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辛夷塢(しんいう)




               辛夷塢       

            

          木末芙蓉花
 
 
        

          山中発紅華 
        

          澗戸寂無人 
       

          紛粉開且落         
              


                                                                           王維


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王 維(おうい)      699?-761

                  中国,盛唐の高級官僚で、詩人。字は摩詰。太原(山西省)の人。


辛夷(しんい)        日本では「こぶし」をいうが、中国では「もくれん」のこと。


塢(う)             中国語の原義は小さい土手、堤の意。


芙蓉(ふよう)       「はす」の別名。


寂(じゃく・せき)      まったく音がしないさま。静まりかえっているさま。


紛粉(ふんぷん)             盛んな様子。


木のこずえに咲いている「はす」ということで、「もくれん」を表現している。(文学的表現です)

「辛夷塢」とは「もくれんの堤」という意味。


澗戸(かんこ)      谷川のほとりの家

                   吉川幸次郎氏は「谷のとぼそ」と言い換えている


枢(とぼそ)                 1 開き口を回転させるため、戸口の上下の框(かまち)に設けた穴。

                    2 戸。扉。


                  転じて  粗末な家


[書き下し文]     


木のこずえなる  芙蓉(ふよう)の花

山中に紅(あか)き華(はな)を開く

谷の戸ぼそには  寂(せき)として人なく

紛粉(ふんぷん)として開き  かつ落(お)つ


[意訳]


やまあいの川のほとり もくれんの紅い花がひらいた

あたりの家には人影ひとつ無く 静まりかえっている

紅い大きな花びらが咲いては散り 咲いては散り するだけである




人間というのは ともすると 世間の自分への評価が気になり

その世間に迎合しようとして 自分を見失いがちになる


他人(ひと)が見ていようと 見ていまいと

おおらかに おのが生をまっとうしている やまあいのもくれんは

王維の心に強く響いたことだろう








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民を安堵させるため




1657年(明暦3年)、後に振り袖火事といわれる大火が江戸を襲った。


猛火が幕府の米倉に迫ったとき、保科正之は「米を持ち出すこと勝手たるべし」と「おふれ」を出したという。

町民に対して勝手に持って行っていいというわけだ。


天領からの年貢米を保管している米倉である。役人たちは驚いたに違いない。

しかし、保科正之はこう考えた。


   米倉をめざして町民が動けば猛火の中に道ができる。

   避難民が「火消し」の働きをする。

   持ち出された蔵米は救助米となる。 


非常時には非常時の対応が必要だという見本のような話だ。


正之は火事がおさまったあと、

救済のために、各地で炊き出しをさせ、家を失った町民たちに再建費として総額16万両を与えた。

これは会津藩の年収に匹敵する金額であったという。


幕府の御金蔵が空になるとの批判に対して正之はこう言ったという。


   「官庫のたくわえと申すものは、すべてかような折りに下々へほどこし、士民を安堵させるためにこそある」


「埋蔵金」を出し渋るある国の小役人のようなことは言わなかった。


江戸の再建にあたっては、

主要道路の道幅を広げ、火除け地を設置、芝・浅草両新堀の開削、神田川の拡張などに取り組んだ。

結果、江戸という都市の輪郭が定まり、今日に至っている。


後に天守閣再建の話が出たが、


    「いまはかようの儀に国家の財を費やすべき時にあらず」

    
と反対し、江戸城の天守閣はついに再建されることはなかった。

天守閣なき江戸城は、長く続いた「徳川の平和」の象徴であると同時に、

政に対する保科正之の姿勢の象徴でもある。


因みに、玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献したのも保科正之である。


藩政においては、


残忍な処刑方法の禁止、罪に対する刑の統一、飢饉に備えての備蓄米確保、

升と秤の統一、耕作不可能な土地にまで課していた年貢を撤廃、


90歳以上の老人には、身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給。

(日本の年金制度の始まりとされる)  

等があり、今日にも通ずる政治家であった。


こういう人物についてあらためて触れるのも、大災害が起きた今日なればこそだ。

やはり、どうしても比較してしまうのだ。私利私欲、党利党略に走る政治家もどき達と。


いま正之だったらこの国をどう動かすだろうか。大災害のときに年貢を増やすことをするだろうか。


くしくも保科正之は会津藩主である。


         ※ 保科正之(ほしな まさゆき)  1611年-1672年


         
              徳川2代将軍秀忠の4男・家光の異母弟

              第四代将軍・家綱の後見役

              陸奥会津藩初代藩主。








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若手医師を育てる後援会




2008年の秋、ある後援会に入った。今風にいうならサポーターになった。


周りの誰もが知るように、私は根っからの組織嫌いである。

いや、「組織嫌いである」などと言っているのは私だけかも知れない。

遠慮のないもの言いが災いしてか、ついぞ先様からお誘いなど受けたことがない、

というのが本当のところだ。


終生、自由人でありつづけたい私にとって、会の規約だの煩わしい人間関係だのはどうも苦手である。

まして、政治家が絡んできたり、宗教色が出てくるともう駄目である。


そんな私がサポーターになったのも、政治家の影もなく、

一応は「学生を立派な職業人に育てよう」という崇高な理念のためだ。

なにより入会金や年会費など一切必要としない。ここがいい。今の私にとっては大事なポイントだ。


そんな会から例年、物故者の追悼集会の案内が届く。入会するひとは多くはなく、亡くなるかたが目立つ。

ここにも少子高齢化は如実に表れている。社会の行く末が案じられる。




幼い頃から私は医者が苦手だ。もっとも「大好き」というひとも多くはなかろうが。


ことに歯医者というあの理不尽なもの言いをする種族とはとても友人関係になれるとは思えない。

こちらの口にさまざまな道具を遠慮なく突っ込んでおいて、

「痛かったら言ってください」とは何事だ。言えるか !!


若い頃に通った職場近くの歯科医の場合は最悪だった。


若尾文子か大原麗子を思わせる美人の先生だ。これがいけない。

そんな清楚な印象の超美人が、見た目とは裏腹の信じられない鬼のような腕力でひとのことを押さえつけ、

拷問を楽しむがごとき振る舞いには私ならずとも女性不信になろうというものだ。


やはり、歯科医は同性がいい。


薬の呑み方も昔から下手だ。粉薬は喉に貼り付きそうで今もってうまく呑めない。




そんな私も、大阪万博のあった1970年に輸血を受けることがあった。生死をさまよった夜があった。


それが原因での肝臓病と知ったのは16年後のことだ。

そして今も解説本に書かれてある通りの病状を順調(?)に歩んでいる。


幸不幸というのはこちらの都合で言うだけのことであって、

何にしても解説本通りというのは、私も自然の摂理に沿って生きているということである。

摂理から外れることのないそんな命を今は喜んで受けとめている。




思えばこれまで多くのドクターのお世話になった。67という齢を考えればさほど不思議でもない。


ことに母が癌になったことでドクターやスタッフの皆様の "仕事" を超えた思いに触れる機会があったことは

私の人生観に強く響くものがあった。サポーターの件も動機はここにある。




2008年6月8日(日)、宗平医師は早朝より来てくださっていた。


姉の一人と孫達が母を看ているなか、私たちは別室で病状について説明を受けていた。

と、突然「先生!」と姉の声。

先生はすっ飛んで母の部屋へ。  ところが、私の足元には診察カバンが・・・・


最後の診察のため血圧を測ろうとする先生。カバンのないことに気づく。

間髪入れず脇からカバンを差し出す私。

ほんの一瞬のことであり、先生の動揺に気がついた者はいない。


一連の診察を済ませ、宗平医師が言ったのは、よくドラマにあるような「ご臨終です」ではなく、


     さとしさん おかあさんの そばへ いってあげて


だった。そんな宗平医師の心遣いが嬉しかった。


ところが、私と場所を入れ替わった瞬間、大きな声で


     ごめんなさい


と号泣する宗平医師。

「苦しむ時間が長くなるだけだから注射は止めよう」の提案をしたことを言っておられるのだ。

人前もはばからず号泣する大人を見ることなどそんなにはない。


( おいおい カバンは忘れるわ 号泣するわ あんた医者だろ しっかりしろ !!  )


