母のほめ言葉




「おいしかったあ」

うかつにも、私は最近までこの言葉の力を知らなかった。

60歳の晩秋、なんの心の準備もないまま食事作りが母から私に移った。



今にして思えば三度三度の食事を作るなど、

インスタントラーメンしか作ったことのない私には想像を絶するハードルの高さだった。

しかし、不安や戸惑いは不思議となかった。

というより、立ち止まってあれこれ考える ”時 ”が私にはなかった。



「あと3,4ヶ月と思ってください」

母が胆嚢癌の末期と宣告されたときから仕事はすべてキャンセル。

「どうやって食べてもらうか」 のみになった。



少量でもバランスのよい食事とは・・・・

食べることに興味をもってもらう工夫とは・・・・

一日中、頭の中をかけめぐっていた。

やったことがない、そんな言い訳をする余地はなかった。



どうやって食べてもらうか。

とはいっても、私にはレシピの引き出しなどありはしない。

まして、食欲があっての食事と食欲の無い人向きとでは内容も変えなければならないはず。

知恵をしぼらねばならない。

しかし、むずかしく考えたら何もできない。

調理も栄養学も何も知らない人間なのだ。



ふと、ムッシュ村上、村上信夫さんの言葉をおもいだした。

「世の中で一番おいしい料理、それはお母さんの料理だよ・・・」

そうか、できるかできないかではなく、どれだけ食べる人の気持になれるかだ。



すると不思議なほどレシピがわいてきた。

ワラビを茹でたり、ミョウガの甘酢漬けを作ったり、鮎に串をうって塩焼きにしたり・・・

納豆ひとつとっても、包丁で刻んだり、大根おろしや刻みネギを入れたり、おかかと混ぜたり・・・・

と、自分でも信じられないほど手が動いた。

習ったこともない、教えてくれる人などいない。

永年母の作っていた味を再現することだけを考えた。

それにしても切羽詰まると何でもできると言うことか。



「おいしかったあ」



「その日」 が一日一日近づく中で母のひと言は何よりうれしかった。

食がすすむという安堵感、きょうも生きているという喜び。

「おいしかったあ」 のひと言がこんなにも力強いメッセージをもっていることを初めて知った。



    「ありがとう」


    「私はまだ元気でいるよ」


    「心配しなくても私は大丈夫」



いろんな思いが伝わるひと言だった。

かえりみると私は過去に母に対してこれほど思いを込めた ”おいしかったあ ” をいったことがあったろうか。

あたりまえのように作ってもらい、形式的な ”ごちそうさま ” しかなかったように思う。

見守るつらさ、見守る喜び。すこ~しだけわかった気がする。



”サラダ記念日 ” ではないけど、七ヶ月のほとんどが記念日になった。

「この味がいいね」 という母の笑顔が忘れられない。



          ”湯豆腐記念日 ”


          ”カレイの煮付け記念日 ”


          ”納豆記念日 ”


          ”ふろふき大根記念日 ”


          ”黒豆記念日 ”


          ”鮎の塩焼き記念日 ”


          ”ほうれん草おひたし記念日 ”


          ”じゃがいも煮もの記念日 ”


          ”味噌汁記念日 ”


          ”おでん記念日 ”


          ”なすオランダ煮記念日 ”



          その他記念日でいっぱい・・・・・




作った者への最高のほめ言葉 「おいしかったあ」 にささえられた七ヶ月だった。
              








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若手医師を育てる後援会




2008年の秋、ある後援会に入った。今風にいうならサポーターになった。


周りの誰もが知るように、私は根っからの組織嫌いである。

いや、「組織嫌いである」などと言っているのは私だけかも知れない。

遠慮のないもの言いが災いしてか、ついぞ先様からお誘いなど受けたことがない、

というのが本当のところだ。


終生、自由人でありつづけたい私にとって、会の規約だの煩わしい人間関係だのはどうも苦手である。

まして、政治家が絡んできたり、宗教色が出てくるともう駄目である。


そんな私がサポーターになったのも、政治家の影もなく、

一応は「学生を立派な職業人に育てよう」という崇高な理念のためだ。

なにより入会金や年会費など一切必要としない。ここがいい。今の私にとっては大事なポイントだ。


そんな会から例年、物故者の追悼集会の案内が届く。入会するひとは多くはなく、亡くなるかたが目立つ。

ここにも少子高齢化は如実に表れている。社会の行く末が案じられる。




幼い頃から私は医者が苦手だ。もっとも「大好き」というひとも多くはなかろうが。


ことに歯医者というあの理不尽なもの言いをする種族とはとても友人関係になれるとは思えない。

こちらの口にさまざまな道具を遠慮なく突っ込んでおいて、

「痛かったら言ってください」とは何事だ。言えるか !!


