STAR TREK 艦長試験問題「コバヤシマル」




民間の貨物船コバヤシマルがクリンゴン帝国との緩衝宇宙域で故障し、漂流している。

救難通信を受けた候補生は艦の指揮官として対応を迫られる。

救助に向かうことは条約に違反してクリンゴン領を侵犯することとなる。

ましてや重装備の宇宙艦では戦闘行為とみなされる状況だ。


救助に向かう受験生の指揮官だったが、

案の定、多数のクリンゴン艦からの一方的な攻撃を受け、艦は全滅する。

このテスト、どう行動してもコバヤシマル救出はできず、全滅を免れないプログラムになっている。


シミュレーション装置を壊し、見事に艦を全滅させた受験生が抗議する。


    生き残る術が全くない課題は論理的ではない。


監督を務めた提督が受験生を諭す。


    生き残れると思える戦いなど無いと思っていたまえ。



この試験問題、候補生が「絶望的な状況をどのように打開できるか」ではなく、

「絶望的な状況にあってどう対応するか、最後まで的確な対応がとれるかどうか」

を見極める試験だった。








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馬を人に変える




まだ携帯電話など無い頃、職場へ電話を借りに人が飛び込んできた。

2キロほど先でマイクロバスが横転したという。


電話をしている人を残し、急いで現場へ向かった。


駆けつけると現場は一帯に燃料が漏れ最悪の状況だ。乗客の影は無い。どうやら運転手一人のようだ。

道の反対側に車を止め、トランクから三角表示、発煙筒、消火器、バール、毛布を取り出す。

私の車には緊急時に備えていろいろ積んである。


それらを抱え道路を横断する。

何かのはずみで炎上するまでが勝負だ。身震いするほどの緊張が走る。

多くの現場を見てきたが、「下手をすると生きて帰れないかも」と思ったのは初めてだった。


群衆が集まりだしてはいるが、救助しようとする人は誰もいない。

まず、そんなところだ。いらついても仕方がない。


ありったけの声でひとりひとりに指示を出す。



    あんた! 三角板を立ててください



    あんた! 発煙筒を!



    あんたとあんた! 人を遠ざけてぇ! 



    あんた! 車を近づけないようにしてぇ!



そんな中でも状況を横目に通り抜ける車もある。「ああ やってる やってる」ってところだろう。

そういう車にはだいだい傾向がある。 偏見を生じさせるのでここでは書かない。


指示を出しながら、バールでガラスを破る。

ところがマイクロバスというのは法律で全面安全ガラスとなっている。

簡単には破れない。おまけに私は非力だ。時間が無い。あせった。



   あんちゃん わし かわる

   


大柄のおっさんが横から交替してくれた。



   端っこを狙うてぇ



ガラスの中央部では跳ね返されるだけで破れない。おっさんも悪戦苦闘だ。だからこそ安全ガラスなのだ。

何とか穴が開き、二人でガラスを引き剥がして中へ入る。


運転手は飛ばされてバスの中央部で呆然と座っていた。意識はあるようだ。


   だいじょうぶですよ いま 救急車もきますからね

   からだを らくにしてください ベルトゆるめますよ さむくないですか


    よかった よかった(おっさん)


燃料の匂いがとにかくきつい。一刻も早く外へ出したい。救急隊が来たのはその時だった。

さすがに負傷者の扱いは慣れている。狭い窓から運び出した。警察も駆けつけてきた。

(ああ、これで役目は終わった。)


どこのおっさんかもわからぬ人と無言でうなづきあった。

駆けつけたときはただの野次馬だった人たちも一仕事やり終えたような晴れ晴れした表情だった。


アンパンマンでなくてもこれくらいはできる。

馬を人に変えるちょっとしたコツさえわかっていれば・・・・


ちょっとしたきっかけがあれば人は誰でも "内なるもの" を表現できる、行動に移せる。  人間だもの。

馬を人に変えるのは魔法なんかじゃない。ちょっとしたコツ、きっかけで誰にでもできる簡単な事だ。


必要なのは    "The Art of Loving"       