こんな医師は見たことがない。胸が熱くなった。


後に奥様から伺ったのだが、先生は数日前から母のことが気になって一睡もしていなかったという。

これはもう医師ではない。気持ちは完全に家族の一員になっていた。

家族の一員として診てくださっていた。


無論、すべての患者に「思い」を入れておられないのも医師ではある。

場合によっては「思い」が邪魔になることもあろう。


しかし、医師に冷徹な洞察力と俊敏な判断に加えて、ひととしての熱い思いがあることは、

患者とその家族にとっては大きなささえになる。


治療中もさることながら、母を送ったのちも満ち足りたものを感じておられるのも、

そうした "ひととしての医療" があったればこそだ。


そんな宗平医師のような臨終に号泣する医師が育ってくれることを願って、サポーターになった。


資力もなく、体力もない私にも、社会に貢献できる生き方(?)が残されていたことが嬉しい。

役に立つ日までは借り物の体のような気分だ。

いい状態で(何がいい状態かわからないが)役立てるよう健康に注意したい。


私の会員No。は 1095 である。






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「身を切る改革」という不思議




議員定数



議員定数削減が問題になる。何故そのような議論になるのか。

一票の格差を是正するには削減の他に増員という手段があることを忘れていないか。


「削減」が既定路線のように扱われ、他の議論が一切国民には示されない。

議員の怠慢か能力が無いのか、不思議なことである。


以下の各国の議員数資料を見て欲しい。私は削減という方向に流れることには大きな疑問を感じる。

Photo_3

   
               クリックで拡大します




※参考

政治学
児玉昌己研究室

百万人が抱える国会議員数先進11カ国比較 2010年現在の議席数

http://masami-kodama.jugem.jp/?eid=2364






「日本の議員が多すぎる」という主張は、この資料からもわかるように全く根拠がない。


行財政改革の一環で議員定数削減が論じられるが、

巨大な行政府の非民主的な行政執行や無駄な公費支出などを厳しくチェックし

改革する立場の議員を削減することは矛盾というべきだ。


経済効率と民主主義のコストを混同してはならない。


今日求められているのは、国民の要求の多様化・複雑化に対応した幅広い意見を国会に反映する

「国会機能の活性化・強化」である。

求められているのは議員定数削減ではなく、民意をよりよく反映する選挙制度改革ではないか。






政党助成金



身を切る改革をいうなら政党助成金をこそ その対象にするべきであろう。

支持したくない政党の活動を支援させられるのはごめんだ。

この制度は理不尽ではないか。

憲法19条(思想及び良心の自由は、これを侵してはならない)に違反する。


百歩譲って、大きな支援組織のない者の政治活動を保障するというのであれば

それは政党ではなく議員個人に対してなされるべきだろう。


政党のボスが財布を握り党員を意のままに操縦する図式は民主主義が想定した姿ではない。

議員個人の政治活動は最大限尊重されねばならない。


政治活動を保障するというということが議員に対してではなく、

政党にという発想が出てくるところにこの国の政治的未成熟を感ずる。








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みなさまのNHK? 




みなさまのNHK? 安倍さまのNHK?

NHKの役員選任にあたって契約者の意志を直接聞こうとしないのは

「みなさまのNHK」というキャッチフレーズに反するのではないか。


自分たちに都合のいい人間ばかり集めての公聴会ではなく、

保険会社がするように契約者全員を対象にすべきだ。

予算がかかるといって避けていたのでは透明性、公共性が疑われても仕方が無いだろう。








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私の腰痛防止法




2013年夏、突然ぎっくり腰に !!   まあ みんな 突然にやろうけど・・・

あんなもん じょじょになるもんと違う。

けど、ギックリ腰で10センチも動けんのは独り暮らしには致命的 !!

助けを呼ぼうにも電話に手が届かないというのは

大げさなようやけど  " このまま かとう ちめとう なるのか・・・ " 思ったりして・・・

母に処方されていた痛み止め「ボルタレン」(ゲル)が

手に届く範囲にあったことで事なきを得たわけで・・・


昔から私の周りで、力仕事をする職人や長距離のドライバーの間で言われていたのが


        腰痛防止には六尺


" 覚えとくといい " と年寄りから締め方の手ほどきを受けたことが・・

で、思い出しながらやってみるとこれなかなか具合がいいようで・・・以来、六尺派です。

朝、きりりと締めると気合いも入って・・・ぎっくり腰は再発してません。

お悩みのかた一度お試しを・・・


伝統として残っているものには残るだけの訳があると言うことです。


断っておきますが、同じ褌でも「越中褌」というのはまったく違う代物で、

あれを褌と言うのには抵抗があります。腰痛防止効果は私は聞いたことがありません。





六尺についてわからないことがあれば

  ↓ を参考に・・

     

六尺道場

http://www.rokushaku-dojyo.sakura.ne.jp/


素材は 晒し、新モス が定番。

他に 浴衣地、手拭い地 など。

アウターに響くことが気になるなら ガーゼ地 もいい。


      
六尺だからといって 1.8m に切った若い人がいたとか。

建築は曲尺ですが、きもの関係は鯨尺ですので念のため。

曲尺 303mm   鯨尺 379mm


言葉通りなら 379mm×6=2274mm ですが

実際の長さは標準的な体格で 2.8m くらいは必要と思います。

但し、洗濯で縮む分を見ておくこと。








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人間性を破壊される国民


人間性を破壊される国民【戦争の本質】

https://www.youtube.com/watch?v=beUo-gGCCIE#t=91













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Green Green Grass of Home




「思い出のグリーン・グラス 」 という題名でこれを歌ったニホン人歌手がいる。

しかし、中身は似ても似つかぬものになっていて、訳詞などというものではなく、あきらかな改ざんだ。

フォークソング歌手といわれた人が元歌の精神を殺すことにアーチストとしての葛藤はなかったのだろうか。

アーチストの誇りに傷がつくとは考えなかったのだろうか。


歌はこころの叫びだ。ひとりひとりの人生そのものだ。

誰かを冒涜したり、傷つけるものでなければ誰に遠慮する必要があろう。

権力におもねり、体制におもねっていて自由な社会、民主主義国家といえるのだろうか。


表現者が体制に迎合するとき、社会は危なっかしい方向へ突き進む。


周囲からの強い要請を感じながら、自分の主張を押し殺して生きるようではこの社会はまだまだ未成熟だ。





"Green Green Grass Of Home"


                     作詞 Putman

                     作曲 Putman

                     唄 TOM JONES


故郷の街並みは昔と同じ

列車を降りると 両親が迎えに来てくれている

通りを走ってくるメアリーが見える

金髪でさくらんぼのような唇の

故郷の緑に触れるのは気持ちが良いものだ

そうなんだ 皆が迎えに来てくれる

両手を差し伸べて 優しく微笑みながら

故郷の緑に触れるのは気持ちが良いものだ


古い家はまだちゃんと建っている

壁は干からびてひび割れてはいるけれど

そして 僕が遊んだあの古い樫の木もある

愛しいメアリーと一緒に小径を歩くんだ

金髪でさくらんぼのような唇の

故郷の緑に触れるのは気持ちが良いものだ


そして僕は目覚める 辺りを見回してみる

僕は灰色の壁に囲まれている

そして気づくんだ そうなんだ 僕は夢を見ていたんだ と

看守がいるし 悲しそうな顔をした年老いた牧師がいる

夜明けには 腕を掴まれ歩くんだ

それから僕は故郷の緑に触れることになる


そうなんだ 皆が僕に会いに来るんだ

あの古い樫の木陰のところに

皆は僕を故郷の緑の下に横たえるんだ





                  訳: ‘もう頑張らない’ばばぁの覚書 さま


歌詞は こちら です http://www.azlyrics.com/lyrics/tomjones/greengreengrassofhome.html









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Hondaの危険な車が走っている !!




