雪の降る街を____ショパン幻想曲op.49へのオマージュ





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ショパン/幻想曲 ヘ短調 作品49,Op.49,CT42/演奏:ブルーノ・リグット



倍賞千恵子/雪の降るまちを









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高村光太郎





高村光太郎

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%91%E5%85%89%E5%A4%AA%E9%83%8E




       道程



       僕の前に道はない

       僕の後ろに道は出来る

       ああ、自然よ

       父よ

       僕を一人立ちさせた広大な父よ

       僕から目を離さないで守る事をせよ

       常に父の気魄を僕に充たせよ

       この遠い道程のため

       この遠い道程のため






       あどけない話



       智恵子は東京に空が無いといふ、

       ほんとの空が見たいといふ。

       私は驚いて空を見る。

       桜若葉の間に在るのは、

       切つても切れない

       むかしなじみのきれいな空だ。

       どんよりけむる地平のぼかしは

       うすもも色の朝のしめりだ。

       智恵子は遠くを見ながら言ふ。

       阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に

       毎日出てゐる青い空が

       智恵子のほんとの空だといふ。

       あどけない空の話である。






       レモン哀歌



       そんなにもあなたはレモンを待つてゐた

       かなしく白くあかるい死の床で

       私の手からとつた一つのレモンを

       あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

       トパアズいろの香気が立つ

       その数滴の天のものなるレモンの汁は

       ぱつとあなたの意識を正常にした

       あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

       わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

       あなたの咽喉に嵐はあるが

       かういふ命の瀬戸ぎはに

       智恵子はもとの智恵子となり

       生涯の愛を一瞬にかたむけた

       それからひと時

       昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして

       あなたの機関ははそれなり止まつた

       写真の前に挿した桜の花かげに

       すずしく光るレモンを今日も置かう








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こんにゃく問答




たがいに別の話をしているはずなのに、どういう訳か話はつじつまが合ってどんどん進展していく。

日常では時折こういう会話が成り立ってしまう。

それぞれの思い込みや勘違い、自分に都合のよいように解釈するから食い違いに気付けない。


時に意図的にこの錯覚の会話に引きずりこまれることも・・・・・ ご用心、ご用心 !!





落語「こんにゃく問答」は二代目林屋正蔵の作と伝わる。

にわか坊主の蒟蒻屋六兵衛が、旅の僧にしかけられた禅問答のしぐさを蒟蒻の出来具合だと思い、

とんちんかんなしぐさで答えているうちに禅僧を負かすという話。

多くの名人が演じ、録音も残る。





江戸で食い詰めた「熊」が、田舎住まいをしている「六兵衛兄ィ」のところへ転げ込む。


悪い遊びで髪の毛が抜けてしまった「熊」をみて、


今は蒟蒻屋を営んでいる「兄ィ」は、無住になっている村はずれの破れ寺の住職にはめ込む。

熊と寺男が庫裡で酒盛りをしているところに、訪なう声。


熊公が出てみると旅の僧


   「拙僧は諸国行脚の雲水。ご当寺門前を通りましたところ“不許葷酒入山門”とありますれば禅家と拝察。


    修行のため一問答願わしゅう存じます」。


               葷酒山門に入るを許さず  (くんしゅ さんもんに いるをゆるさず)