若い頃に通った職場近くの歯科医の場合は最悪だった。


若尾文子か大原麗子を思わせる美人の先生だ。これがいけない。

そんな清楚な印象の超美人が、見た目とは裏腹の信じられない鬼のような腕力でひとのことを押さえつけ、

拷問を楽しむがごとき振る舞いには私ならずとも女性不信になろうというものだ。


やはり、歯科医は同性がいい。


薬の呑み方も昔から下手だ。粉薬は喉に貼り付きそうで今もってうまく呑めない。




そんな私も、大阪万博のあった1970年に輸血を受けることがあった。生死をさまよった夜があった。


それが原因での肝臓病と知ったのは16年後のことだ。

そして今も解説本に書かれてある通りの病状を順調(?)に歩んでいる。


幸不幸というのはこちらの都合で言うだけのことであって、

何にしても解説本通りというのは、私も自然の摂理に沿って生きているということである。

摂理から外れることのないそんな命を今は喜んで受けとめている。




思えばこれまで多くのドクターのお世話になった。67という齢を考えればさほど不思議でもない。


ことに母が癌になったことでドクターやスタッフの皆様の "仕事" を超えた思いに触れる機会があったことは

私の人生観に強く響くものがあった。サポーターの件も動機はここにある。




2008年6月8日(日)、宗平医師は早朝より来てくださっていた。


姉の一人と孫達が母を看ているなか、私たちは別室で病状について説明を受けていた。

と、突然「先生!」と姉の声。

先生はすっ飛んで母の部屋へ。  ところが、私の足元には診察カバンが・・・・


最後の診察のため血圧を測ろうとする先生。カバンのないことに気づく。

間髪入れず脇からカバンを差し出す私。

ほんの一瞬のことであり、先生の動揺に気がついた者はいない。


一連の診察を済ませ、宗平医師が言ったのは、よくドラマにあるような「ご臨終です」ではなく、


     さとしさん おかあさんの そばへ いってあげて


だった。そんな宗平医師の心遣いが嬉しかった。


ところが、私と場所を入れ替わった瞬間、大きな声で


     ごめんなさい


と号泣する宗平医師。

「苦しむ時間が長くなるだけだから注射は止めよう」の提案をしたことを言っておられるのだ。

人前もはばからず号泣する大人を見ることなどそんなにはない。


( おいおい カバンは忘れるわ 号泣するわ あんた医者だろ しっかりしろ !!  )