★・・・・・・★・・・・・・★・・・・・・★・・・・・・★・・・・・・★・・・・・・★・・・・



           [The Art of Loving] は Erich Fromm の著


 
               Art は美術、あるいは文化とか学芸、教養と訳せるが、

              ここでは身についた教養、あるいは身についた徳と理解すべき。

              Loving も愛し続ける、愛しぬくとの意か。


              愛しぬくために身につければならないもの、

              本当の愛情をもって愛しぬくために身につけなければならない教養、

              そんな理解で良いと思う。


             「愛するための技術」と訳した人もいた。

   


          ※ MEMO


          事故で被災した人には「だいじょうぶですよ」と声をかけて欲しい。

          安心感を与える言葉が何より必要だから・・・大丈夫には見えない状況であっても

          意識があるかわからない人にも

          「助かりましたよ いま 救急車来ますからね」と安心させて欲しい。

 
        
          極端な話、首がちぎれていても・・・耳は最後まで聞こえているのだから。

          救助される側になったことがある者にしかわからないことかもしれない。




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失 礼____3流企業TOYOTA




     んっ? ああ いま寄席 あんまり おもしろくない


前の方に座っていたお客さんにこれをやられたと某噺家がこぼしていた。


言葉を知らない世代は「しゃれ」も理解できないばかりか、礼儀もわきまえていない。

これでは噺家も気の毒というものだ。

寄席へいくのに携帯電話なんか持っていくんじゃねえ。


以前、公演中に居眠りをしたお客がいたとかで談志師匠が問題にして騒ぎになったこともあった。


談志師匠の場合は師匠側に責任が無いとも言えない。


黒門町の師匠ならさしづめ


     客が眠りこけるってえのは おまえさんの 芸が未熟ってことなんじゃないかね


     
     くやしかったら 目を覚まさせる 噺をしてごらんよ


     眠るなんざ まだ おまえさんを 認めてくれてんだよ


 
     下手な噺なら うるさくって ねてもいられめえよ


ってとこだろう。

相手に失礼にあたることはどっちもどっちだ。


年寄りっぽい言い方になるので嫌なのだが、、、、、


近頃はマナーをわきまえてる人を見るのは流れ星を探すより難しい時代になった。

失礼という言葉はもはや死語になったのか。

年齢とは関係なさそうなので、一種の社会現象、社会病理と言えるのかも知れない。




老若男女、ひとさまのお宅をお訪ねするということがわかっていない。

電話の扱いでそれが露見してしまう。

携帯の電源は入れっぱなし。

ベルが鳴れば話を中断して電話に出る。

気がついたら社会はそんな人たちばかりになってしまった。


このような人にとってひとさまをお訪ねするとはどういう意味があるのだろうか。

どうにも不思議でならない。

訪問者の中で目の前にいる私とは一体何なのだろうか。

私のような小心者は不安、不信感が募る。


こちらが訪ねているのではない。

こちらを訪ねているのではないか。




以前、TOYOTA(石川トヨタ)の営業マンが来たが、話の途中やはり携帯電話に出た。

この営業マン氏、会社からの連絡を聞き逃すまいとインカム※さえ着けている。

これはディーラー社長の指示らしい。

こうなるとどちらが客なのかわからない。

こんな会社とはつき合いたくもない。

訪問されている方としては不愉快を通り越して情けない思いである。


     忙しくて仕方がない あなたと話してる時間も惜しい 


     本当はこんなことやってる場合じゃないのだ


こういうメッセージを発信していることに営業マン氏は気付いていない。

これを「失礼」という。「礼儀をわきまえていない」という。


世界的企業か知らないが、何とも無礼きわまりない会社である。

営業態度は3流企業でしかない。

ハイブリッド車を開発する前に徹底した社員教育が必要であろう。

これでは早晩斜陽の坂を転げ落ちるに違いない。