                  くさいにおいを放つ野菜と酒は、浄念を乱し修行の妨げになるので、

                  寺の中へ持ち込んではならないこと。

                 「葷」においの強い葱や韮・にんにくなどの野菜のこと。


驚いたにわか住職の熊公が、一所懸命居留守で追い払おうとするが、旅の僧はテコでも動かぬ構え。


困り果て六兵衛に相談すると、知恵者の彼は「無言の行」でやればよかろう、


と和尚になりすまし応じることにする。


さて、本堂で対面し、旅の僧はいろいろ問うが、和尚もちろん無言。


旅の僧は、さてはと察し、やおら両の手の指で小さな輪を作り、胸の前からズイと突き出す。


和尚も何を思ったか、手にしていた払子代わりのハタキを襟に刺すと、

これも両手指で大きな輪を作って押し戻す。


旅の僧、ハハッと恐れ入り、今度は両手を広げて突き出す。


対する和尚は、片手を開いて応える。


旅の僧、再度低頭し、必死の形相で指を3本差し出す。


和尚、すかさず人差し指で右目の下まぶたを引きながらベロをだす。


旅の僧、「到底拙僧の及ぶところにあらず。両三年修行を致しまして……」とあわてふためいて退散する。


驚いた熊公、逃げ帰ろうとする旅の僧をつかまえ、一体どうなっていると尋ねる。


旅の僧答えて、


   「さては禅家荒行の内、『無言の行』中と拝察し、されば無言には無言にて問わんと、


   『大和尚、ご胸中は?』とお尋ね致しましたるところ


   『大海の如し』とのお答え、まことに以て恐れ入ったる次第。


   続いて、


   『十方世界は?』とお聞き致しましたるところ、


   『五戒で保つ』とのお答え。何ともはや……。及ばずながら今一問と存じ、


   『三尊の弥陀は?』との問いには、たちどころに


   『目の下にあり』と……。


   まことにもって愚僧など遠く及び申しませぬ。今一度修行して出直して参ります。


   御前体、なにとぞよしなに……』


と走り去る。


「何だ、心配させやがったけど、兄ィ、てえしたもんじゃねぇか」と熊公が意気揚々本堂に引き返してくると、


偽和尚「やい、あいつを逃がしちまったのか」とカンカンになって怒っている。


またまたびっくりした熊公が、どうしたと聞くと、六兵衛和尚曰く、


   「あいつは諸国行脚の雲水なんてとんでもねぇ。どっかの豆腐屋かなんかの回し者に違ぇねぇ。


    何を訊いても知らん顔をしていてやったら、俺の顔を穴のあくほど眺めてやがって、


    ははあこれは蒟蒻屋の六兵衛だなと気づきやがったとみえて、


   『おめぇんところのコンニャクはこれっぽっちだろう』 というから、


   『うんにゃ、こんなにでっけぇ』 と言ってやった。そしたら


   『10丁でいくらだ?」 と値を訊いてやがる。少し高えと思ったが


   『五百(文)だ』 とふっかけてやったら、しみったれた野郎じゃねぇか


   『三百にまけろ』 と値切ったから


   『アカンベエ』 をした」

                
               


「近いうちに解散」

「一定のめどがついたら、、、、」

ふたつの内閣で似たような言葉が相次いだ。


間抜けな、失礼、人のよい政治家は自分の勝手な解釈で会談を終えてしまった。

確認作業を怠るという詰めの甘さが後の混乱を作っている。

何ともお粗末な話だ。


暗黙の了解、いわずもがな、武士の情け、、、、

日本の政界で好まれる言葉のようだが、このあいまいさが禍根を残すこととなる。

嫌な奴と言われようと、最後の最後まで気を抜いてはならない。


若いとき、先輩たちからこのように教えられた。


「仕事というもの 9割は確認作業だ やり直しなど無いのだと思え」


9割か8割かはともかく、仕事に臨む心構えとして胸に残っている。




昔、とんでもない理由でロケットの打ち上げに失敗したことがあった。

推力が足りず、直後に落下、炎上した。

燃料が予定された量だけ入っていなかったのだ。

係員はリットルとガロンを取り違えていたのだった。お粗末 !!



             ※ 米国液量ガロンは約3.78リットル。





蒟蒻問答・古今亭志ん朝

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辛夷塢(しんいう)




               辛夷塢       

            

          木末芙蓉花
 
 
        

          山中発紅華 
        

          澗戸寂無人 
       

          紛粉開且落         
              


                                                                           王維


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王 維(おうい)      699?-761

                  中国,盛唐の高級官僚で、詩人。字は摩詰。太原(山西省)の人。


辛夷(しんい)        日本では「こぶし」をいうが、中国では「もくれん」のこと。


塢(う)             中国語の原義は小さい土手、堤の意。


芙蓉(ふよう)       「はす」の別名。


寂(じゃく・せき)      まったく音がしないさま。静まりかえっているさま。


紛粉(ふんぷん)             盛んな様子。


木のこずえに咲いている「はす」ということで、「もくれん」を表現している。(文学的表現です)

「辛夷塢」とは「もくれんの堤」という意味。


澗戸(かんこ)      谷川のほとりの家

                   吉川幸次郎氏は「谷のとぼそ」と言い換えている


枢(とぼそ)                 1 開き口を回転させるため、戸口の上下の框(かまち)に設けた穴。

                    2 戸。扉。


                  転じて  粗末な家


[書き下し文]     


木のこずえなる  芙蓉(ふよう)の花

山中に紅(あか)き華(はな)を開く

谷の戸ぼそには  寂(せき)として人なく

紛粉(ふんぷん)として開き  かつ落(お)つ


[意訳]


やまあいの川のほとり もくれんの紅い花がひらいた

あたりの家には人影ひとつ無く 静まりかえっている

紅い大きな花びらが咲いては散り 咲いては散り するだけである




人間というのは ともすると 世間の自分への評価が気になり

その世間に迎合しようとして 自分を見失いがちになる


他人(ひと)が見ていようと 見ていまいと

おおらかに おのが生をまっとうしている やまあいのもくれんは

王維の心に強く響いたことだろう








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学校へ行く意味




大谷大学卒業生のかたから聞いた話。




学生たちが学長先生担当の「真宗学」(親鸞の思想)の講義に出たときのこと。

ある学生が学長先生に質問をした。(残念ながら、内容は話してもらえなかった)


学長とは当時90歳の曽我量深先生である。後に昭和の名僧と語られる真宗学の権威である。

そんな大先生だから学生の質問にはいとも簡単に、しかも理解しやすく答えてくださると誰もが思っていた。


ところが・・・ 曽我先生は沈黙のまま考え込んだという。


5分、10分・・・時間が刻々と過ぎていく・・・

学生たちの言葉によると、腕時計の秒針の音が教室に響いて聞こえたという。

まさか秒針の音は聞こえないと思うが、どれほどの緊迫感かは想像がつく。


やがて先生は顔を上げ、


     申し訳ありません。あなたにお答えするだけのものを私は今、持っておりません。

     さらに精進したいと思います。申し訳ありません


と、何度もその学生に謝られたという。


場に居合わせた学生たちは感動のあまり鳥肌が立ったと熱く語っていた。


孫のような学生に対し、適当な言葉でお茶を濁すこともせず、

真摯な姿勢で臨まれる大先輩の態度に接し、「この大学へきて良かった」と心底から思えたという。


この状況を文字にするとどうだろう。

学生が質問した。先生からは答えがなかった。それだけになってしまう。通信教育ならそんなことになる。


しかし、大事なことは秒針の音まで聞こえたという、その緊迫感を味わったことだ。

大先輩の真摯な姿勢を目の当たりにしたことだ。


何も答えが無かったのではない。大きな大きな答えを先生からいただいたのだ。

こころの宝石箱で生涯輝きつづける "大切なもの”をいただいたのだ。

独学や通信教育では決して得られないことだ。


学校へ行く意味とはこういうことだと思う。






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文言で語る世界  文言でしか語れない世界



 大いなるものにいだかれあることを


             けさふく風のすずしさにしる
             


                            無文                            

                           