こんな医師は見たことがない。胸が熱くなった。


後に奥様から伺ったのだが、先生は数日前から母のことが気になって一睡もしていなかったという。

これはもう医師ではない。気持ちは完全に家族の一員になっていた。

家族の一員として診てくださっていた。


無論、すべての患者に「思い」を入れておられないのも医師ではある。

場合によっては「思い」が邪魔になることもあろう。


しかし、医師に冷徹な洞察力と俊敏な判断に加えて、ひととしての熱い思いがあることは、

患者とその家族にとっては大きなささえになる。


治療中もさることながら、母を送ったのちも満ち足りたものを感じておられるのも、

そうした "ひととしての医療" があったればこそだ。


そんな宗平医師のような臨終に号泣する医師が育ってくれることを願って、サポーターになった。


資力もなく、体力もない私にも、社会に貢献できる生き方(?)が残されていたことが嬉しい。

役に立つ日までは借り物の体のような気分だ。

いい状態で(何がいい状態かわからないが)役立てるよう健康に注意したい。


私の会員No。は 1095 である。






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ユニオンジャックのガラス窓__幼い日に帰還兵を出迎えた



Mado_2




放課後、近所に住む石谷君と路地で遊んでいた。 

と、何やら街の様子がいつもとちがう。


おとなたちはそれぞれに


「やまださん が・・・」


と口走りながら駅の方へ走っていく。

遊んでなんかいちゃいけない。こども心にもそれくらいの察しはついた。


「おい  いこう」


石谷君は走りだしていた。


熟知した近道を抜けると駅前はすでに大勢のおとなたちが集まり秋まつりのようだ。

町長さんがいた。校長先生もいた。郵便局の局長さんの顔もあった。

母の同級生のおばちゃんたちの顔もたくさん見えた。母もいた。


私が住んでいた鶴来(つるぎ)は金沢の南約16キロにある、当時1万人が暮らすのどかな町だ。

金沢・白菊町駅からローカル線で30分ほどかかる。


駅舎には「山田義光君」と書かれた大きな垂れ幕が下がっていた。

やがて "山田さん" という男のひとが現れた。年かっこうは母ぐらいか。日焼けした顔のやせた感じのひとだった。


「やまだ よしみつ くん ばんざあい」


「やまだ よしみつ くん ばんざあい」


大きな声が なんども なんども なんども なんども 街に響いた。

"山田さん"も軍隊調のお辞儀でそのつど応えていた。


女のひとたちはみな泣いていた。

男のひとたちは口をキリリとして微動だにしないでいた。

必死にこらえていたのだと思う。


1956年小学3年生の時だ。


思えば母と同い年のひとたちが最も悲惨だった。

国の勝手な理屈で青春を中断され、戦地に送り込まれた。

そして学年の半分以上が還ることはなかった。


還って来たひとたちもよろこんでいるひとはなかった。友を半分以上失ったのだ。

還れたことを素直に喜べないないのは察してあまりある。

どんなに悔しかったか。どんなに国を恨んだか。おおっぴらに口に出来ないだけになおさらだろう。


曾祖母の代から交流のある横山家の亀茂さんは片足を失った。

母と同い年で、よくお茶を飲みに訪れていた。


テレビに流れる戦争ドラマに「あんなかっこいいもんでない」と一言。

そして無口になり、遠くを見つめていた。

何十年経っても癒えないものを抱えているのが伝わってきて、こちらも辛くなったのを思い出す。


何のための戦争だったのか。誰のための戦争だったのか。


「いまは いい じだい や ぞいや」(今はいい時代だよ)


亀茂さんが時折もらした言葉は


「自分たちの悔しさをきっと伝えてくれ」


と私には聞こえた。


母と学年が一緒だったひとはもうほとんどおられない。

私たちが伝えていかないと青春を奪われるひとがまた出てくる。

私たちにあたえられた宿題は大きい。


小学3年に体験した駅前での出来事が "山田さん" を送り出す行事ではなく、

帰還の歓迎であったことが私にとってはせめてもの救いである。

まだ、どの家にも空襲に備えてガラス飛散防止のためのユニオンジャック状の紙が貼られていた時代だった。


あなたは ユニオンジャックのガラス窓を 知っていますか。






原爆を許すまじ
http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week19/index.html#entry-76444807


過ちは繰返しませぬから
http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week32/index.html#entry-77262968