礼儀作法など学校では教えない。

それは私の時代とて同じだ。


自分にとって目の前に相対するひとはどういう存在なのか。

何のために自分がそこにいるのか。


これがしっかりと認識されていれば振る舞い方もおのずとそれに相応しいものとなろう。

認識されてないから無神経に話を中断することになる。


他者を気遣う気持ち、相手を敬う気持ちがあればそれは自然と形になって表れる。

それがマナー・礼儀であって、何も形式化された約束事ではない。


やむを得ない事情があって電話を受けざるを得ない場合は

先様にあらかじめ断りを入れておくべきだろうが。

しかし、「やむを得ない事情」など生涯に何度あるものか。日々乱発されてはかなわない。


ひとさまのお宅をお訪ねするするとき、私などは携帯は車の中に置いておく。

お訪ねする時間を電話に邪魔されたくはない。


同じ理由で訪問客があるとき、私は電話をとらない。

お客様の前で電話をとるなどは失礼というものだ。




この電話という代物、世に出てからかれこれ140年近くになろうか。

ふだん何気なく使っているが他の伝達手段と大きく異なる特徴がある。

即時性である。これが長所でもあり、短所でもある。


メールやFAXは私書函のようなもので受け手に受信時刻の選択権がある。つまり受け手に優しい。

一方で電話は先方の都合などお構いなしに生活に割り込んでしまう。

これは気をつけたい。


であるからアドレスのわかっている限り私はメールを利用する。

忙しくしているところへ不作法に割り込みたくはない。

タイムラグはあるが、せいぜい翌日には返事をいただける。

そんな気遣いを大切にしたいと思っている。


     出なくていいんですか?


     我が家は割り込み禁止  あとでこっちからかけます


     留守電モードだから用件は入れてくれるでしょう


その場面場面で何が一番大切なのかをしっかりと受けとめられる暮らしかたでありたい。



 

         ※

         とはいえ我が家で割り込み電話OKの営業マンも数人はいる。

         が、お付き合いのながさや関係の深さからくることであって

         一朝一夕にそうなったわけではない。

         世の中の営業マン諸氏くれぐれもご注意あれ。




         ※ インカム

         「インターコミュニケーション」(相互通信式構内電話)のこと。

         公衆交換電話網に接続されていない構内音声通信設備のうち、

         放送局やコンサートホール、多目的ホール、劇場などで使用されるもののこと。

         日本式省略形として「インターカム」ともいい、業界では「インカム」ともいう。

         互いに連絡を取り合うため常に耳にセットするタイプのものは

         空港の係員やドラマで刑事が張り込みなどの際に使用しているのでおなじみ。






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若手医師を育てる後援会




2008年の秋、ある後援会に入った。今風にいうならサポーターになった。


周りの誰もが知るように、私は根っからの組織嫌いである。

いや、「組織嫌いである」などと言っているのは私だけかも知れない。

遠慮のないもの言いが災いしてか、ついぞ先様からお誘いなど受けたことがない、

というのが本当のところだ。


終生、自由人でありつづけたい私にとって、会の規約だの煩わしい人間関係だのはどうも苦手である。

まして、政治家が絡んできたり、宗教色が出てくるともう駄目である。


そんな私がサポーターになったのも、政治家の影もなく、

一応は「学生を立派な職業人に育てよう」という崇高な理念のためだ。

なにより入会金や年会費など一切必要としない。ここがいい。今の私にとっては大事なポイントだ。


そんな会から例年、物故者の追悼集会の案内が届く。入会するひとは多くはなく、亡くなるかたが目立つ。

ここにも少子高齢化は如実に表れている。社会の行く末が案じられる。




幼い頃から私は医者が苦手だ。もっとも「大好き」というひとも多くはなかろうが。


ことに歯医者というあの理不尽なもの言いをする種族とはとても友人関係になれるとは思えない。

こちらの口にさまざまな道具を遠慮なく突っ込んでおいて、

「痛かったら言ってください」とは何事だ。言えるか !!