私たちは音楽を楽しむとき五線譜を用いる。

しかし、これほどアバウトなものはなく、アバウトであればこそ楽しむ余地があるともいえる。


五線譜が音楽のすべてを正確に表現できているのなら、そして演奏家がその通り正確に演奏しているのなら

マーラーの「巨人」のCDは世の中に1種類でいいはずである。


それでも「巨人」は多くの演奏家がそれぞれのCDをリリースしている。(我が家の棚には19枚並んでいる)

ニュアンスの違いはとても同じ作曲家の作品とは思えない。


                            
つまり、五線譜は音楽の世界を便宜的に表現しているに過ぎない。


作曲家の想いは便宜的な手法でしか伝えることはできないわけで、

作曲家自身の演奏以外は「似て非なるもの」というしかない。


設計と施工が異なるような現代の建築にあっては「設計図書」は重要な役割を果たす。


が、機械的に進めていけばよいように見える、本来は無機質な世界であるはずの建築界ですら同じ事がいえる。

「設計図書」通りに施工しました、と言っていては良いものはできない。

「設計図書」は設計者の意志を伝えるものであるが、設計者の「想い」「哲学」まで網羅しているわけではない。


ある現場でビスを直して欲しいといわれたことがあった。「ビスを直す?」意味が理解できなかった。

設計者はプラスビスの頭を「+」にしておくように言ったのだ。

「×」では自分のイメージとは違うと言いたかったのだ。


以来、「設計図書」を通して建築家が何を求めているのか、

どんな世界を描こうとしているのか考えて仕事をするようになった。


設計者の「想い」を表現できているか、塗装の微妙な仕上がり具合までに神経を使うようになった。

音楽も建築も詰まるところは「人間学」ということだ。

人間が何を求めているのか・・すべてはここから始まるということだ。


私は時々意地悪な質問をする。(いつもかも・・・)