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紅ショウガのおにぎり



小学校時代の遠足は誰のこころにも "遠い日のよき思い出" として格別なものがあるだろう。

わたしが育った鶴来(つるぎ)は扇状地のかなめに位置することもあって、

遠足といえばほとんどが山歩きだった。


里山の際にあるとはいえ、家業が林業でもなければ山路を歩く機会はさほどにはない。

体格、体力面で皆より劣ること、クラスで1,2のわたしにとっては憂鬱で辛い行事だった。


反面、クラスの仲間を圧倒できる唯一の機会でもあったわけで、

私はその楽しみを内に秘めてみんなの後を必死でついていったものだ。

そういったときの弁当といえば、今も当時も「おにぎり」というのが定番。

もちをよくするための梅干しの酸味は疲れもとれて良い。


ほとんどのクラスメートが「梅干しおにぎり」の中、わたしのというか、母のおにぎりは真っ赤だった。

紅ショウガのおにぎりである。全体に刻んだ紅ショウガを混ぜ、海苔で包んだものである。


近年ではさほど珍しいものではない。

しかし、当時そんなおかしなおにぎりを作る人などどこにもいなかった。


草いきれの里山のなかで、そのおにぎりの紅色はひときわ目立っていた。


澄んだ空気のなかでほおばる紅いおにぎりはショウガの辛みが実によい。


不思議なものを見るような、うらやましそうな視線の中で味わうことがさらに快感でもあり、

あらゆる面で劣等感を味わうことの多かった少年がひさびさに胸をはれるひとときだった。


「かあちゃんは こんな すごいもの つくれるんやぞ」


叫びたいほどだった。


思えば母は料理が好きだった。しかし、あまり料理の本など手にしているのを見たことはない。

それにしては創意工夫して本に載っているような一品を作ることを楽しんでいるひとだった。


後年、叔父にあちこち連れて行ってもらったのが下地になっているだけと笑ってはいたが、

この地方でカレーライスを作ったのは多分自分が最初だろうといつも自慢にしていた。


好奇心旺盛というか、怖いもの知らずというか、どんな料理にも挑戦してみないと気が済まないひとでもあった。

調理好きは若いときかららしい。


養母に


「おまえみたいに調味料たんと使えば 木っ端屑でも食べれるわ」


と調味料を制限されても、

自分でウスターソースを作ってしまったというから、反骨精神もかなりのものだったようだ。


家を訪れた守部氏に甘鯛の吸い物についてレクチャーしているのを見たときは

息子のわたしでさえ唖然としたものだ。

守部氏は当時、食通が通うことで有名な築地にある割烹のオーナー板前であった。

そんな人物を相手にレクチャーするのだからいい度胸のひとである。母66歳の時である。


姉弟の中ではわたしが最も母の味を知っていることになる。

しかし、60年間そばにいて「何を」は学んだが、「いかに」を学ばなかったのはかえすがえすも残念である。     


とはいっても、「学ぶ」ということは存外こんなものだろう。「いかに」は自分で開発するしかないものと思う。

「何を」を学んだことはわたしの財産である。





葛の花 踏みしだかれて色あたらし この山道を 行きし人あり
                        


                                    釈迢空






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出会い___医療ということ




知り合いの母上が亡くなられた。肺がんだった。


一度お目にかかっただけだが、おっとりした、テレビ初期のホームドラマにでも出てきそうな上品なかただった。

昭和元年生まれということだから亡くなったこと自体は驚くお歳ではないかも知れない。


しかし、ご家族からお話をうかがい、いま私はもって行き場のない怒りを覚えている。


初めて病院を訪れて以来うつ状態になられていたという。

医師の言葉にショックを受けたことが原因らしい。



      ああ、これは末期の肺がんです。


      助かりませんね。よくもって半年でしょう。
  



診断結果を伝える医師はこう言ったという。

付き添われた長女のかたの話だ。

にわかには信じられない思いだが、本人に直接言ったというから言葉もない。


確かに、この問題は非常にデリケートなことではある。

しかし、医療側はこの問題から逃げてはいないか。

死刑執行について、ベルトコンベアで機械的にとの意見を述べた人間と同じ感性を感じる。


"こころの問題" というデリケートな世界には立ち入りたくない、

指針を示してもらえればそれによって行動したい、そんな医療側の本音が透けて見える。


メディカルマシーンの彼らには "こころの問題" を扱うだけの感性もなければ意欲、能力もない。


患者には自分の病状について知る権利がある。医療側がそれを拒むことは許されない。

だから医療側は後で訴えられないように告知という形で情報開示するのだという。


冗談じゃない !! 