昨年(2014)3月、信号待ちをしていると大地震に襲われた。

車は大きく上下し、ハンドルを握りしめていないとあやうく舌を噛むところだった。


   きたぁ!! ~ 震度どのくらい? 姉たちは無事か?


しかし、車外を見ると様子がおかしい・・・いや、逆だ。

おかしいのはどうもこっちの方だ。

街はおだやかな早春の昼下がり・・・どこかの猫くんが悠々とお散歩中だ。 

えぇ~っ !!


15年乗った初代プリウスがついに悲鳴をあげたのだ。

焼け焦げるような臭いと異常振動のまま家にたどり着いたが・・・

金かけて修理するか、買い換えるか。

駆動バッテリーを何度も変えていることを思えば限界か。

最近はバッテリーもすぐあがる。


結局、買い換えることに決断。

しかし、リタイヤしてるから贅沢はできない。

屋根さえあればどんな車でもいいか・・・と、この軽い気持ちが間違いの元だった。




3ヶ月待って購入したのは Honda FIT 1300CC ガソリンタイプ。

(ハイブリッドを選択肢から外した理由は別途書くことにする)

軽並みの価格、人気車種、メーカーの自信作・・・これらの要素が決め手だった。

が、ディーラーが地区では非常にきめ細かなサービスで知られるY社であったことが油断になった。


予算面から言えば他メーカー、他車種を検討するまでもなかった。

で、このことがあって試乗も満足にせずに安易な購入になった。

以下は大チョンボの記録。




Hondaへ送ったメール


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FIT GF 初日の感想



前方視界 悪い ボンネット部分が鋭角で開口部も広い割には路面が遠い感じ

若いとき乗った教習所のクラウンを思い出す・・・


室内空間 高さはもう少し欲しい


室内の静粛性は改良の余地あり


メーター位置 やはり見にくい ( 前方から視線をそらすことが不安 緊張する )


ブレーキの操作感に違和感?? 軽すぎるというか、作りが「きゃしゃ」というか・・・

踏み込む度に音がする (調整でなおるか?)


出だしが良くない

車庫入れ時などの超低速ではかなりアクセルを踏む必要あり(怖い)

    ※ クリープが無いということ


走ってみて感じたこと・・・・後が軽い? FFの宿命か?

ちなみに・・・これまでは初代プリウスに乗っていました



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5日目の感想 「運転しづらさの正体」



運転に何か違和感があったが、その正体がはっきりした。

Aピラーとドアとの間にできる三角窓を構成する縦のピラーだ。

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                            上が  Honda  FIT

                            下は  SUBARU XV




本来はなくても良い、と言うよりあってはならないものだ。

だからこそ各社は最低限の幅で設計されている。(ピラーという感覚はない)


しかし、御社のFITやトヨタのプリウスなどは強度を確保できないためか、

やたらと太いピラーが三角窓を構成している。これは如何なものか。

このピラーは斜め前方の視界を遮る以外のなにものでもなく、

安全運転のリスクを大きくするものである。


昨日は歩道から急に飛び出そうとするこどもがピラーの陰に入り、ヒヤリとした。

正確に言えばこうなる。

こどもは交差点の横断歩道付近にいた。私は信号に従って左折しようとしていた。

信号が変わってもこどもは横断する気配はない。最徐行で左折にかかった。

と、その時こどもが動いた。フェイントをかけるような動きだった。

が、視界がよければこどもの目の動きやしぐさで行動は予見できたはずだ。

前方に死角があるのは致命的だ。

安全最優先の設計とは言いがたい。

公道を走るにはリスクが大きく、初心者は避けた方が良いと思う。

「危険な車」と警告を発したい。

設計者の未熟さを感じる。



Hondaからの回答



     再度、お問合せいただきまして誠にありがとうございます。

     お客様のお問合せを担当しておりますHondaお客様相談センターのSと申します。

     このたびは、大変怖い思いをされたということで、

     ご迷惑をお掛けし、誠に申し訳ございませんでした。


     貴重なご意見、ご指摘につきましては、関係部門に伝え、品質に対して原点から見直し、

     今後の車づくりの参考とさせていただきます。


     今後とも弊社に対して貴重なご意見、ご指摘をいただければ幸いでございます。

     何とぞ、よろしくお願い申し上げます。

     今後とも、Honda製品をご愛顧賜わります様、お願い申し上げます。



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11日目の感想 走行距離150km



当初からその感じはあったが・・・・


アクセルを緩めたとたん、急にエンジンブレーキがかかったようになる。

故障なのか車の特性なのかはわからないがこんな車は初めてだ。

ひと言で言うと乗りにくい。


路面状況を素直にしかも強烈に反映する乗り心地の悪さは

価格からして受忍すべき範囲にあるとの意見も聞くが、


死角の大きいAピラー付近の設計や急にエンジンブレーキがかかるような走りは

いつか必ず事故を招く要因であるわけで、我慢して使用してはならないと考える。


「慣れ」の内側に隠れた危険のことを「リスク」という。


もの作りに携わるものは肝に銘じておくべきだ。


結 論:早急に次の車の検討に入ることにする。


1ヶ月点検の前に買い換えるなんぞ前代未聞!!

車選びの眼力がなかったということだ・・・・



Hondaからの回答



     Hondaお客様相談センターTと申します。

     お忙しい中、メールを頂戴いたしまして、誠にありがとうございます。

     また、この度はFITをご購入いただき併せてお礼申し上げます。

     メール拝読させていただきました。


     この度は、アクセルを緩めた際、急にエンジンブレーキがかかるとのことで、

     ご心配をおかけし大変申し訳ございません。


     私どもお客様相談センターでは現車の状態をご拝見できず、

     個体異常の有無の判断や原因の特定を行う事は困難です。

     お役に立てず、誠に申し訳ございません。


     つきましては、販売店にて現車確認を行ないました上で、

     判断とご説明をしていただくよう担当営業 Mに依頼させていただきました。

     大変恐れ入りますが、担当営業 Mからのご連絡をお待ちいただければ幸いでございます。


     剱様からいただきました内容は、

     今後の品質向上とさらなる車造りへの貴重なご意見として責任を持って、

     関連部門へ申し伝えさせて頂きます。


     Hondaといたしましても安全・環境に配慮し、お客様にご満足いただけるよう、

     製品の品質向上に全社一丸となって努力して参ります。

     誠に恐縮でございますが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。


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     本田技研工業株式会社 お客様相談センター

     埼玉県和光市本町8-1

     担当  T



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結論

1ヶ月点検はお断りした。

車選びは仕切り直し。

それにしても最近の車づくりがこれではニホンの産業界の先行きもかなり怪しい。


アクセルを緩めたとたんエンジンブレーキがかかったようになり急減速・・・

これはブレーキを踏んでいるのにランプが点灯しないことと同じ状況であり、

後続車がいれば非常に危険なことになる。

よく審査が通ったことだと思う。


ディーラーの整備のかたの見方は


    断言はできないが、現象を見る限りプログラムエラーだと思います


とのこと。

とすれば同時期に出荷された全てに問題があることになるわけで重大な事案ということになる。

ハイブリッド車のリコールもプログラムミスだったことを考えれば

Hondaのプログラムはまったくあてにできないと言わざるを得ない。


「社運をかけたモデル」がこれではHondaの車づくりも限界が見えたと言うことか。

私の車は衝突防止やカーテンエアバッグがついている。

前方視界に死角はあるは急にエンジンブレーキがかかったりする車にもかかわらずだ。

笑い話だ。順序が逆ではないか。



ニホンの車づくり・・・黎明期でさえこんな無様なことはなかった。








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これまでも地球には高度な文明が存在していた__ロシアの声




