ったはずですが」

 

「・・・・・・・」


「桜は花が散っても桜ですよ


 夏には夏の 秋には秋の 冬には冬の いろんな表情がある それみんな桜なんですよ

 つまり 一年中『桜の季節』なんですよ  『花見の季節』が『桜の季節』というのは人間の身勝手です


 桜を育てると言うことは 土作りから始まって 苗を育て 水をやり 毛虫からまもり 堆肥を施し

 そうやって丁寧に丁寧に接してやらないと桜は育たない


 『花の季節』以外も全部好きになってやらないとね 


 お子さんは見透かしているのではありませんか  あなたが『花』にしか関心がないことを・・・」


女性たちは真っ赤な顔になり、恥ずかしそうにうつむいていた。

やがて無言のまま深々と一礼し、帰って行った。




人間はともすると、あらゆる事象を自分のフィールドで捉えようとする。

思い込みや自分の思慮の無さを忘れて、自分のフィールドに映ったものを真実と信じ込みたがる。


臓器移植ということが先に決まっていたのでは、死の定義も見えなくなってくるというものだ。

これは真理探究にとって大きな障害となる。歪められた「真理」は我々を隘路に導くだけだ。


人間が人間である以上、先入観や身勝手さなしに事象を捉えるのはそんなに簡単な事ではない。限界もあろう。

しかし、真実と自分のフィールドのギャップを極力小さくする努力だけは怠ってはならない。

それが勉強をするということだと思う。






追記


文字はどのようにも書ける。

縦に読めば意味が理解できるからといってその文章がお約束通りの順序で書かれたとは限らない。

「道」の文章は紛れもなく横書きで書いたものだ。


私の使っているメールソフトは横に書いていくしかできない。

いわゆる「縦書き」というスタイルにしたければ見たとおりを強引に左から右へと書くしかない。

正直これは骨が折れた。

結果、読む人が「縦読み」にしているだけのことだ。


物事の本質に迫るときはそうした部分に注意を払う感性、洞察力が必要だ。

でなければ私たちはいとも簡単に用意された答えに誘導されてしまう。








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赤ちゃん工場




「赤ちゃん工場」摘発のニュースが伝えられた。

「工場」という言葉はいかにも現代の生命のビジネスを象徴するようで寒々しい響きがある。


人身売買を監視する国家機関があるということ自体、

ナイジェリアという国の抱える問題が深刻であることを物語っている。

人権意識のない因習や貧困もあり、そこからの脱却は容易なことではないだろう。


とくに貧困については先進国の身勝手な経済活動によるところが大きいわけで、

単なる「人権問題」と問題を矮小化してはならない。


ナイジェリアは歳入の7割が石油で占める産油国だ。

石油市場をコントロールするアメリカはその責任を問われなければならない。


しかし世界は何故こんなときだけ大騒ぎするのだろうか。

生命のビジネスは「赤ちゃん工場」だけでもないだろう。


金銭のやりとりは確認されていないものの、

「生命」を道具のように扱っているのは先進国とてなんら変わらない。


「精子バンク」「臓器移植」「代理出産」「医療産業によって定義される生命」これらを棚に上げ、

「赤ちゃん工場」のみ批難する姿勢には強い違和感がある。


恐ろしく、また悲しい「赤ちゃん工場」の事件ではあるが、私にとっては早くから想定できることだった。

やはり起きたか、そんな思いでこのニュースを聞いた。


1973年にアメリカ映画「ソイレント・グリーン」を観た。


舞台は近未来のニューヨーク。

人口増加・失業・食糧不足といった、いまからでも当然予測のできる問題に、解決策などない混沌とした社会だ。

映画は生命を道具のようにしか考えない文明の末路を示す内容である。

テーマが重すぎたためかヒットはしなかった。


文脈から予想できるかもしれない。

この社会が選んだ選択肢は「公営安楽死施設」であり、そこから供給される遺体で作る「人肉食品」だった。


社会の真実の姿に絶望して自ら安楽死施設へ行き、

「田園」を聴きながら逝った老人の姿が今でも記憶に残っている。


恐ろしく思えたのはスクリーンを見ている時ではなかった。

映画館の帰路、それがSFであることを忘れ「多分そうなるだろうな」と、思ってしまったときだった。


「精子バンク」「臓器移植」「代理出産」「医療産業によって定義される生命」などは

アウシュビッツの「人間石鹸」と同じ感性であることを認識すべきだ。


「赤ちゃん工場」などはまだアナログ的かもしれない。

高度な技術でスマートになされる生命の道具化・商品化に私たちは慣らされ利用されてはならない。