若い頃に通った職場近くの歯科医の場合は最悪だった。


若尾文子か大原麗子を思わせる美人の先生だ。これがいけない。

そんな清楚な印象の超美人が、見た目とは裏腹の信じられない鬼のような腕力でひとのことを押さえつけ、

拷問を楽しむがごとき振る舞いには私ならずとも女性不信になろうというものだ。


やはり、歯科医は同性がいい。


薬の呑み方も昔から下手だ。粉薬は喉に貼り付きそうで今もってうまく呑めない。




そんな私も、大阪万博のあった1970年に輸血を受けることがあった。生死をさまよった夜があった。


それが原因での肝臓病と知ったのは16年後のことだ。

そして今も解説本に書かれてある通りの病状を順調(?)に歩んでいる。


幸不幸というのはこちらの都合で言うだけのことであって、

何にしても解説本通りというのは、私も自然の摂理に沿って生きているということである。

摂理から外れることのないそんな命を今は喜んで受けとめている。




思えばこれまで多くのドクターのお世話になった。67という齢を考えればさほど不思議でもない。


ことに母が癌になったことでドクターやスタッフの皆様の "仕事" を超えた思いに触れる機会があったことは

私の人生観に強く響くものがあった。サポーターの件も動機はここにある。




2008年6月8日(日)、宗平医師は早朝より来てくださっていた。


姉の一人と孫達が母を看ているなか、私たちは別室で病状について説明を受けていた。

と、突然「先生!」と姉の声。

先生はすっ飛んで母の部屋へ。  ところが、私の足元には診察カバンが・・・・


最後の診察のため血圧を測ろうとする先生。カバンのないことに気づく。

間髪入れず脇からカバンを差し出す私。

ほんの一瞬のことであり、先生の動揺に気がついた者はいない。


一連の診察を済ませ、宗平医師が言ったのは、よくドラマにあるような「ご臨終です」ではなく、


     さとしさん おかあさんの そばへ いってあげて


だった。そんな宗平医師の心遣いが嬉しかった。


ところが、私と場所を入れ替わった瞬間、大きな声で


     ごめんなさい


と号泣する宗平医師。

「苦しむ時間が長くなるだけだから注射は止めよう」の提案をしたことを言っておられるのだ。

人前もはばからず号泣する大人を見ることなどそんなにはない。


( おいおい カバンは忘れるわ 号泣するわ あんた医者だろ しっかりしろ !!  )


こんな医師は見たことがない。胸が熱くなった。


後に奥様から伺ったのだが、先生は数日前から母のことが気になって一睡もしていなかったという。

これはもう医師ではない。気持ちは完全に家族の一員になっていた。

家族の一員として診てくださっていた。


無論、すべての患者に「思い」を入れておられないのも医師ではある。

場合によっては「思い」が邪魔になることもあろう。


しかし、医師に冷徹な洞察力と俊敏な判断に加えて、ひととしての熱い思いがあることは、

患者とその家族にとっては大きなささえになる。


治療中もさることながら、母を送ったのちも満ち足りたものを感じておられるのも、

そうした "ひととしての医療" があったればこそだ。


そんな宗平医師のような臨終に号泣する医師が育ってくれることを願って、サポーターになった。


資力もなく、体力もない私にも、社会に貢献できる生き方(?)が残されていたことが嬉しい。

役に立つ日までは借り物の体のような気分だ。

いい状態で(何がいい状態かわからないが)役立てるよう健康に注意したい。


私の会員No。は 1095 である。






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こどもサロン





ドタ ドタ ドタ ドドドド・・・・ 


ピンポーン


     あのね あのね おねがいが あります


     わかったよ いま いくよ



玄関をあけると 6,7人のこどもたち。


     どうしたの


     あのね んとね ばんそうこう ください


     ばんそうこう?


     このこね けがしたん ばんそうこう ください


     けが? どのこや?


     このこ んとね くちのなか きったん


     どれ あああ ちょっと ちいでてるな


     くちのなか ばんそうこうは できんとおもうけど


     とにかく なかはいって せんめんじょで くち きれいにせな


     はい こっち こっち


     さあ みなも はいった はいった


     うわあ すっげい


     ひぃろい~


     みんな アイス たべるかな


     たべるうっ~


     たべる たべる


     たべるぅ~


     いくつ いるのかな


     え~と あれっ さっきのこは?


     このこや


     このこって おいおい くち きれいにしてきたか


     うん


     いたいの とれた?


     うん もう なおった


     ねえ おじちゃん かくれんぼしていい?