[転載元]

ロシアの声      11月 23 , 02:04



ロシア人研究者、これまでも地球には高度な文明が存在していた

http://japanese.ruvr.ru/news/2014_11_23/280371919/




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ロシアの科学者らは、地球には5億年前高度な技術が用いられていたという帰結に達した。

このことから、5億年前は地球には別の文明が存在していたと見られる。


2013年夏、ロシア南部のクラスノダール地方で驚くべき人為的な遺跡が発見された。

ラビンスク市在住のヴィクトル・モロゾフさんはフドジ川で魚釣りの最中に、おかしな石を見つけた。

その石にはあらゆる面でマイクロチップを想起させる物体が埋め込まれていた。

モロゾフさんはこれをすぐに研究者の手にゆだねた。


ところがこの物体の正体を突き止めるには1年以上の歳月が要された。

ノヴォチェルカッス総合技術大学の地学、鉱物学科の鑑定の結果、

石は2億5千万年前のもので、ある事が判明した。

このことから、2億5千年前には地球上には生命体があり、高度な技術が存在していた事が裏付けられた。

今後の解明が待たれる。








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こどもサロン





ドタ ドタ ドタ ドドドド・・・・ 


ピンポーン


     あのね あのね おねがいが あります


     わかったよ いま いくよ



玄関をあけると 6,7人のこどもたち。


     どうしたの


     あのね んとね ばんそうこう ください


     ばんそうこう?


     このこね けがしたん ばんそうこう ください


     けが? どのこや?


     このこ んとね くちのなか きったん


     どれ あああ ちょっと ちいでてるな


     くちのなか ばんそうこうは できんとおもうけど


     とにかく なかはいって せんめんじょで くち きれいにせな


     はい こっち こっち


     さあ みなも はいった はいった


     うわあ すっげい


     ひぃろい~


     みんな アイス たべるかな


     たべるうっ~


     たべる たべる


     たべるぅ~


     いくつ いるのかな


     え~と あれっ さっきのこは?


     このこや


     このこって おいおい くち きれいにしてきたか


     うん


     いたいの とれた?


     うん もう なおった


     ねえ おじちゃん かくれんぼしていい?



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ピンポーン



     はあい なんですか


     おじちゃん いま なんじ



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ピンポーン



     おじちゃん ちょっと みてください


     んっ? いま いくよ


     どうしたの


     こんなん ひらった


     あら スズメの こやね


     がっこうんとこに おちとった


     どうしたら いいですか


     たすかりますか


     しなないよね


     おじちゃん たすけてやってください


     ・・・・・・・・


     じゃぁあ おいしゃさんに きいてみようね


     その状況では難しいと思います


     わかってます ただ こどもたちの気持ちを考えると・・・


     たしかに・・・じゃあ もってきてください



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「千客万来」の家はいつもこんな調子である。

名前をおぼえようとこころみても、そんな暇など彼らはあたえようとしない。

20畳ほどあるわが家のリビングはまさに前にある公園の延長と化している。


そんなわけだから何本もの空き瓶に小分けされた「あめちゃん」が

リビングのテーブルで "豆台風" をいつもまっている。


紙風船であそんだり、かくれんぼしたり、宿題をひろげたり・・・

わたしの心に準備がないまま学童保育の状況になる。


それにしても、ずっと気になっているのはこどもたちの表情だ。

時にうるさいほどはしゃぐ子らの横顔が一様にさびしげである。


「鍵っ子」が問題とされる時代があったが、何の解決もみないまま今日に至っている。

「鍵っ子」は死語にされてしまった。

わが家に集まってくるこどもたちはその「鍵っ子」たちである。


情操教育がいわれる一方で、

まだまだカンガルーポケットで育てられるべき年頃の子らがこの状況でいいのだろうか、と思ってしまう。


「おかあさんがいなくて 家にはいれない」といって、

いまにも泣き出しそうに女の子がやってきたときは胸に詰まるものがあった。


わたしの母は家で和裁教室を開き、わたしたち姉弟を育ててくれた。

けっして豊かではなかったが、いまにして思えば家に母がいたということは大変めぐまれていた。


社会全体の労働環境や所得水準の問題もあろう。

男女共同参画、雇用の機会均等ということもある。


男女間の理不尽な不平等については母の苦労をみてきただけにわたし自身がまっ先に声をあげたいことだ。

それはそうなのだが、さまざまなことを考えるときにこどもたちの気持ちを念頭においてほしい。

こどもたちは声をあげるすべを知らないのだから。


子のいないわたしの言うことである。甘い理想をいってられない現実から乖離していることも承知している。


それでも言いたい。

     「暮らしってなに」

     「家族ってなに」

その原点を考えつづけないと社会は変わっていかない。

日本という社会はけっして豊かではない。


夢のなかで、こどもたちはわたしにナイフを突きたてることで "SOS" を発信していた。

わたしにはその "SOS" を伝える責任がある。


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(夢)