「パレスチナの人々が全員改宗してクリスチャンになったら パレスチナ問題は解決すると思いますか」

クリスチャンのかたの答えは「解決する」だった。


しかし、「私たちの聖地」をいうのはユダヤ教もキリスト教もイスラム教も同じだ。

本質的には宗教に名を借りた領土問題である。全ての人がクリスチャンになっても解決はありえない。


では宗教は無力なのか。

それは違う。パレスチナに限ったことではないが、

人は宗教という形を通して語られる本質を見ようとはしていない。

そこに大きな誤解が生じ、融和を妨げている。宗教とは便宜的に語られるメッセージでしかない。


外面的な文言の世界に浸っていては宗教が例えひとつになったからと言って何も問題は解決しない。


文言でしか語ることのできないものであることを知り、

文言の先にある数多のひとびとの願いの世界に目覚めたとき、人は初めて共通の夢を持てる。

宗教という形にこだわりすぎては「和」の世界はあり得ない。


数多の宗教があり、宗派がある。聖典もさまざまだ。

概していえることだが、歴史があることが大切にされる所がある。大なり小なり権威主義的な面もある。


しかし、何か違うと思う。語られたのはいつの時代であっても「現代」であったわけだ。

バッハもヴィバルディも現代音楽であったわけで、古典などではなかった。それと同じだ。


権威に寄りかかっても自身の問題は何も解決などできない。問題の存在を忘れることがせいぜいだ。


経典を有り難がる人は多いが、経典というのはある意味何も書かれていない。


漢文で書かれたものを音読みにしているからもっともらしく聞こえるが、

内容は至って平易で「何だ そんなことか」と言うことばかりである。


道元の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」は日本の書物の中で最も難解とされるが、

書き方が難解なだけで気の遠くなるほど難しいことが書かれているわけではない。

仏教書というのは悪筆が多いといえるのかも知れない。


キリスト教の聖書は文言としてはやさしい。

が、書かれているメッセージは奥が深く、

簡単に「わかりやすい」などと言っていては外面しか受けとめることはできない。


私は19歳の時、宗教を語るとき専門用語を使うことを自ら封印した。

日々の言葉、暮らしの言葉、わたしの言葉に置き換えて語らなければ何の意味もないことに気づいたからだ。


専門用語というのは心地良いところがある。たくさんの言葉を覚えると立派になったような気になる。

他人から見ると特別の人に見えるというわけだ。


しかし、宗教とは本来的には「便宜的なもの」であり、そこで語られる文言自体は「虚構」の世界である。

「虚構」を通して「真実」を語るのが宗教である。


経典を丸暗記しようと、聖書を50年間読んでこようと、

そこの所を見誤ると単なる文化を楽しんでいることでしかない。


だからこそニーチェは警告した。「神は死んだ」と。


すべては架空のものと知って虚しさを感じるべきではない。

架空なるものを通して語りかけられていることを受け取るべきだ。


聖書がなかったら生きていけない、とあるかたが語っていた。

しかし、聖書がなくても、ブッダ・道元・親鸞の存在が否定されようとも「私」がここにいる事実に変わりはない。


私たちは全うしなければならない "いのち" の中に脈々と流れている「大いなるもの」

からの恵みに気づかなければならない。


"大いなるものの願い" がこの "いのち" であることに気づかなくてはならない。


「教え」は荒海を渡る舟のようなものだ。わたるときには必要だが、渡り終えれば邪魔になる。


宗教は非常出口を示す緑の表示のようなもの、といってもいい。


「表示」を鑑賞して欲しくて掲げてあるのではない。

外へ案内するものであり、外の世界へ出て欲しいがためにある。


便宜的に語られた「宗教」を突き抜けて向こうにある世界に至らなければ誰とも心を通い合わすことなどできない。

宗教という「枠」に縛られていては寺も教会もカルト教団も何ら変わりはない。


生涯で30分にも満たない禅僧との出会いが私の今を支えている。

禅僧は語ってくれた。


    勉強などせんでええ 人間は生まれたとき もう 仏さんになっとる 気づけばそんでええ

    
    求める答えは 自分の中(うち)にある
    

        