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ピンポーン



     はあい なんですか


     おじちゃん いま なんじ



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ピンポーン



     おじちゃん ちょっと みてください


     んっ? いま いくよ


     どうしたの


     こんなん ひらった


     あら スズメの こやね


     がっこうんとこに おちとった


     どうしたら いいですか


     たすかりますか


     しなないよね


     おじちゃん たすけてやってください


     ・・・・・・・・


     じゃぁあ おいしゃさんに きいてみようね


     その状況では難しいと思います


     わかってます ただ こどもたちの気持ちを考えると・・・


     たしかに・・・じゃあ もってきてください



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「千客万来」の家はいつもこんな調子である。

名前をおぼえようとこころみても、そんな暇など彼らはあたえようとしない。

20畳ほどあるわが家のリビングはまさに前にある公園の延長と化している。


そんなわけだから何本もの空き瓶に小分けされた「あめちゃん」が

リビングのテーブルで "豆台風" をいつもまっている。


紙風船であそんだり、かくれんぼしたり、宿題をひろげたり・・・

わたしの心に準備がないまま学童保育の状況になる。


それにしても、ずっと気になっているのはこどもたちの表情だ。

時にうるさいほどはしゃぐ子らの横顔が一様にさびしげである。


「鍵っ子」が問題とされる時代があったが、何の解決もみないまま今日に至っている。

「鍵っ子」は死語にされてしまった。

わが家に集まってくるこどもたちはその「鍵っ子」たちである。


情操教育がいわれる一方で、

まだまだカンガルーポケットで育てられるべき年頃の子らがこの状況でいいのだろうか、と思ってしまう。


「おかあさんがいなくて 家にはいれない」といって、

いまにも泣き出しそうに女の子がやってきたときは胸に詰まるものがあった。


わたしの母は家で和裁教室を開き、わたしたち姉弟を育ててくれた。

けっして豊かではなかったが、いまにして思えば家に母がいたということは大変めぐまれていた。


社会全体の労働環境や所得水準の問題もあろう。

男女共同参画、雇用の機会均等ということもある。


男女間の理不尽な不平等については母の苦労をみてきただけにわたし自身がまっ先に声をあげたいことだ。

それはそうなのだが、さまざまなことを考えるときにこどもたちの気持ちを念頭においてほしい。

こどもたちは声をあげるすべを知らないのだから。


子のいないわたしの言うことである。甘い理想をいってられない現実から乖離していることも承知している。


それでも言いたい。

     「暮らしってなに」

     「家族ってなに」

その原点を考えつづけないと社会は変わっていかない。

日本という社会はけっして豊かではない。


夢のなかで、こどもたちはわたしにナイフを突きたてることで "SOS" を発信していた。

わたしにはその "SOS" を伝える責任がある。


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(夢)