深い山ではなかったが 母と二人 道に迷った


     さとし 先に行って道さがしておいで

     なに だらなこというとるがいね こんなとこに置いて行けるかいね


なにげなく3,4メートル下の崖下をみると誰かいるようだ

目に入ったのはうつ伏せになった 女というにはあまりにもあどけない女児だった  

しかも何も身につけていない


他にも何人かいる 男の子もいる そして誰もがまったくの無表情で横たわっている

まるで夢の島※に棄てられているマネキン人形だ


     あの子ら こんなとこで何しとるんやろ

     ちょっと あの子ら なんか普通じゃないわ


普通じゃないのはわかる こんな山のなかで何するでもなく横になっているんだから・・・


母の言う「普通じゃない」は「精神を病んでいる」ということらしい

確かに同年代の騒がしいくらいのはしゃぎぶりもなければ

大宇宙のエネルギーを凝縮したような輝きも感じられない


心を病んだ子らがなんでこんなとこに・・・・ ふと そのうちの一人の男の子と目が合った


と 突然その子が大声をあげた


     あいつら また僕らのおもちゃを棄てにきたんだ


そうか この子ら遊んでるときに大人に玩具をとりあげられたんだ  そして山奥に棄てられた 

それを悲しみ怒っているんだ


そればかりか 心の病んだこの子ら自身も社会から放り出され  ゴミのように棄てられている


状況は呑み込めた  が  いま自分は何をしたらいいのだ  何が自分にできるのだ・・・


次の瞬間 私たちのいる所まで梯子がかけられた

動揺する私を見透かしたようにこどもたちが迫る


声を上げた子が先頭にいる それぞれ手にはナイフが握られている

侵入者に対する攻撃 大人たちへの復讐だ


恐ろしいと言うより こどもたちが可哀想だった

私はこの子らに何を言えばいいのだ 何をいってやればいいのだ・・

どうしたらこの子らを助けられるのだ


何も答えられないでいる私の身体にナイフが次々と突き立てられていく


しかし 表情のまったくなかったこどもたちが私にナイフを突き立てる瞬間だけは

とても悲しそうなこどもの顔だったのは何だったのだろう


気がつくと私は自室のベッドに起き上がっていた


何もできなかった 語りかけてやれなかった・・・自分の無力を恥じた


山の中でこどもたちに出逢ったのは夢には違いない

しかし こどもたちに何も語りかけてやれないでいた自分は現実だ


60年以上も生きてきて 日頃はもっともらしいことを話していても

こどもたちに刺されるまま立ち尽くすしかなかった


まだまだ道は遠い




        ※夢の島


          戦前、東京湾に飛行場建設として埋め立てられたのが始まり。

          資材不足で工事は中止されたが、

          戦後、東京都は当地をごみ処分場として埋め立てを再開、

          埋め立て終了後は東京都立夢の島公園が開園。

          
          スポーツ施設が建設されるなど緑の島となっている。

          ごみの島という雰囲気はない。








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雑 草


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わたしの行動様式は社会全体でみると少数派であるらしい。


何を大切におもうかも「特異」といわれることがある。他人様の人生ではない。当然、それでいいと思っている。

少数派であることに後ろめたさやためらいなどはない。


しかし、少数派であることを認識しておかないと時に面倒なこともおきる。


この季節、白い花をつけるドクダミは無粋な私でも " 風情 " を味わうことのできる植物だ。

なにより、一輪挿しに投げ入れるだけで " 絵 " になってくれるのがいい。

だれが入れても趣があるというのは、いわば、この花の優しさなのだろう。


今の地に転居する際、ドクダミの生えていた辺りの土を持ってきた。

が、このドクダミにたいする愛着をわかってくれる人は多くはない。


この住宅団地ができて15年ほどになろうか。

造成した土はあまり栄養成分の多くない砂のような土だ。当然、植物は育ちにくい。

肥料を施したり土を入れ替えればよいのだろうが、

生来のめんどくさがりの私はクローバーを植えることを思いついた。


生命力の強いクローバーの根に共生する根粒バクテリアの働きに期待してのことだ。

荒れ地に強いクローバーがあることによって小さな生物も集まってくる。自然界の力に期待した。


ドクダミとクローバー。

思えばそれらは園芸家や庭いじりの好きな人から見れば天敵のような存在である。

クローバーの種に数万円かけるなぞはよほどの酔狂にみえるだろう。


足が弱っていることもあって、一昨年は庭の手入れを業者に頼んだ。

ドクダミとクローバーを残し、半日ほどの作業だった。

それを知った友人が昨年、庭の手入れをかってでてくれた。


「じぶん こういうこと すきやし きにせんでいいよ」


友はありがたい。


友が帰ってから・・・・・・


「無理ないわなぁ 多くの人にとっては じゃまな草 やもんな」


ちょっときれいすぎる庭をしげしげと見つめていた。



何故かはわからないが、園芸の好きな人は目的以外の植物をことごとく抜き取ってしまう習性がある。

それが園芸といえばそうかもしれないが、そういう庭はあまり好きではない。


「雑草」を摘み取るのが仕事と考えているようだが、そもそも「雑草」とは何?

じゃまな草を「雑草」というようだが、私からいえば単に「関心がない草」というに過ぎない。

名前も知らない。自然界の中でのポジションなど考えたこともない。それで「雑草」と呼ぶことになる。


転居前の鶴来町の家では敢えて何もしないほったらかしの庭としていた。

当然、うっそうとしていた。


ある日、そんな庭にササユリがはえてきた。花屋で買うテッポウユリと違って愛らしい清楚な花だ。

近所の農家の奥さんが分けてほしいと何株か持っていった。

後日、「枯らしてしまった」というので聞いてみると、大事に育てようと思って周囲の雑草をとり、

根元まで陽があたるようにしたという。


農家の農法というのは自然界には通用しない特殊なものなのかもしれない。

自生してきた環境を壊せば枯れるのも自然の成り行きということだろう。


ほったらかしの庭は人間の身勝手さのない、実は豊かな環境だったのかもしれない。

虫はいる、ミミズはいる、トカゲはいる、ときどき蛇も見かけた。

小さな生物たちのオアシスのような場所だったようだ。


確かに園芸店には売っていないような草ばかりだが、

それぞれに生き生きと茂っているさまは何というか「まったり」とした空間だった。


「風の音、蟲の音など、いとあはれなり」


そんな風情は人工的な庭造りでは味わえないのではないだろうか。

効率を追い求める社会にあって自然との向かい合いかたまで大切なものを忘れてしまっているような

気がしてならない。


自然界の中でポジションをあたえられている草を、名前を知らない、関心がないというだけで、

バッサバッサと切り捨てるあり方はやがて人間関係に対してもそのようにおよぶだろう。

しかし、多様性のない社会は変化に弱く、移植に失敗したササユリの轍を踏むことになる。

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安全保障___政に想定外はない




『レッド・オクトーバーを追え』(The Hunt for Red October)1990年製作のアメリカ映画。


冷戦時代、ソ連ムルマンスク港よりタイフーン級原子力潜水艦「レッド・オクトーバー」が出航する。

この新型艦の処女航海の艦長はマルコ・ラミウスである。


世界の海軍関係者より尊敬と畏怖の念をもって見られるラミウスはソ連の体制に不満を持ち、

レッド・オクトーバーを手土産にアメリカ合衆国への亡命を画策する。


この艦の推進システムは「キャタピラー・ドライブ」といい、全く音を出さずに航行することが可能だ。

これならソ連艦隊の追跡をかわし、大西洋の対岸にたどりつくことが可能である。


乗組員にはキューバに向かう訓練であると説明し、北海を西へ進む。


ソ連軍は艦船数十隻を動員、演習とNATOに通告した上で、レッド・オクトーバーを追跡、撃沈しようとする。

アメリカ合衆国の幕僚会議はソ連軍の動きを警戒、対策を協議するが、

CIAのアナリストのライアンは、ラミウスが亡命するつもりなのかもしれないと直感し、席上で発言する。


「攻撃すべし」の幕僚達からは一蹴され、会議はしらけてしまう。


幕僚達が去った後、議長の国家安全対策顧問ペルトはライアンに「亡命説」を3日以内に証明するように言う。

私がこの映画で最も印象に残ったシーンだ。


国家安全対策顧問ペルトはホワイトハウス高官で政治家だ。

彼は言う。「我々は如何なるときでも、あらゆる選択肢を持っていなければならない」

彼は亡命説を支持しているわけではない。


しかし、国家の存亡に関わる者として、「万一」は許されないとの立場で、

不確かな情報、確率の低いものにまで目配りをおろそかにしない。


仮に、「亡命説」が的外れであっても、民間人であるアナリストが動いただけのことであって、

ペルトの政治生命に傷はつかない。アナリストは使い捨てということだ。政治家は汚い! いやな奴!