短い大学生活に気持ちの踏ん切りをつけられたのも僧との出会いがあったからである。








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「私」という宇宙___Gotama 氏とともに見る




物理学の世界では4つの力のことがいわれています。


重力、電磁気力、強い力と呼ばれるもの、そして弱い力と呼ばれるものです。

強い力とは陽子と中性子をつなぎとめ、あらゆる原子の原子核をつくっています。

弱い力は中性子を陽子に変化させる力です。そのときに放射線を出します。


アインシュタイン以来、世界の物理学者はすべての力を統一的に説明できる道を模索しています。

有力な理論は「ひも理論」や「超ひも理論」(M理論)といわれているものです。


超ひも理論(M理論)とは宇宙の要素は1種類の要素でできているというものです。

その構成要素とは「ひも」とよばれる小さな振動するエネルギーの糸、

振動するパターンであらゆるものを作っている、という理論です。

宇宙は11次元の時空でできているとされ、我々の宇宙の他にも平行宇宙が存在すると予言しています。

近い将来、必ず解明されるでしょう。


しかし、私はそこでいう統一理論をもってすべてが解明できるわけではないと思っています。

ある視点が欠けているからです。

「生命」です。さらに「精神」です。そして「私」です。

4つの力にこれらが統合されてこそ統一理論と言うべきと考えます。


宇宙に孤立したものなど一切ありません。

精神と物質を分けて考えていては統一理論はあり得ません。

それでは内科と外科を別の病院に分けるようなものです。


「いきることとは?」「私とは?」この素朴な疑問というか、

根源的な命題が欠落しているところに現代の学問の悲劇があります。

技術のみにしか関心のない科学者が批判されるのはここにあります。


しかし、文系の人、なかでも宗教家、思想家のいう科学批判もまた戒められねばならないと考えます。

科学に万能はなく、不可解の存在を理解することが必要である、とよく言われます。

しかし、その人たちの科学論は矮小化された科学論でしかありません。


真の科学者こそ、私たちは不可解なるもののまっただ中にいる不可解な存在であることを知っています。


あらゆることを論理的に解明していくことこそが科学なのであって、

そこから得られたわずかばかりの知識をこれ見よがしに振り回すのをもって科学とするのは実に不幸なことです。


すべては合理的に、論理的に語られなければなりません。

怪しげな非論理の世界に身を置くことは危険なことです。


オウム事件の時、科学者たちが何故・・・と言われました。

科学が人間から乖離しているのではとも言われました。

が、彼らは科学する心など端から持っていなかっただけだと私は考えます。


自分の求めるもの、探求する原点が論理的に理解できていないような人物が

科学者と呼ばれることに強い抵抗感があります。


自分の「問」が何であるか検証できぬまま、用意された答えに飛びつくから愚かな結末になるのです。

高等数学ができるだけが科学ではないはずです。


身の周りに起きていることや自分の悩みを論理的に解明できない人は科学者などではありません。


不安など何処にも無いのです。苦悩など何処にも無いのです。


それに気がつかぬからこそ、逃れる道、解消できる答えなるものに騙されるのです。

自己分析能力のない人間は自分の問が何であるかさえ見えていません。

それゆえ安易にほかに答えを求めるのです。


ものの道理を熟知して、その道理にのっとった暮らしであれば苦悩などはなく、

無知や飽くなき欲求の影におびえ、己を失っていては生涯を危うくします。


答えはすべて自らの中(うち)にあります。



科学者は思想家を、思想家は科学者を、「自力」を言う人は「他力」を、「他力」を言う人は「自力」を批判します。


しかし、ようく考えてほしいのです。

かつてすべてを統一的に論じる人がいたでしょうか。

宇宙のすべて、「私」の問題も含めてです。


それぞれが部分の議論に過ぎません。

指摘もあながち否定されるべきとは思いませんが、統一的な理論など誰も必要性すら論じていないのが現状です。


内科や外科以外にも診療科目はどんどん広がりました。

総合病院ではどこを受診するのか迷うくらいです。

しかし、からだはひとつなのであって部分の集合体ではありません。


量子力学、素粒子物理学、原子核物理学、天体物理学、化学、医学、分子生物学等々・・・

これらは一眼レフカメラの交換レンズのようなもので真実を解き明かすにはあらゆる視点が欠かせません。


自己と宇宙との関わりに想いをはせるとき宗教、哲学、文学、音楽等のあらゆる交換レンズも必要です。


交換レンズが目的でないことはいうまでもありません。

レンズなどまったくない世界こそが求めているもののはずです。


ましてや交換レンズどうしが優劣を論じるのは如何なものかと思います。



私は無機質なものになど精神性はない、とする大胆な意見こそ慎重でなければならないと考えます。

精神のなんたるかも理解できないひよっこが「精神」と「物質」を明確に分けることに疑問を感じます。


ひよっこの大胆さには論理的思考があるとはとても思えません。

ひよっこのとらえかたでいけば「精神」とは宇宙のすべてから超越したものになってしまいます。


「私」は「閉じられた系」ではありません。宇宙と一体です。いや一体ということではない。

宇宙そのものであるととらえています。


私たちは分子の固まり、素粒子の固まりです。そして外界の分子と常に入れ替わっています。


はたして「私」なるものが存在するのかも怪しげに思います。

出て行った分子が「私」なのか、入ってきた分子が「私」なのか。考えると眠れなくなります。


自分で指を曲げてみて、「ああ、自分だ」と確認できるくらいです。


しかし、形ある物体と考えると理解できない「私」も風や波のようなものとして受けとめると少しは

理解できるような気がします。


風や波は誰でも知っています。しかし、保存することもクロネコで送ることもできません。

ここに不思議さを感じないでは所詮、「私」の不思議さにも気付かないでしょうが・・・・



魔女、バテレンの術、科学を超越した世界、神の意志等々・・・

人間はともすると深く考えることから逃れようとするとき、これらの言葉を利用してきたのではありませんか。

そして、怪しげな権威で支配されてきたのではありませんか。


神秘主義や権威主義こそが宗教であるかのように言う人たちもいます。


「生かされている」そう受けとめるところに信仰生活があります。

ならば、生かしてくれる存在は・・と考えるのは現代人的な発想で、宗教、信仰とは異質のものです。


人間はこの神秘主義や権威主義にあこがれるのです。

権威づけされた、いわばブランド化されたものに弱いのです。


そうであってはなりません。

宗教は日々の言葉で、暮らしの言葉で、自身の言葉で語られなければなりません。


専門用語というのは心地良いところがあります。たくさんの言葉を覚えると立派になったような気になるのです。

他人から見ると特別の人に見えてしまいます。


しかし、経典を丸暗記しようと、聖書を50年間読んでこようと、

そこの所を見誤ると単なる文化を楽しんでいることでしかありません。


宗教は非常出口を示す緑の表示のようなもの、といってもいいでしょう。


「表示」を鑑賞して欲しくて掲げてあるのではないのです。

外へ案内するものであり、外の世界へ出て欲しいがためにあるのです。


便宜的に語られた世界を抜けて向こうに至らなければ誰とも心を通い合わすことなどできません。

宗教という「枠」に縛られていては寺も教会もカルト教団も何ら変わりはないのです。

    

Gotama 氏をご存じでしょうか。

あらゆる形作られたものには不滅なるものは何一つなく、すべてが寄り合い、依り合い、

縁り合いながら生じては滅しているという、因果の道理を説いたかたです。


氏はこの道理に基づき、人の歩むべき道を説いています。

神を信仰しなくてもほんとうの安らぎを得られる道を教えています。


いかに人は生きるべきか、いかに己の心を処すべきか、いかに世間に身を処すべきかなどを説いています。

神がなくては生きていけないとか、神の思し召しを受ける信仰に生きるべきと説いたことは一度もありません。


氏はものの道理を熟知して、その道理にのっとって正しい習慣を身につけ、

規則正しい生活をすることが最も大切と語っています。


21世紀の今日、七夕さまに願い事の短冊を書き、サンタさんにお願いし、合格祈願のお札をもとめ・・・・

それがこころに潤いのある暮らしと思っているかたがたもいます。それが精神文化なのだと・・・


Gotama 氏の思想を私の暮らしの言葉として語ったところ、「それは宗教ではない」と言われました。

クリスチャンを名乗るかたからも、浄土真宗を名乗るかたからもです。


Gotama 氏が有名なかたであることをご存じなかったようなのですが、

それにしても21世紀の宗教観とは実に危ういと感じたことです。


Gotama 氏の思想は神秘主義や権威主義の対極にある考え方です。

すべては合理的に、論理的に語られなければなりません。







お薦めの参考文献
般若心経(山田無文)
http://www.amazon.co.jp/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E7%84%A1%E6%96%87/dp/4881821881/ref=sr_1_4/377-6867608-8280745?s=books&ie=UTF8&qid=1373534672&sr=1-4&keywords=%E5%B1%B1%E7%94%B0+%E7%84%A1%E6%96%87

自己を見つめる―ほんとうの自分とは何か (山田無文)
http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%82%81%E3%82%8B%E2%80%95%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%AE%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E7%84%A1%E6%96%87/dp/4881820125/ref=sr_1_1/377-6867608-8280745?s=books&ie=UTF8&qid=1373534672&sr=1-1&keywords=%E5%B1%B1%E7%94%B0+%E7%84%A1%E6%96%87

空の世界―龍樹から親鸞へ(山口 益)
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正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)(中村宗一)   ※ 正法眼蔵は道元の著
http://www.seishinshobo.co.jp/book/b88126.html
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ニュートラルにするということ___あなたの哲学はいのちを危うくしてはいないか




ニュートラル(neutral)


1 いずれにも片寄らないさま。中立的。中間的。かたよりのないこと。「.....なものの見方」

2 機械装置で、原動機と動力伝達装置が切り離された状態。



哲学


1 世界・人生などの根本原理を追求する学問。

2 各人の経験に基づく人生観や世界観。また、物事を統一的に把握する理念。

 「仕事に対しての...をもつ」「人生...」


ここではさらに日常にある ものの見方、とらえかた と幅を広げて考えてみることにする。


.....................................................................................