深い山ではなかったが 母と二人 道に迷った


     さとし 先に行って道さがしておいで

     なに だらなこというとるがいね こんなとこに置いて行けるかいね


なにげなく3,4メートル下の崖下をみると誰かいるようだ

目に入ったのはうつ伏せになった 女というにはあまりにもあどけない女児だった  

しかも何も身につけていない


他にも何人かいる 男の子もいる そして誰もがまったくの無表情で横たわっている

まるで夢の島※に棄てられているマネキン人形だ


     あの子ら こんなとこで何しとるんやろ

     ちょっと あの子ら なんか普通じゃないわ


普通じゃないのはわかる こんな山のなかで何するでもなく横になっているんだから・・・


母の言う「普通じゃない」は「精神を病んでいる」ということらしい

確かに同年代の騒がしいくらいのはしゃぎぶりもなければ

大宇宙のエネルギーを凝縮したような輝きも感じられない


心を病んだ子らがなんでこんなとこに・・・・ ふと そのうちの一人の男の子と目が合った


と 突然その子が大声をあげた


     あいつら また僕らのおもちゃを棄てにきたんだ


そうか この子ら遊んでるときに大人に玩具をとりあげられたんだ  そして山奥に棄てられた 

それを悲しみ怒っているんだ


そればかりか 心の病んだこの子ら自身も社会から放り出され  ゴミのように棄てられている


状況は呑み込めた  が  いま自分は何をしたらいいのだ  何が自分にできるのだ・・・


次の瞬間 私たちのいる所まで梯子がかけられた

動揺する私を見透かしたようにこどもたちが迫る


声を上げた子が先頭にいる それぞれ手にはナイフが握られている

侵入者に対する攻撃 大人たちへの復讐だ


恐ろしいと言うより こどもたちが可哀想だった

私はこの子らに何を言えばいいのだ 何をいってやればいいのだ・・

どうしたらこの子らを助けられるのだ


何も答えられないでいる私の身体にナイフが次々と突き立てられていく


しかし 表情のまったくなかったこどもたちが私にナイフを突き立てる瞬間だけは

とても悲しそうなこどもの顔だったのは何だったのだろう


気がつくと私は自室のベッドに起き上がっていた


何もできなかった 語りかけてやれなかった・・・自分の無力を恥じた


山の中でこどもたちに出逢ったのは夢には違いない

しかし こどもたちに何も語りかけてやれないでいた自分は現実だ


60年以上も生きてきて 日頃はもっともらしいことを話していても

こどもたちに刺されるまま立ち尽くすしかなかった


まだまだ道は遠い




        ※夢の島


          戦前、東京湾に飛行場建設として埋め立てられたのが始まり。

          資材不足で工事は中止されたが、

          戦後、東京都は当地をごみ処分場として埋め立てを再開、

          埋め立て終了後は東京都立夢の島公園が開園。

          
          スポーツ施設が建設されるなど緑の島となっている。

          ごみの島という雰囲気はない。








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雑 草


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わたしの行動様式は社会全体でみると少数派であるらしい。


何を大切におもうかも「特異」といわれることがある。他人様の人生ではない。当然、それでいいと思っている。

少数派であることに後ろめたさやためらいなどはない。


しかし、少数派であることを認識しておかないと時に面倒なこともおきる。


この季節、白い花をつけるドクダミは無粋な私でも " 風情 " を味わうことのできる植物だ。

なにより、一輪挿しに投げ入れるだけで " 絵 " になってくれるのがいい。

だれが入れても趣があるというのは、いわば、この花の優しさなのだろう。


今の地に転居する際、ドクダミの生えていた辺りの土を持ってきた。

が、このドクダミにたいする愛着をわかってくれる人は多くはない。


この住宅団地ができて15年ほどになろうか。

造成した土はあまり栄養成分の多くない砂のような土だ。当然、植物は育ちにくい。

肥料を施したり土を入れ替えればよいのだろうが、

生来のめんどくさがりの私はクローバーを植えることを思いついた。


生命力の強いクローバーの根に共生する根粒バクテリアの働きに期待してのことだ。

荒れ地に強いクローバーがあることによって小さな生物も集まってくる。自然界の力に期待した。


ドクダミとクローバー。

思えばそれらは園芸家や庭いじりの好きな人から見れば天敵のような存在である。

クローバーの種に数万円かけるなぞはよほどの酔狂にみえるだろう。


足が弱っていることもあって、一昨年は庭の手入れを業者に頼んだ。

ドクダミとクローバーを残し、半日ほどの作業だった。

それを知った友人が昨年、庭の手入れをかってでてくれた。


「じぶん こういうこと すきやし きにせんでいいよ」


友はありがたい。


友が帰ってから・・・・・・


「無理ないわなぁ 多くの人にとっては じゃまな草 やもんな」


ちょっときれいすぎる庭をしげしげと見つめていた。



何故かはわからないが、園芸の好きな人は目的以外の植物をことごとく抜き取ってしまう習性がある。

それが園芸といえばそうかもしれないが、そういう庭はあまり好きではない。


「雑草」を摘み取るのが仕事と考えているようだが、そもそも「雑草」とは何?