しかし、私がその立場でも、やはりそうするだろう。

国民の生命・財産をまもる立場であってみれば、「汚い」と罵られようと、役目をないがしろにはできない。


国民の生命・財産をまもることが政治というものだ。




思えばこの社会はひとがどう動くか見極めてから動く傾向がある。

異論があっても呑み込んでしまう。

ひとと同じ事をしていれば安心していられるからだ。

自分の意見も含め、少数意見を無視して皆が勝ち馬に乗ろうとする。

まさに「みんなで渡れば怖くない」だ。


農耕民族ということと無縁ではないと思うが、この傾向は昔から何もかわっていない。


「お友達内閣」は確かに政策決定まで時間がかからないかもしれない。

反対しそうな人間を委員から外せば審議は進むかもしれない。


しかし、舵取りを修正したり、制御する者がいなければ、

航路を間違っていても誰も気付かず大海原で漂流するだけだ。


この国は70年前に漂流した過去がある。


しかし、原発問題を見るときに、政府・業界が一様に同じ方向を向いていたようで、不気味さを禁じ得ない。

過去に学ぶ姿勢がまったく見えない。


原発推進論者であっても、政府の立場ともなれば、一方で危険を訴える学者の声を尊重し、

脱原発の可能性を常に模索しておくべきだ。


あらゆる選択肢を用意できなければ国の存続は危うくなる。

「想定外」など絶対にあってはならないのが政というものだ。


誰が総理になろうと、一番身近なところに、感性・思考回路がまったく異なる人間を置いて欲しいものだ。

うるさ型というか、ある意味、政敵を置いて方向性が間違っていないか意見を求めるのがいい。

万人のための政なのだから。


一方に流れればこの国は今度こそ取り返しのつかないことになる。






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いのち




近年、目につくのは「死刑になりたかった」という理由で犯罪に走る人たちの存在だ。

相手は誰でもよかったというから被害者はたまらない。


死刑と自殺とを同じ次元で考えている幼稚さも問題だが、

社会全体に "いのち" を軽く考える空気が蔓延している現状がおそろしい。


犯罪を犯した側にのみ目が向けられるが、彼らは何も特異な人種だったわけではない。

その日まではどこにでもいる市民だった。そんな彼らが犯行に走った。そのことの「何故」が問われないまま、

糾弾し、排除したところで社会は何の解決策も見いだすことはできない。


犯罪は悪だ。いのちを大切に・・・その言葉が建前だけであるからこそ、そんな中からまた犯罪者が出てくる。

彼らは異次元空間から突然現れたものではない。


この国はこれから死刑制度を考えよう、ということではない。既に制度はある。それでも犯罪は後を絶たない。

制度の有無と犯罪発生とには何の関連性もない。


制度がなければ犯罪が増えるという主張は妄想の域を出ていない。

死刑制度は犯罪の抑止力になるといってきた人々は論拠を失っている。


くわえて、死刑になることを目的とする犯罪が起き続ける現状である。

死刑制度が犯罪の抑止力になると主張するなら世論の批判に対して論理的に反論すべきではないか。


しかし、制度存続をいう人々はこういう事態に発言しようとはしない。


彼らは "いのち" について深く考えたこともなく、思いつきや一時の感情だけで発言してきた人たちだ。

善と悪という2次元的な思考で人生を捉え、万事それで解決できると信じてきた人たちだ。

反論できない現実を突きつけられては、痴呆症を装うか、死んだふりをするしかないのだろう。


死刑制度がなければ少なくとも死刑志願などという、この種の事件が起きることはない。制度存続の罪は重い。


いのちを大切にと言いながら「殺せ」と言う。この奇妙さに気付けないのであればその人は精神を病んでいる。

死刑制度を存続させること、そのこと自体がいのちを軽視していることに他ならない。

そのことに気付けないで「死刑 死刑」と叫んでいる人こそが明日、向こうの被告席に座ることになる。


事件が起こると識者は必ず「いのちを大切にする教育」をと言う。

学校の教育現場を想定してのことらしいが的外れもいいところである。


社会全体が「生きる」ことを支援しているならホームレスの人々などいないはずだし、

それらの人々を薄汚いゴミのように街から追い出そうということもない。


正規労働者と非正規労働者の待遇を見るとき、

この社会には他人を踏み台にして生きる人があまりにも多いことに気付く。


「勝ち組」「負け組」などとメディアは表現する。しかし、正々堂々と勝負したわけでもなかろう。

搾取し、一方的に切り捨てているだけではないか。それは犯罪ではないのか。


永年社会を支えてきた人が病気になったとき、多くの人は「国に裏切られた」という思いを強くする。

入院したとたん、次の病院を探さなくてはならない。 そして、行った先でも落ち着けるわけではない。


女性ジャーナリストE氏は、

「終身刑は経費がかかる、死刑制度は廃止すべきではない」と自身のホームページで述べている。

このひとの人間観はいったいどうなっているのか。どんな少女時代を過ごしたのだろうか。


「いのちを大切にする教育」が必要なのは学校ではない。


死刑制度は国家による殺人であり、殺人教唆である。

この殺人教唆である点に注目する人は少ない。死刑制度を語るとき、人は実に無責任だ。

罪を犯したんだからしかたないんじゃない? 当然よ。などと平然として言う。


そんな人に私は言いたい。


       では、執行ボタンをあなた自身の手で、しかも一人で押せますか?

       永年の刑務所暮らしで今はすっかり改悛し、聖人のようになっている人を刑場に送り、

       あなたの手で執行ボタンを押せますか?