これでは患者のためではなく、自分たちの責任逃れのための告知ではないか。

欧米かぶれの連中が訴訟社会のアメリカの悪しき論理に倣っただけのことではないか。

知る権利がある という事と 知る義務がある を混同していないか。 


ケースによっては、積極的に治療に専念していただくために病状をきちんと説明する必要もあるかも知れない。

ケースによっては、ご本人の人生を成就させるために残された時間を伝えることもあるかも知れない。


さまざまなケースがあり、一様にこうだという対応がとれるものではないはずだ。


しかし、どんなケースでも共通するのは医師と患者の信頼関係が必要不可欠だということだろう。

それなくして医療はあり得ない。

いきなりの告知は無謀極まりない。

あっていいはずはない。


無神経に告知をすることがその医療機関の方針というなら、そのことを社会に発信しておかなくてはならない。

患者側に選択肢があっていいのは当然だ。


告知がうつ状態の直接の原因であれば、これは医療行為などではない。

傷害罪が適用できる犯罪である。

悲しみに打ちひしがれた中で亡くなられたお母上はまことにお気の毒だ。

ご家族もどれほど残念なことであろう。




末期の胆嚢癌だった私の母の場合、病院は私たち姉弟にのみ告知し、母への告知は私たちに委ねてくれた。

後日、私は数枚の作文を書いて主治医を訪れた。

そして、主治医は私の台本にしたがって "嘘つき" になってくださった。「お腹に菌がいるんです」と。



亡くなる前1ヶ月半は自宅近くのホームドクターに診ていただいた。

主治医の先輩であるホームドクターには台本が引き継がれていた。

私は二人の医師を "嘘つき" にしてしまった。


家で看取りたい、この願いのためホームドクターやスタッフの皆さまには大変なご迷惑をかけてしまった。

ホームドクターは大型連休にも実家の岡山へは帰らず、医院で待機していてくださった。



                           
      剱さん、気にしないでください。


      私が当事者でも、やはり家で最後を迎えたいと強く思います。


      私も若い頃は医療を優先していたように思います。


      でも、今は患者さんのお気持ちがよくわかるようになりました。


      無機質なメディカルマシーンではなく、患者さんの側に立った医師でいたいと思います。


      ですから決して気になさらないでください



最後の日は日曜日ということもあり、早朝から来てくださっていた。

臨終を確認した直後、私たち家族は号泣する医師が神々しい空気に包まれているのを感じていた。   

   
本人はこころ穏やかな日々を自宅で過ごし、子や孫に見守られ、優しい先生に最後の瞬間まで診ていただいた。

これはこの時代奇跡に近いことかも知れない。








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サポーター




2008年の秋、ある後援会に入った。今風にいうならサポーターになった。


周りの誰もが知るように、私は根っからの組織嫌いである。

いや、「組織嫌いである」などと言っているのは私だけかも知れない。

遠慮のないもの言いが災いしてか、ついぞ先様からお誘いなど受けたことがない、

というのが本当のところだ。


終生、自由人でありつづけたい私にとって、会の規約だの煩わしい人間関係だのはどうも苦手である。

まして、政治家が絡んできたり、宗教色が出てくるともう駄目である。


そんな私がサポーターになったのも、政治家の影もなく、

一応は「学生を立派な職業人に育てよう」という崇高な理念のためだ。

なにより入会金や年会費など一切必要としない。ここがいい。今の私にとっては大事なポイントだ。


そんな会から例年、物故者の追悼集会の案内が届く。入会するひとは多くはなく、亡くなるかたが目立つ。

ここにも少子高齢化は如実に表れている。社会の行く末が案じられる。




幼い頃から私は医者が苦手だ。もっとも「大好き」というひとも多くはなかろうが。


ことに歯医者というあの理不尽なもの言いをする種族とはとても友人関係になれるとは思えない。

こちらの口にさまざまな道具を遠慮なく突っ込んでおいて、

「痛かったら言ってください」とは何事だ。言えるか !!