じゃまな草を「雑草」というようだが、私からいえば単に「関心がない草」というに過ぎない。

名前も知らない。自然界の中でのポジションなど考えたこともない。それで「雑草」と呼ぶことになる。


転居前の鶴来町の家では敢えて何もしないほったらかしの庭としていた。

当然、うっそうとしていた。


ある日、そんな庭にササユリがはえてきた。花屋で買うテッポウユリと違って愛らしい清楚な花だ。

近所の農家の奥さんが分けてほしいと何株か持っていった。

後日、「枯らしてしまった」というので聞いてみると、大事に育てようと思って周囲の雑草をとり、

根元まで陽があたるようにしたという。


農家の農法というのは自然界には通用しない特殊なものなのかもしれない。

自生してきた環境を壊せば枯れるのも自然の成り行きということだろう。


ほったらかしの庭は人間の身勝手さのない、実は豊かな環境だったのかもしれない。

虫はいる、ミミズはいる、トカゲはいる、ときどき蛇も見かけた。

小さな生物たちのオアシスのような場所だったようだ。


確かに園芸店には売っていないような草ばかりだが、

それぞれに生き生きと茂っているさまは何というか「まったり」とした空間だった。


「風の音、蟲の音など、いとあはれなり」


そんな風情は人工的な庭造りでは味わえないのではないだろうか。

効率を追い求める社会にあって自然との向かい合いかたまで大切なものを忘れてしまっているような

気がしてならない。


自然界の中でポジションをあたえられている草を、名前を知らない、関心がないというだけで、

バッサバッサと切り捨てるあり方はやがて人間関係に対してもそのようにおよぶだろう。

しかし、多様性のない社会は変化に弱く、移植に失敗したササユリの轍を踏むことになる。

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天動説の子




こどもサロンに来た子の中に天動説を唱える子がいた。


   「おひさまが ちきゅうの まわりを まわっとるんやね?」


   「どうして そうおもったん?」


   「まいにち みとったもん」


   「ひがしから あがってきて にしのほうへ おりていくの みとったもん」


   「おひさまが いくつも あるわけないし ぐるぐる まわっとるんやね」


凄い! 私などは幼いとき、おひさまは毎日ひとつ出てくると思っていた。


   「じゃあぁ うんと べんきょうして いつか おひさまの せんせいに なるといいね」



何をアホなこと・・・といわれるのが今の時代だろう。

しかし、私はこの豆天文学者にエールを送りたい。

非科学的とあざ笑う人は「科学」の何たるかを知っていない。


自分では何の検証もしないで他人の学説の受け売りで「地動説」をいっているに過ぎないではないか。

人々は本質的にはガリレオ以前と同じであることに気付いていない。

科学は現象の観察から始まる。夏休みの間、ずっと観察して結論を出した子のほうが「科学的」といえる。


思えば今の教育(学校教育も含めて)は子どもの素朴な疑問に答えるような教育、

疑問を育てる教育になっているのだろうか。


子どもの素朴な疑問は本質を突いた鋭いものが多い。

おとなは変にごまかすか、ただの受け売りを披露するに過ぎないのではないか。


NHKの「夏休みこども科学電話相談」はいつ聴いていてもドキッとする。

番組名を「夏休み大人こまらせ電話相談」と替えてもいい。


   うちわであおぐとなぜ風が起きるのですか? (これは実に高度、大人はギャフンだ)


   同じおかずを毎日食べれば飽きてくるのに、なぜご飯は飽きないのですか? (最高!)


   アメンボはなぜ水にうくのですか?(いいね)


   魚はなぜ赤ちゃんの時から泳げるのですか?(いい質問)


   あったかいものを食べると、あたたかい気持ちになるのは何故ですか?(えぇッ?)


するどい! 答える先生がたも大変だ。

昔子どもだった者にも解放して欲しいと思うのは私ひとりではないと思う。 

  
昔子どもだった者は電話して聞きたい。


   エネルギーって何ですか?


   
   空間って何ですか?

   
   時間って何ですか?

   
   そもそも物体とは何ですか?


   
   存在するとはどういうことですか?


   
   生命って何ですか?


   
   生きるってどういうことですか?(宗教的意味ではなく、物理学的意味で)


そんな疑問が私の中にいっぱいあって・・・


この私のさまざまの疑問を解いていくのはどうも「量子論」という学問にあるらしい。

このことがわかったのは最近のことだ。

青年老い易く学成り難しだ。すこ~し気付くのが遅い。だいぶ遅い。


  (ニュートン以来の近代科学の先にある量子物理学の世界で論ずるようなことに疑問を持ってしまった少年に

   解答を与えてくれる先生は少年の周りにはいなかった。)


時とともに疑問がなくなってしまう大人たちがいる。時とともに疑問がどんどん増える子がいる。

用意された解答では納得できない子がいる。素朴な疑問を抱き続ける子がいる。


素朴な疑問を受けとめるのは学校では無理なのだろうか? 先生がたでは無理なのだろうか?