死刑制度は必要と考える人は人間としてこの問いかけに答える義務がある。 

生涯重い十字架を背負って生き続けなければならない刑務官がいることに思いが至っていないのではないか。

自らが刑務官に対し殺人を教唆するという自覚を持たなければならない。


何年か前にこういう刑務官がでてくるドラマがあった。演じたのは俳優小野武彦。


「私は人を殺しました」彼の台詞が今もって胸に重い。

彼は役としてではなく、人間小野武彦としてこの重いテーマに向き合っていた。

生涯、死刑囚以上に辛い日々を送らねばならない姿は真に迫っていて鳥肌が立つほどだった。

「仕事」とはいってもあまりにむごい事だ。


いのちを大切に考える人なら、法律があるから、仕事だからと無機質に行動することはできない。

公式に当てはめるように「死刑」を言い渡すことはできない。


今、その無機質なありようが問われていることに気付けないようではあまりにさびしい社会ではないか。


「死刑制度は必要」そう考える人は鏡の前でそのことを口にしてみたらいい。

眼前に映るおぞましい自分の顔を見るだろう。それは犯罪を犯した人間の顔とそっくりなはずだ。      


何より気づくべきは、私たちは「自」も「他」も無い世界に生きているということだ。

自他などと分けて考えるから「赦す」とか「赦さない」とか言ってしまう。


「赦す」は、そのまま「赦される」であり、「赦される」は、そのまま「赦す」である。

いのちを大切にするということは、自他など無い「ひとつの世界」に気づくことである。






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感じませんか




Tom Jones が歌った「Green Green Grass of Home」と

森山良子が歌った「思い出のグリーン・グラス 」は同じものである。

原曲は死刑囚を歌っているのに、日本で発売されるときは何故か、若い女性が故郷を懐かしむ歌にされている。


「釜山港へ帰れ」は韓国で作られた歌だ。

内容は釜山港から日本に行ってしまって帰ってこない在日同胞を歌っている。

しかし、日本で発売されるときは、男と女を歌ったものに作り変えられている。


最初、北原ミレイが歌った「漁歌」も、北島三郎が発売するときには歌詞のニュアンスが

がらりと変わってしまった。

もともとの詩は薩摩弁(?)で、漁師の男臭さがただよう味のある曲だった。


しかし、どこから横やりが入ったのか、作詞者は詩をマイナーチェンジしている。

「目黒の秋刀魚」で脂ののったサンマを塩焼きではなく、吸い物にしてしまったような、

味も素っ気もない何ともおかしな歌詞になってしまった。そして今、北原ミレイ版は消えた。


また「朝日のあたる家」を歌っていた名歌手 "ちあきなおみ" も消えた。

「朝日のあたる家」といってもハウスメーカーのコマーシャルソングではない。

アメリカに古くから歌われている、売春宿に働く女たちの歌だ。

浅川マキが日本語の詩を書いているが、これは原曲の意味を反映した詩になっている。


何か感じないだろうか。何処かおかしくないだろうか。

メッセージソングを歌う歌手が消され、歌によっては原曲の良さが消されている。


曲には手をつけてない。要するに、詩が問題であると認識する人がいると言うことだ。

メッセージがあっては困ると言うことだ。何処かから強い圧力がかかるのだろう。


「そのままじゃ発売させないぞ」と。日本はそんな社会なのだ。まさに言論封殺である。


「プロテストソング」や「メッセージソング」を封じ込め「マイノリティグループ」を

排除する空気を感じるのは私だけだろうか。


街からホームレスの人々を追い払う、あの感性と同じものを感じるのは私だけだろうか。

主義主張をもたない、体制に従うお利口さんでなければ生きていけない空気を感じてならない。

美しく、そしてもの静かに生きることを強要されているように思えてならない。


以前、「イムジン河」が発売中止になったことがあった。

圧力ではなく自粛だとされているが、

表現者にとっては検閲に引っ掛かったようなもので、発禁処分を受けた思いであったろう。


この曲はもともと北朝鮮では有名な曲で、

主人公は臨津江を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、臨津江の流れに対し、

なぜ南の故郷へ帰れないのかを嘆き、

荒れ果てた「南」の地へ花の咲く「北」の様子を伝えてほしいと思いを託す内容である。

国交の無い国の歌はよろしくないとの圧力があったことは容易に想像がつく。


しかし、歌はこころの叫びだ。ひとりひとりの人生そのものだ。

誰かを冒涜したり、傷つけるものでなければ誰に遠慮する必要があろう。

権力におもねり、体制におもねっていて自由な社会、民主主義国家といえるのだろうか。


表現者が体制に迎合するとき、社会は危なっかしい方向へ突き進む。

フォークソング歌手といわれた人が元歌の精神を殺すことにアーチストとしての葛藤はなかったのだろうか。

アーチストの誇りに傷がつくとは考えなかったのだろうか。


周囲からの強い要請を感じながら、自分の主張を押し殺して生きるようではこの社会はまだまだ未成熟だ。

人権後進国でしかない。


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天動説の子




こどもサロンに来た子の中に天動説を唱える子がいた。


   「おひさまが ちきゅうの まわりを まわっとるんやね?」


   「どうして そうおもったん?」


   「まいにち みとったもん」


   「ひがしから あがってきて にしのほうへ おりていくの みとったもん」


   「おひさまが いくつも あるわけないし ぐるぐる まわっとるんやね」


凄い! 私などは幼いとき、おひさまは毎日ひとつ出てくると思っていた。


   「じゃあぁ うんと べんきょうして いつか おひさまの せんせいに なるといいね」



何をアホなこと・・・といわれるのが今の時代だろう。

しかし、私はこの豆天文学者にエールを送りたい。

非科学的とあざ笑う人は「科学」の何たるかを知っていない。


自分では何の検証もしないで他人の学説の受け売りで「地動説」をいっているに過ぎないではないか。

人々は本質的にはガリレオ以前と同じであることに気付いていない。

科学は現象の観察から始まる。夏休みの間、ずっと観察して結論を出した子のほうが「科学的」といえる。


思えば今の教育(学校教育も含めて)は子どもの素朴な疑問に答えるような教育、

疑問を育てる教育になっているのだろうか。


子どもの素朴な疑問は本質を突いた鋭いものが多い。

おとなは変にごまかすか、ただの受け売りを披露するに過ぎないのではないか。


NHKの「夏休みこども科学電話相談」はいつ聴いていてもドキッとする。

番組名を「夏休み大人こまらせ電話相談」と替えてもいい。


   うちわであおぐとなぜ風が起きるのですか? (これは実に高度、大人はギャフンだ)


   同じおかずを毎日食べれば飽きてくるのに、なぜご飯は飽きないのですか? (最高!)


   アメンボはなぜ水にうくのですか?(いいね)


   魚はなぜ赤ちゃんの時から泳げるのですか?(いい質問)


   あったかいものを食べると、あたたかい気持ちになるのは何故ですか?(えぇッ?)


するどい! 答える先生がたも大変だ。

昔子どもだった者にも解放して欲しいと思うのは私ひとりではないと思う。 

  
昔子どもだった者は電話して聞きたい。


   エネルギーって何ですか?


   
   空間って何ですか?

   
   時間って何ですか?

   
   そもそも物体とは何ですか?


   
   存在するとはどういうことですか?


   
   生命って何ですか?


   
   生きるってどういうことですか?(宗教的意味ではなく、物理学的意味で)


そんな疑問が私の中にいっぱいあって・・・


この私のさまざまの疑問を解いていくのはどうも「量子論」という学問にあるらしい。

このことがわかったのは最近のことだ。

青年老い易く学成り難しだ。すこ~し気付くのが遅い。だいぶ遅い。


  (ニュートン以来の近代科学の先にある量子物理学の世界で論ずるようなことに疑問を持ってしまった少年に

   解答を与えてくれる先生は少年の周りにはいなかった。)


時とともに疑問がなくなってしまう大人たちがいる。時とともに疑問がどんどん増える子がいる。

用意された解答では納得できない子がいる。素朴な疑問を抱き続ける子がいる。


素朴な疑問を受けとめるのは学校では無理なのだろうか? 先生がたでは無理なのだろうか?


そんな子どもたちは落ちこぼれと呼ばれるしかないとしたら、

社会は宝石の原石を磨かぬまま放置することになりはしないか。

学校が無理なら学校以外を用意する必要がある。


無論、私などはどう磨いてもただの石でしかないが・・・・








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学校へ行く意味




大谷大学卒業生のかたから聞いた話。




学生たちが学長先生担当の「真宗学」(親鸞の思想)の講義に出たときのこと。

ある学生が学長先生に質問をした。(残念ながら、内容は話してもらえなかった)