血糖値が高ければ下げる。

血圧が高ければ下げる。

飛行機の機首が下がりすぎていれば機首をあげる。


私たちの社会ではごく普通の風景である。

私たちはこのことに何の疑問ももたず、それを当然な事として日々を過ごしている。

当たり前すぎて、ここで疑問を呈することにすら違和感があるのではないだろうか。


結論を先にいえば、これらの対応はすべて間違いである。




明治維新以来、この国は西洋に多くの近代文明なるものを学んできた。

導入された産業機械や教育制度は確かにこの国を変貌させた。

変貌させたことに違いはないが、良くなったかとなると話は別である。


しかし、気がついてみれば古くから脈々と伝えられてきた知恵や工夫、もののみかたを隅へ追いやり、

前時代的とか非科学的だとかいって隔離してしまっていた。


物事の上っ面から見た、通りいっぺんの合理性にこだわり、本質に近づくことに不熱心な西洋文明をよしとしてきた。


つい最近までは生薬や漢方薬は呪術や迷信の世界のもののように扱われていた。

そんな得体の知れないものを扱うのはまともな連中ではなく偽医者のごとくに見られてきた。


生薬や漢方薬と西洋医薬ではその背景にある考え方が大きく異なる。


東洋医学は体を全体としてとらえるが、西洋医学は部位、器官の集合体と見る傾向がある。

一方は体質改善や体を養うことに重きが置かれるが、一方は治療に重きを置く。




アマリールという薬がある。膵臓のβ細胞を刺激して、インスリンの分泌を促進する血糖降下剤だ。

糖尿病治療に使用される広く知られた薬だ。


この薬を処方するときドクターは患者に対して必ず飴や砂糖を持ち歩くことを言い添える。

血糖値が下がりすぎて危険な状況に陥ることも予想されるからだ。


意識障害や昏睡状態にもなることもあって服用には注意を必要とする。

車を運転しているときにこの状態になれば大変な事態を招く。


ついでのことである。低血糖の意識障害とはどういうものか、私の体験談を書いておく。


ある日の夕方(夕方という点がポイント)、近所のスーパーで買い物をしているときのことだ。

カートを押して売り場のコーナーを曲がった。

と、そこは今まで見たこともない空間ではないか。

何かの店舗らしいのだが、さっき入ってきたスーパーとはまるっきり違う。

歩いているのもまったく見かけたことのない人たちばかりだ。


     これが いうところの ワープ というやつか 

     いまのコーナーが異次元の入り口だったに違いない。

     それにしても ここはいったい・・・


そのときはじめてアマリールの副作用のことを思い出した。

そして自分が意識障害を起こしているのだと自覚できた。


ドクターの指示通り、甘いものを買って店内の休憩コーナーでしばらく休んだ。

予備知識がなければパニックに陥っていたと思う。


家へ帰っても意識障害は続いた。


パソコンの中へ誰かが「ゴミ箱」を置いていったようだ。

しかも、「マイコンピュータ」などと立て看板まで立てていった。

ひとのコンピュータになんてことを !! (今から思えば笑い話である)


コーヒーを飲もうとカップを取り出しコーヒーの瓶を手に持つ。

ところが次にすべきことがわからない。

瓶の中へお湯を注ぐのか、コーヒーをポットの中へ入れるのか・・・

しまいには何で自分がコーヒーの瓶を持っているのかがわからなくなっていた。


なんだこりゃあ・・・だんだん自分がおかしくなっていっている。

人格が崩壊していく・・・そんな感じだった。


アマリールという薬、朝に服用しても効き出すのは午後になってからで空腹時の夕方がピークになる。

そのことを考慮した生活をしないと上記のような事態になる。


後にホームドクターから聞いた話。


   ある精神科の医師から、一年半、統合失調症の治療をしているがいっこうに改善が見られない

   患者がいると相談され、診てみるとインスリンの分泌異常、つまり糖尿病だったとか。

   血糖値低下は統合失調症ときわめて似た症状を起こす。


   
        ※ 統合失調症  かつては精神分裂病と呼ばれていた精神疾患群の名称。

                 幻覚、幻聴や妄想を抱く等の思考障害を起こす。

                 「 ここはどこ? 私は誰? あんた誰? 」の状態にもなる。



ってことは統合失調症と診断されているひとの何パーセントかは実は糖尿病?