そんな子どもたちは落ちこぼれと呼ばれるしかないとしたら、

社会は宝石の原石を磨かぬまま放置することになりはしないか。

学校が無理なら学校以外を用意する必要がある。


無論、私などはどう磨いてもただの石でしかないが・・・・








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学校へ行く意味




大谷大学卒業生のかたから聞いた話。




学生たちが学長先生担当の「真宗学」(親鸞の思想)の講義に出たときのこと。

ある学生が学長先生に質問をした。(残念ながら、内容は話してもらえなかった)


学長とは当時90歳の曽我量深先生である。後に昭和の名僧と語られる真宗学の権威である。

そんな大先生だから学生の質問にはいとも簡単に、しかも理解しやすく答えてくださると誰もが思っていた。


ところが・・・ 曽我先生は沈黙のまま考え込んだという。


5分、10分・・・時間が刻々と過ぎていく・・・

学生たちの言葉によると、腕時計の秒針の音が教室に響いて聞こえたという。

まさか秒針の音は聞こえないと思うが、どれほどの緊迫感かは想像がつく。


やがて先生は顔を上げ、


     申し訳ありません。あなたにお答えするだけのものを私は今、持っておりません。

     さらに精進したいと思います。申し訳ありません


と、何度もその学生に謝られたという。


場に居合わせた学生たちは感動のあまり鳥肌が立ったと熱く語っていた。


孫のような学生に対し、適当な言葉でお茶を濁すこともせず、

真摯な姿勢で臨まれる大先輩の態度に接し、「この大学へきて良かった」と心底から思えたという。


この状況を文字にするとどうだろう。

学生が質問した。先生からは答えがなかった。それだけになってしまう。通信教育ならそんなことになる。


しかし、大事なことは秒針の音まで聞こえたという、その緊迫感を味わったことだ。

大先輩の真摯な姿勢を目の当たりにしたことだ。


何も答えが無かったのではない。大きな大きな答えを先生からいただいたのだ。

こころの宝石箱で生涯輝きつづける "大切なもの”をいただいたのだ。

独学や通信教育では決して得られないことだ。


学校へ行く意味とはこういうことだと思う。






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疲れた人 重い荷を負っている人 は ・・・・・・・





疲れた人 重い荷を負っている人 は このブログにくるといいよ




ウィンザー通信、、、このブログにめぐり逢えたひとは幸せです。


" 何もかもさらけ出せるかた " がここにいます。


己をさらけ出す、なんでもないようなことですが、人間これがようできません。


大いなるものに生かされている確信と、

生きとし生けるものへの深い愛情や畏敬の念、

なにより人間を信じる気持ちがなければとてもできることではありません。


ときに理不尽や世の不条理にむけられる

激しい言葉からでさえこのかたの深い人間愛を感じます。


こころまで着飾ったインチキ文化人や、

たてまえしかよういわん評論家みたいなひとが多い今の社会。

そんなニホンにうんざり気味だった私も " まうみさん " の " ウィンザー通信 " で

ひさしぶりに " ほんとの人間 " にでおうた思いです。


疲れたひと  こころに 重い荷を負っているひと  は このブログにくるといいよ。

(このフレーズ どっかにあった? きづきました?)


らくぅな気持ちになれるし、とてもHappyな一日になって、

もうちょっと頑張ってみようかって思えてくるし。












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空と海




マンハッタン街角出身の仔猫 黒くんと縞くん

里親になってくださったのは アメリカ東海岸の小さな町に住む まうみさん 一家


まうみさんちの みなさんは 猫の毛アレルギー なのに猫好き

息子さんが鼻をグズグズ まうみさんの鼻は完全に詰まり ご主人の目が痒くなり・・・

光景を想像すると なんか ホームコメディーのようで・・・・

うれしくなって涙が出てきます

ちいさな命を助けてくださってありがとう



名前をつけるのに悩むのは猫であってもおなじこと

で まうみさんたちが つけた名前は

黒猫ちゃんを「空」 縞猫ちゃんを「海」

「空(そら)」と「海(うみ)」・・・じゃなくて

「空(くう)」と「海(かい)」

わたしも結構ユニークなほうですんで こういう感性すきです



けど 仔猫ちゃんたち 慣れるまで とまどうかも・・・



     くう ! かい !


     くうかい !


     うん たべる たべる


     %&%$#&%$%?&





     くうかい !


      
     ううん ぼく かい だよ


     %&%$#&%$%?&





     くうかい !


     ねえ おかん それって ていねいな ニホン語でいうと


     おめしあがりになりますか って いうんだね


     %&%$#&%$%?&





空くん 海くん やさしい おかんが できてよかったね

いつまでも幸せにね・・・







※ 空と海の成長日記は ⇒ ウィンザー通信 
            http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr








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