彼らは表向きにはヒューマニズムを装って近づいてくる。


私は予言する。

機械論的生命観が見直されない限り、映画「ソイレント・グリーン」は現実のものになる。








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ユニオンジャックのガラス窓__幼い日に帰還兵を出迎えた



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放課後、近所に住む石谷君と路地で遊んでいた。 

と、何やら街の様子がいつもとちがう。


おとなたちはそれぞれに


「やまださん が・・・」


と口走りながら駅の方へ走っていく。

遊んでなんかいちゃいけない。こども心にもそれくらいの察しはついた。


「おい  いこう」


石谷君は走りだしていた。


熟知した近道を抜けると駅前はすでに大勢のおとなたちが集まり秋まつりのようだ。

町長さんがいた。校長先生もいた。郵便局の局長さんの顔もあった。

母の同級生のおばちゃんたちの顔もたくさん見えた。母もいた。


私が住んでいた鶴来(つるぎ)は金沢の南約16キロにある、当時1万人が暮らすのどかな町だ。

金沢・白菊町駅からローカル線で30分ほどかかる。


駅舎には「山田義光君」と書かれた大きな垂れ幕が下がっていた。

やがて "山田さん" という男のひとが現れた。年かっこうは母ぐらいか。日焼けした顔のやせた感じのひとだった。


「やまだ よしみつ くん ばんざあい」


「やまだ よしみつ くん ばんざあい」


大きな声が なんども なんども なんども なんども 街に響いた。

"山田さん"も軍隊調のお辞儀でそのつど応えていた。


女のひとたちはみな泣いていた。

男のひとたちは口をキリリとして微動だにしないでいた。

必死にこらえていたのだと思う。


1956年小学3年生の時だ。


思えば母と同い年のひとたちが最も悲惨だった。

国の勝手な理屈で青春を中断され、戦地に送り込まれた。

そして学年の半分以上が還ることはなかった。


還って来たひとたちもよろこんでいるひとはなかった。友を半分以上失ったのだ。

還れたことを素直に喜べないないのは察してあまりある。

どんなに悔しかったか。どんなに国を恨んだか。おおっぴらに口に出来ないだけになおさらだろう。


曾祖母の代から交流のある横山家の亀茂さんは片足を失った。

母と同い年で、よくお茶を飲みに訪れていた。


テレビに流れる戦争ドラマに「あんなかっこいいもんでない」と一言。

そして無口になり、遠くを見つめていた。

何十年経っても癒えないものを抱えているのが伝わってきて、こちらも辛くなったのを思い出す。


何のための戦争だったのか。誰のための戦争だったのか。


「いまは いい じだい や ぞいや」(今はいい時代だよ)


亀茂さんが時折もらした言葉は


「自分たちの悔しさをきっと伝えてくれ」


と私には聞こえた。


母と学年が一緒だったひとはもうほとんどおられない。

私たちが伝えていかないと青春を奪われるひとがまた出てくる。

私たちにあたえられた宿題は大きい。


小学3年に体験した駅前での出来事が "山田さん" を送り出す行事ではなく、

帰還の歓迎であったことが私にとってはせめてもの救いである。

まだ、どの家にも空襲に備えてガラス飛散防止のためのユニオンジャック状の紙が貼られていた時代だった。


あなたは ユニオンジャックのガラス窓を 知っていますか。






原爆を許すまじ
http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week19/index.html#entry-76444807


過ちは繰返しませぬから
http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week32/index.html#entry-77262968






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ただいまの時刻は・・・

水のごとくに  無文翁

「私」という宇宙

文言で語る世界      文言でしか語れない世界

そったらことも      わからいでかの

"さんづけ"を多用する社会

危険ゾーンに入ってきた

こうして戦争へ向けた世論が形成されていく

感じませんか

紛争解決に尽力することが先だ

ユニオンジャックのガラス窓

原爆許すまじ

政に想定外はない

子どもの声が届かない

永田町住人たちの犯罪

永田町住人たちの犯罪2

その『神様』とは・・

クリーンなイメージ???

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