アマリールは血糖値を下げる薬であって決して血糖値を正常にする薬ではない。

このことをおさえておかないと大変なことになる。


血圧を下げるというのもほぼ同様であって、

決して血圧を正常にする薬ではないことを認識していなければならない。

使い方を誤れば生命の危険すらある。


これらの薬、確かに即効性という点では評価はするが、あくまで対処療法であって、

なにやら行き当たりばったりの感は否めない。


「治療」には有効とされる西洋医薬も「体を養う」という発想はない。

求められているのは正常値にすることであって、「下げる」ことではないはずなのだが。




「上げる」「下げる」ということを短絡的にとらえていたりすると

飛行機の機首云々のケースにおいては重大な事態を引き起こす。


下がりすぎた機首に対してとるべき行動は機首をあげることではない。機首を戻すことだ。


「あげること」と「戻す」は同じように思えるが、本質的にまったく違う。

この考えがわからなければ決定的な過ちを犯す。


実際にこの事が原因して264名もの犠牲者を出す事故が起きている。

1994年に起きた中華航空140便墜落事故がそれである。




事故の概略


1994年4月26日名古屋空港へ着陸しようとしていた台北発の中華航空140便

(エアバスA300)が名古屋空港滑走路への進入中に失速し、滑走路東脇に墜落した。


この事故で乗客、乗員合わせて271名のうち264名が犠牲になり、乗客7名が重傷を負った。


犠牲者数は1985年の日航ジャンボ機墜落事故に次ぐ、

国内の空港で起きた事故の犠牲者数では日本史上最悪である。


事故原因として報告されたところによると


運輸省事故調査委員会の調査は、操縦乗員の自動操縦装置の誤操作があったことを指摘したうえで、

エアバスによる操縦システム設計も不適切であったとしている。


手動操縦でのILS進入時に副操縦士が誤って着陸復行(ゴーアラウンド)レバーを操作し、

自動操縦装置のゴーアラウンドモードがオンになった。


ゴーアラウンドモードを解除しないまま自動操縦装置に反発する機首下げの操縦を行ない続けたため、

自動操縦装置は水平安定板を機首上げ方向に操作したうえ、

自動失速防止装置も作動しエンジン出力を最大とした。


しかし、操縦桿の操作による昇降舵の動きの効果が自動操縦による水平安定板の動きの効果を

上回っていたため、機体は降下をはじめた。

降下はしたものの、機体が思うように操作を受け付けないため、

機長は着陸のやり直しを決断し、操縦桿を元に戻した。


その結果、自動操縦装置による機首上げ操作のみが急激に作用して機体が急上昇、

機首角は最大53度にまで達し、失速し墜落した。


自動操縦装置にインプットされていた思想に瑕疵があったのである。

「機首が下がれば機首をあげる」ではなく、「機首が下がれば機首を戻す」であればこの事故はなかった。


背景にある思想は時にかくも残酷な結果を私たちに突きつける。




手元にある常備薬の丸薬はおもしろいことに便秘にも、下痢にも効く。

正反対の症状になんで? と思うのは多分、現代人のものの見方がそうさせている。


いにしえから生薬を扱っている人の目から見れば「胃腸が弱っている」のであって、

何も真逆という認識はない。


からだを本来あるがままのニュートラルな状態に戻すことを求めてきた文化がここにある。


とらえかたの根本が違えば導き出される解答も自ずと違ってくる。

本質をしっかり見極めなければいのちにも関わる。




あなたの哲学にニュートラルにするという概念はあるだろうか。



あなたの哲学はいのちを危うくしてはいないだろうか。








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パロディーが通じない____非常に危険な時代



" 朋よ --- We shall overcome " をアップロードした直後に予感のようなものはあった。


何時間か経って、案の定というようなメールが届きだした。



     剱さんって詩人ですね


     表現が古風ですね


     ええ 人間が古いものでして



とお返事しておいた。


辞書などでは「パロディ」は、他の芸術作品を揶揄や風刺、批判する目的を持って模倣した作品、

あるいはその手法のことを指すとある。


しかし、実際は元の作品を対象とするよりは元の作品を借りて社会を風刺する技法として使われることが多い。

ひねくれ者の私には欠かせない技法ではあるのだが、、、、、、


「しゃれ」、「パロディー」、「オマージュ」が成り立つ前提として

「元の言葉」、「元の作品」が双方の共通認識である必要がある。


携帯でメールやゲームを楽しむ世代に文学作品や大衆芸能はどこまで受け継がれているのだろうか。


山田洋次は「男はつらいよ」の中に名画へのオマージュと見てとれる場面を数多く散りばめている。

落語、おとぎ話など語り継いでほしい作品もうまく挿入している。


殺伐とした社会、無機質な作品に対する風刺や抵抗と言えるわけだが、

これを受けとめるにはかなりの素養がこちら側にも必要となる。


私自身、どこまで理解できているかいささか心許ない。


しかし、「しゃれ」、「パロディー」、「オマージュ」を素通りすることだけは避けたい。

教科書に載っていたり、試験問題に頻繁に用いられるものぐらいはついていきたいものと思っている。


浸透していないからつかわないということになれば文化の継承などあり得ず、人は限りなく幼児化してしまう。

つかっている間に理解できていく、我々はそうやって言葉を覚えてきたのではなかったか。


カタルを心配しなければならないほど先人たちの遺したものを吸収したからといって、

精神科を受診しなければならなくなった人など聞いたこともない。


むしろ、先人たちの遺したものに対する無知や無関心こそが現代を生きるうえでの障害となる。


生活様式は時代とともに変化してきてはいるが、社会の基本構図はそれほど変わってなどいない。

持っている者はさらに持とうとし、持たざる者から搾取する。

権力者は自分に都合のよい「真実」しか語らず、大衆を利用することしか考えない。


先人たちはその思いや叫びを作品の中に多く遺している。

粗略にすれば我々は道しるべを失うこととなる。


初出1951年の清沢哲夫の詩が室町時代の一休の作とされたり、

吉川英治の小説が史実として名刹の観光案内に平然と利用される時代にあっては

大衆を騙すのはいとも簡単ということだ。



     清沢哲夫の詩

     http://gravitational-wave.air-nifty.com/tobenaiposuto/2013/week19/index.html#entry-76444792