若い頃に通った職場近くの歯科医の場合は最悪だった。


若尾文子か大原麗子を思わせる美人の先生だ。これがいけない。

そんな清楚な印象の超美人が、見た目とは裏腹の信じられない鬼のような腕力でひとのことを押さえつけ、

拷問を楽しむがごとき振る舞いには私ならずとも女性不信になろうというものだ。


やはり、歯科医は同性がいい。


薬の呑み方も昔から下手だ。粉薬は喉に貼り付きそうで今もってうまく呑めない。




そんな私も、大阪万博のあった1970年に輸血を受けることがあった。生死をさまよった夜があった。


それが原因での肝臓病と知ったのは16年後のことだ。

そして今も解説本に書かれてある通りの病状を順調(?)に歩んでいる。


幸不幸というのはこちらの都合で言うだけのことであって、

何にしても解説本通りというのは、私も自然の摂理に沿って生きているということである。

摂理から外れることのないそんな命を今は喜んで受けとめている。




思えばこれまで多くのドクターのお世話になった。67という齢を考えればさほど不思議でもない。


ことに母が癌になったことでドクターやスタッフの皆様の "仕事" を超えた思いに触れる機会があったことは

私の人生観に強く響くものがあった。サポーターの件も動機はここにある。




2008年6月8日(日)、宗平医師は早朝より来てくださっていた。


姉の一人と孫達が母を看ているなか、私たちは別室で病状について説明を受けていた。

と、突然「先生!」と姉の声。

先生はすっ飛んで母の部屋へ。  ところが、私の足元には診察カバンが・・・・


最後の診察のため血圧を測ろうとする先生。カバンのないことに気づく。

間髪入れず脇からカバンを差し出す私。

ほんの一瞬のことであり、先生の動揺に気がついた者はいない。


一連の診察を済ませ、宗平医師が言ったのは、よくドラマにあるような「ご臨終です」ではなく、


     さとしさん おかあさんの そばへ いってあげて


だった。そんな宗平医師の心遣いが嬉しかった。


ところが、私と場所を入れ替わった瞬間、大きな声で


     ごめんなさい


と号泣する宗平医師。

「苦しむ時間が長くなるだけだから注射は止めよう」の提案をしたことを言っておられるのだ。

人前もはばからず号泣する大人を見ることなどそんなにはない。


( おいおい カバンは忘れるわ 号泣するわ あんた医者だろ しっかりしろ !!  )