学長とは当時90歳の曽我量深先生である。後に昭和の名僧と語られる真宗学の権威である。

そんな大先生だから学生の質問にはいとも簡単に、しかも理解しやすく答えてくださると誰もが思っていた。


ところが・・・ 曽我先生は沈黙のまま考え込んだという。


5分、10分・・・時間が刻々と過ぎていく・・・

学生たちの言葉によると、腕時計の秒針の音が教室に響いて聞こえたという。

まさか秒針の音は聞こえないと思うが、どれほどの緊迫感かは想像がつく。


やがて先生は顔を上げ、


     申し訳ありません。あなたにお答えするだけのものを私は今、持っておりません。

     さらに精進したいと思います。申し訳ありません


と、何度もその学生に謝られたという。


場に居合わせた学生たちは感動のあまり鳥肌が立ったと熱く語っていた。


孫のような学生に対し、適当な言葉でお茶を濁すこともせず、

真摯な姿勢で臨まれる大先輩の態度に接し、「この大学へきて良かった」と心底から思えたという。


この状況を文字にするとどうだろう。

学生が質問した。先生からは答えがなかった。それだけになってしまう。通信教育ならそんなことになる。


しかし、大事なことは秒針の音まで聞こえたという、その緊迫感を味わったことだ。

大先輩の真摯な姿勢を目の当たりにしたことだ。


何も答えが無かったのではない。大きな大きな答えを先生からいただいたのだ。

こころの宝石箱で生涯輝きつづける "大切なもの”をいただいたのだ。

独学や通信教育では決して得られないことだ。


学校へ行く意味とはこういうことだと思う。






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政党助成金




身を切る改革をいうなら政党助成金をこそ、その対象にするべきであろう。

支持したくない政党の活動を支援させられるのはごめんだ。

この制度は理不尽ではないか。

憲法19条(思想及び良心の自由は、これを侵してはならない)に違反する。


百歩譲って、大きな支援組織のない者の政治活動を保障するというのであれば

それは政党ではなく議員個人に対してなされるべきだろう。


政党のボスが財布を握り党員を意のままに操縦する図式は民主主義が想定した姿ではない。

議員個人の政治活動は最大限尊重されねばならない。


政治活動を保障するというということが議員に対してではなく、

政党にという発想が出てくるところにこの国の政治的未成熟を感ずる。








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これでいいのか選挙のしくみ




投票率の低さが言われるようなって久しい。

ひとが集まれば何らかのかたちで必ず話題になる。


何処かの国のような100パーセントの投票率も問題だが、

わずか30~40パーセントの投票率で選ばれたひとが政治を行なっていいものだろうか。


30~40パーセントの支持ではない。

これで民意を反映した政というなら傲慢である。


「若い世代が動かない」 政治意識の高さを自負するひとびとはそう言って顔をしかめる。

しかし、動かないのはむしろ私を含めた旧世代だと思われてはいないだろうか。


考えてみれば暮らしに関わるさまざまなことを決める "方法" は私の幼少期も今も基本的には

何も変わっていない。

選挙で選ばれたひとが集まり、多数決でものごとを決めていく。


確かに選挙制度はすこしずつ変化してきてはいる。

小選挙区制が導入されたし、参議院の全国区も無くなった。


しかし変わらないのはいつの時代でも多数を占める勢力が自分たちに有利に働くような制度を作ることである。

2次元的な思考を繰り返し、小手先で制度をいじくっていても民意を反映しない "方法" は何も改善されない。


多数決が民主主義の基本である、そう信じている人は多い。本当にそうだろうか。


51パーセントのひとが49パーセントのひとの意志を抹殺してしまう、これは本当に正しいことなのだろうか。


町内会の各班の中で棄てられていった意見がある。

校区の中で棄てられていった意見がある。

自治体の中で棄てられていった意見がある。


そうして出来上がったものが県レベルの意見と言うのであれば、

そこでいう民意というのは虚しさの結晶でしかない。




オーディオ雑誌に時折アンプのランキングが発表されることがある。

その年に販売された機種の中から評論家といわれる人々が優良製品を投票で選んでいくというものだ。


しかし、ここで上位にランクされた機種が多くのひとの共感を得るとは限らない。

趣味の世界ということもあろうが、全員が「良い」と選んだ機種ほどつまらないものはない。


確かに一定の水準にはある。

しかし、「馬鹿ちょんカメラ」などと揶揄される全自動のカメラで撮った画像がもの足らないのと同じで、

結局は誰の満足も得られない。


ひとり一票で投票するとこういうことが起きてしまう。




総意を求めていく投票のやり方もさまざまな方法があることを学ぶべきだ。


投票用紙にひとりの候補者の名前を書くということが定着しているが、

あの人もこの人も選びたいと思ったことは無かったろうか。

逆に、あの人だけは絶対に選ばれてほしくないと思ったことはなかったろうか。


     ひとりの名前を書く


     複数の名前を書く


     すべての人を持ち点で評価する


etc さまざまな工夫が議論されてよいはずだ。

投票を2回行なうことも議論されてよいだろう。




この「死に票」の多い制度が改善されたとしよう。それでも問題は残る。


私たちは立法府の議員を選ぶ。そこで法律を作っていくと教えられてきた。確かにそうではある。 
 
が、基本的なところを押さえておかなければならない。


正確に言えば、官僚が作った議案を妥当かどうか議論しているだけでしかない、ということだ。

議員立法というものもあり、提出される議員が大変なご苦労をされていることもよく知っている。


しかし、基本的には上記のような図式だ。

「賛成」「反対」「修正」のほかに選択肢が無いとしたらどうだろう。

いとも簡単に恣意的に方向付けられていくように思うのはあまりにうがった見方だろうか。


「他に必要な法律があるだろう」という有権者の素朴な思いとかけ離れたところで

メディア監視法は成立してしまった。


「そもそも論」というか、「哲学」というか、

大切なものがないがしろにされたまま霞ヶ関発信の議案が国会で討議されている。

これは民主主義政治といえるものなのだろうか。


民意の反映という極めてあたりまえのことについて私たちは今一度検証すべきである。


「若い世代は政治意識が低い」と批判するのは簡単である。

しかし、彼らのメッセージを正確に読み切れないでいては投票率は限りなく "ゼロ" に近づくのは間違いない。








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夜はほの暗く


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わが家にはどの部屋も天井面に直接付けるタイプの照明がない。


リビングにはソファーの横にスタンドがあって、

あとは吹き抜けの天井に写真スタジオのようなスポットライトが11個並んでいるだけだ。


これは日頃滅多に点けない。6年前、たくさんの花が届けられた日に点灯したくらいだ。


だから夜は暗い。

部屋に明るい部分と陰の部分ができている。

そうであっても新聞はちゃんと読める。


食卓にはペンダントライトがひとつ。

寝室はダウンライト、ブラケットライト、ベッドの枕元に小さなスタンドがある。

書斎はブラケットライトとアーム式の蛍光灯スタンドが2個。 

 
と、全室こんな具合だから全体として、夜は暗い。


家づくりにあたって考えた。

ひとは何故、灯りを点けるのか。そもそもひとにとって「夜」とは何なのか。


むずかしく考えず、日常を振り返ってみた。


ひとは朝日を見れば一日の生活の始まりを感じ、気持ちも高揚する。

逆に夕陽の中にあっては安らぎや落ち着きに浸れる。

昼間に活動し、夜は眠るわけだから当然といえば当然だ。


天体の動きと連動して生活のリズムが決まってくるわけであって、

偉そうなことをいっても原野に生きる獣たちと基本的には何も変わらない。

小さなアクシデントや、ちょっとしたハプニングに出会いながらも、

地上の生き物はみなリズミカルに生きている。


であれば、われわれ人間が夜に活動するということは極めて異常なことに違いない。

本来のリズムにさからっているということになる。

考えてみれば人間の他に、灯りを点ける生き物などいない。


体内時計というものがある。

時計遺伝子とかホルモンの働きとか、結構むずかしいのだが、

ここでは「規則正しいリズムを作る体の働き」としておく。


ほ乳類はこの体内時計によって昼夜の暮らしをリズミカルに営んでいるわけで、

この体内時計の働きが乱れてくると


   がんにかかりやすくなる。


   うつ や 記憶力の低下 や 高齢者の「認知症」の危険。


   高血圧や心臓病、糖尿病などの危険性が高まる。


などがいわれている。


天体の動きと連動している体のリズムを乱すということは大変怖いことなのだ。

気合いで何とかできるというものではない。


体内時計を活性化させるためには、昼夜にメリハリをつけることが非常に大切だ。

夜も昼のようにというのでは時計のリズムも狂ってきてしまう。


にもかかわらず、ひとは照明といえば、明るくすることしか考えようとしない。

夜を明るくすることこそが文明だと勘違いしているひとが多すぎる。

より明るく・・・というのは生産現場の考え方であって、

寛ぎや安らぎを求める場には決してふさわしいとはいえない。


家庭内の照明は間接照明であったり、やや低めの位置に取り付けるとか、

圧迫感のない工夫が必要だ。

頭の上から照らされていては安らぎ感は得られない。

色も暖色。夕陽に近い色がいい。陰を作るということも寛ぎのためには必要だ。


我が家を新築する際の「明かりのプラン」は「昼は明るく、夜はほの暗く」ということにした。

体内時計の活性化を図り、病気を近づけないことが最大のねらいだった。


思えば、社会は昼夜を問わず動いている感がある。

TVも店舗も工場も・・・・


しかし、そこに働いているのが人間だということを忘れてはいないか。

体内時計が狂ったままではひとはもたないのだ。


生き生きとした暮らしがないまま、少子化問題を論じてもどうにもなるまい。

こういう暮らしがあたりまえだと思わされている。

昼も夜もない暮らしはまるで養鶏場のニワトリのようだ。

人間とニワトリだけが胃潰瘍になるという。


資本家だけが潤うような生き方を強要されていては人間もやがてフライドチキンにされてしまう。


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