     http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000028008 
                     


     某名刹

     http://www.b-model.net/daisen-in/ikinodojyo.htm



                 「沢庵漬けで広く知られた七世沢庵宗彭和尚は、

                  紫衣事件で徳川幕府に抗弁した人であり、

                  また書院「拾雲軒」で宮本武蔵に剣の極意を授けたともいわれています」


                     とあるが、沢庵と宮本武蔵が出会ったというのはあくまで吉川英治の小説

                   「宮本武蔵」の中の話であり、吉川は自身の創作であると語っている。


無知や無関心こそが我々を犠牲者、被害者にしてしまう。


為政者や資本家は自分たちに都合のよいロジックを作り出す。

いつの時代もこれは変わらない。


周りの国は戦の準備をする国であり、そして、いつの戦争も被害者となるところから始まる。

大衆はそのように信じ込まされる。


大きなまなこを見開けば騙しの兆候は至る所に散見できる。

先人たちはその手がかりを数多く遺してくれている。


     検察は正義である


     政府は我々の暮らしをよくしてくれる


     メディアは中立である


などという幻想から人々は解き放たれなくてはならない。


パロディー や オマージュ が通じなくなっている時代、これは「不勉強の時代」であり非常に危険な時代である。






※  高村光太郎
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%91%E5%85%89%E5%A4%AA%E9%83%8E






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文字の關


狩谷えき斎(※木偏に夜)の歌


「文字の關まだ越えやらぬ旅人は道の奧をばいかで知るべき」

                              (簡野道明著「字源」より)

                                                                  ※木偏に夜 = 因みに ねむの木 のこと


                              ※關=関


*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*



[官]
   字源

  「大勢の人が集まった家屋」の意で「館」の原字。

   春秋時代に、諸侯などが、家柄によらず「食客」を自分の館に集めたことが官のルーツとなる。


   意義

   支配者につかえて、その指示の下、民衆への支配を補完する人。役人、官僚、官吏。

   おおやけ。


どの辞書を引いても「官」は「役人」である。

最近、多くのメディアで「試験官」「面接官」なる言葉が乱用・誤用されている。


国立機関の試験であれば、その立会人は「試験官」である。そこで面接をするのは「面接官」である。

国立機関の職員は国家公務員であるわけで、間違いなく「官」である。


問題は私学の場合や民間企業での試験、面接の場合だ。

多くのメディアではさかんに「試験官」「面接官」といっている。


先だって、食品衛生月間のニュースが流れた。

アナウンサーによると「民間検査会社の検査官がある企業を訪れた」そうだ。


民間の検査会社に「検査官」はいないはずだ。指摘をしたのだが指摘の意味すら理解出来ないようだった。

日本人の日本語力は外国からの留学生たちよりはるかに劣っている。


何故役人でもない人物を「官」と表現するのか。私にはまったく理解できない。


辞書を引く習慣の無いひとたちか、あるいはよほど語彙の貧しいひとたちと思う。

メディアの入社試験には「日本語」はなかったのだろうか。こういう放送局には辞書すらないのだろう。


小学校で英語もよいが、まずは母国語をしっかり身につけてほしいものである。


私の高校の恩師、「八田有親」は帝大・広島文理大学哲学科をでられたかたで、

言葉にはとりわけ厳しい先生だった。

上記のような間違いをすればまず1時間は絞られた。


狩谷えき斎の歌にあるように言葉の意味を押さえないではものの本質に迫れるはずはないからだ。

おおよそ言いたいことが伝わればよい、という安易な考えでは大目玉を食らうだけだ。


100点満点の書き取りでマイナス100点という男がいた。

すべて空欄のままであれば0点で済んだのだが、

間違った字を書いたがために両方の字を知らないと評価されたのだ。

それほどに厳しかった。


先生の発問にちゃんと答えられないと言って叱られ、質問しないと言って叱られた。

50分の授業で10くらいの質問を準備しておかないと安心できない毎日だった。

徹底的にシゴカレタ。そんな思い出しかない。


          「発問」:「問いを発すること」言う側は分かっていて相手に問うこと

                 教師から児童・生徒への行為

                 先生は質問しない


          「質問」:「疑問点を問うこと」分からないことを分かっている側に問うこと

                 児童・生徒から教師への行為


卒業間際の私の作文の点数は何とも屈辱的な8点だった。そのショックはいまだに引きずっている。

後年、「10点満点だったのでは?」と慰めてくれる人もあったが、

作文の試験は満点でなければ0点も同じことだ。

八田教室では言わずもがなである。


法務省はさすがに文言に関してはきちんとしている。

「裁判員制度」の裁判では「裁判官」と「裁判員」が裁判を行なうとなっている。

言葉遣いとしては至極当然だろう。


法律や外交文書が「だいたい」では済まされないことは誰が考えてもわかることだ。

文言のひとつひとつに深い意味がある。それが文化というもので、決して粗略に扱うべきではない。


そもそも学問をするということは「言葉・文言」の定義をする事だと言い切ってもよい。


「生物」とは何か、「無生物」とは何か、「有る」とはどういうことか、「無い」とはどういうことか、

これらをひとつひとつ押さえていくことが学問のはずである。


物事をしっかり見極めるひとが少なくなっている。


言葉・文言に対して非常にラフになっていることを思えばうなづけることだ。

これでは他人にいいようにされてしまう。


「詐欺の被害は騙される方が悪い」という言い方も確かに事の本質を言い当てている。


いいかげんさにつけ込まれるわけで、

本質を見極めようとすることがクセになっているひとには詐欺も容易には近づけない。


政府もメディアも怪しげな情報ばかりの昨今である。

言葉・文言の定義をあらためて勉強しておかないととんでもない世界へ連れて行かれることになる。





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