こんな医師は見たことがない。胸が熱くなった。


後に奥様から伺ったのだが、先生は数日前から母のことが気になって一睡もしていなかったという。

これはもう医師ではない。気持ちは完全に家族の一員になっていた。

家族の一員として診てくださっていた。


無論、すべての患者に「思い」を入れておられないのも医師ではある。

場合によっては「思い」が邪魔になることもあろう。


しかし、医師に冷徹な洞察力と俊敏な判断に加えて、ひととしての熱い思いがあることは、

患者とその家族にとっては大きなささえになる。


治療中もさることながら、母を送ったのちも満ち足りたものを感じておられるのも、

そうした "ひととしての医療" があったればこそだ。


そんな宗平医師のような臨終に号泣する医師が育ってくれることを願って、サポーターになった。


資力もなく、体力もない私にも、社会に貢献できる生き方(?)が残されていたことが嬉しい。

役に立つ日までは借り物の体のような気分だ。

いい状態で(何がいい状態かわからないが)役立てるよう健康に注意したい。


私の会員No。は 1095 である。






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かこまれて暮らす


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5歳の頃に住んでいた、鶴来・新町の家は大きな家だった。


前方は店になっていて、通り庭をすすむと、囲炉裏のある、吹き抜けのオエになっていた。

典型的な商家の造りで、自在鉤(じざいかぎ)には鉄瓶が掛かっていた。


                   ※ オエ:民家において大戸口から入った取付きの一室


オエの隅に大きな蓄音機があった。

小さめの冷蔵庫ぐらいの大きさだ。上部がプレーヤー部分、観音開きの下部はスピーカーになっている。


電気で動くわけではない。手回しのゼンマイ式だ。

ゼンマイに力のあるときは速く、次第に遅くなるという、今日では考えられない代物である。

針は鉄針で、レコード毎に交換していたように思う。 


ボリューム調整などなくとも当時の音楽好きには堪えられない逸品だったろう。 


急逝した叔父は手入れの行き届いた愛機を聴くとき、

波瀾万丈だった人生にあって、しばしの至福を味わったに違いない。


エボナイト製のレコードで聴く「碧空」は叔父の心にどんな風に響いたのだろうか。

他に、「ドリゴのセレナーデ」「幻想即興曲」「ショパンの小品」などあったのも覚えている。


「軍艦マーチ」を鳴らすと、「MPがやってきて検挙されるぞ」と言われた時代だった。


私の音楽・オーディオ好きもルーツはこの頃にあると思う。

止められなければ一日中でも同じレコードを聴いているこどもだった。


いま、寝る間も惜しんでオーディオの調整に励む姿は5歳の頃とどこも変わっていない。


基準にしている音も幼いとき聴いた「碧空」であるような気がする。

「かこまれて暮らす」影響というのは実に大きなものだ。


作曲家の池辺晋一郎氏も幼いとき家にあったピアノで遊んでいたと語っておられた。

「雨のテーマ」「花のテーマ」などまったくの遊びで音を作り出すのが好きだったという。


家族のピアノが傍にあった。そこから始まったということだろう。

才能があったのは勿論だが、才能を開花させる土壌としての環境、空気がそこにあったことを忘れてはならない。


最近は音楽もインターネットでダウンロードして買い求めるという。

確かに便利ではあるし、省資源ということにもなろう。店が近くになければそうせざるを得ないということもある。


しかし、ダウンロードした情報をハードディスクに入れておいて音楽的感性が育まれるものだろうか。

五感すべてに訴えかける「物」がそこにあってこそ感性が芽生え、育ってくるのではないだろうか。


CDを並べるということの意味もそんな所にあると私は信じる。


理屈ではなく、「物」がただそこにあるという風景を大切にしたい。


私にとって、面倒なCDの手入れもまた、紛れもない「音楽の世界」である。


ネットで本が読め、あらゆる情報を取得できる時代には図書館は不要なのだろうか。


あの佇まい、あの凛とした空気、そこに集う人々がそれぞれに「答え」を探し求める様を見て、

おおいに感化された思い出は誰の中にもあるだろう。


その空気こそが図書館と考えるのはもはや単なるノスタルジーに過ぎないのだろうか。








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Y君


短い大学時代だったが、今でも記憶に残っているひとがいる。


声の大きなY君だ。最初の頃の印象はけっして良くはなかった。

学内でよく見かけるのだが、いつも先輩たちと連れだっている。


聞こうとしなくても、彼らのやりとりは離れていてもよく耳に入ってくる。


「先輩、一本いいですか」


「先輩、ティッシュいいですか」


「先輩、石鹸いいですか」


Y君といえば、そんな風景しか連想できないひとだった。


なんといえばよいのか、世渡り上手というか、たかり上手というか・・・

将来、金をためる人とはこんな人のことだろうと思えた。


はっきり言って、あまり付き合いたいとは思えなかった。

他人事ながら、ほどほどにすれば・・・という思いで見ていた。


ある日、学生食堂で寮からの弁当をひろげているとY君たちが目に入った。

ところが、それはいつもの光景ではなかった。


「先輩、昨日ありがとうございました」


一本のたばこを先輩に返しているY君の姿だった。


「えっえ~ !」


驚きというか、ためらいというか、先輩の困惑が伝わってくる。「かわいくない奴 !! 」といった表情だ。


私自身も、どちらかといえば、「おごり、おごられる」文化派かもしれない。程度をわきまえてではあるが・・

たかられる以上に付き合いづらい、と一瞬思った。


しかし、Y君には哲学があった。


ひとづきあいに「貸し」「借り」をつくっては永いつきあい、対等なつきあいができない。

彼はそのことを先人たちからたたき込まれていたのだ。


思えば彼は、多くの大商人を輩出している土地の出身だった。

どんなにささいな「借り」であっても、それが常態化すればやがて大きな圧力になって自身の自由を奪う。

幾多の試練を乗り切った商人たちが遺した教訓だろう。


人間関係を大切にしたい思いがあればこそのY君の行動だった。

まだ10代の私だったが、生意気にも、「この男は信頼できる」と感じた。




心地良い関係というのは実はかなり怪しげなものであって、

一見、厳しく見えるひとこそ、こちらの人格を認め、対等な立場を大事にするひとではないかと思ったことである。


何故か最近、無性にY君の顔がおもいだされ、彼を育てた土地に想いが募る。








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デッキのある家


1998301


わが家を新築したのが98年の3月。

県の河川改修事業に協力するかたちで鶴来町より転居したものだ。

500戸はある新しい住宅団地の中にあってもひときわ目をひくユニークな造りといえるかもしれない。


公園に面した側は家の長さいっぱいにとったひさしの深いデッキ。

そこが玄関にもなっているのだが家の側面へスロープで降りられるようになっていて

足の不自由なかた、車いすのかたを想定した造りになっている。


「すべてのひとを迎え入れる家」とした家づくりの基本コンセプトは

形としての家だけではなく、多くのひととの出会いの "場" をねがってのことでもある。

人生は出会いからはじまる。それを形にしたかった。


公園に面していることもあってたちまち注目の的となった。


「なかはどうなっているんや」


「いっぺん はいってみたい」


こどもたちは思ったままを口にしてくれるのでわかりやすい。

デッキのベンチを公園の延長ととらえているのだろう。

何人かこしかけてゲームなんかしている姿をよくみかける。


「雨の日はここ使ってください」


そういってご近所の幼児の運動場に解放しているのだが、

日ごとに力強さを増していくヨチヨチ歩きの音は2階の部屋で聞いていておもわずこちらの顔もほころぶ。


きのうなどは見かけないお顔の来客があった。

こちらからカーテン越しに見ていることなど気にとめる様子もなく足を投げ出してお昼寝をしている。

どうも自分のエリアと決め込んでいるふしがある。

事前のことわりはなかったはずだが「千客万来」ってことで、ま、いいか。


多くのひととの出会いのために作ったスロープだったが、

そこから車椅子の母を連れ出すことになろうとは思いもしないことだった。


07年の晩秋、突然に末期癌を宣告され病院通いが始まった。

スロープがなければ車椅子の人間を私ひとりで車に乗せることなど到底できることではない。

パニックになっていたろう。


おだやかに晴れた昼下がり、車椅子のまま散歩に連れて行くこともできた。

私の人生で最もきびしい時間であったが最もしあわせな時間でもあった。


すべてのひとを迎え入れる家はほかでもない私たち自身を迎え入れてくれる家であった。


きょうも手をふりながら行き交うこどもたちの笑顔があった。

そんなおだやかな街のなかにデッキのある家は建っている。






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悪いものを高く売る


「剱君、悪いものを高く売るのが商売だということを肝に銘じておくように」


若い頃、働いていた毛織物問屋の社長が話してくれた言葉である。


決して悪徳業者ではない。それどころか品質、センスで定評のある老舗洋服店のオーナーでもあったかただ。

派手さなどない、信仰心篤い誠実なかただった。


社長の目には青二才の私が成績を上げたいがため

気持ちが前のめりになっていることがわかっていたのだろう。

さりげなく二人になる時間をつくってこの話をしてくれた。


「君は商売というものを品質の良いものを安く提供することだと思っていないかな」


 
「いや、間違っているということではない。そのとおりだ。私もそうありたいと常に思っているし、努めてもいる。

 しかし、長い間この商売をしてきてそういう理想的な商品に巡り会うのはまれだ。

 私自身もう一つ納得がいかないことの方が多い」


 
「だからといって安くしていたのでは私たちは生活できない。

 品質の悪いものを高い値段で買っていただかないと生きていくことができないのが私達なんだよ」

 

「どうかな、君の目から見て

 今あるうちの商品で品質が良くて安く提供できるものは何パーセントあると思うかね」 


答えられなかった。

誰が見ても一級品の商品を納得のいかない商品と言い切る社長を前に私は黙り込むしかなかった。

その道一筋のお客様を相手にするにはかくも厳しいものかと思い知った。


思えば青二才の営業マンなどよりお客様の方がはるかに目利きだ。

私はその事に気付いていなかった。当然のことだが未熟だった。


お客様には「訳のわからぬ若造」と見えていたに違いない。

品質の良いものを安く提供しているんだという慢心が透けて見えたに違いない。


「どうしたら悪い商品を高い値段で買っていただけるようになるか、それが商売の一番大切なことなんだ。

 その思いがお客様に伝わると長いお付き合いをしていただけると思うよ」


 

「急に成績あげなくていい。くれぐれも焦らないでな」  


営業マンは「目利き」であれ。

お客様には誠意を尽くせ。


流通業界の大きな変化でこの会社も社会的役割を終え解散した。

しかし、社長の教訓は今も私の中で息づいている。








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